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カテゴリ:スピノザ
<1>よりつづく
しかしその当時、すでに木田はこのような現代思想の潮流をすでに俯瞰していたのである。はて、彼は、どのような位置に属していたのだろうか、などと思いをめぐらしてみる。その自叙伝の中では、学生対策に翻弄されたようないきさつが書いてあったので、少なくとも学内闘争のバリケードの内側にいた人ではないようだ。 あのような時代背景の中で、すでに木田はこのような仕事をしていたのだ、ということに、何はともあれ留意しつつ、やはり、今、この本を読んでも、私個人が、「これだ!」This is it!と感嘆を上げるほどのことを見つけることはできない。しかし、あれから3~40年経過し、時代の裏で、低音でベースのリズムを刻み続ける思想的潮流が、この「現代の哲学」に表現されているかのようだとも思う。すくなくとも、この本がいまだに読まれているということは、そのあたりを的確に捉えていたからだろう。 メルロ=ポンティ自身もあるところで、哲学というのは「どこにもありどこにもない」ものだと言っているが、たしかに哲学というものは知のどの領域にでもあるが、といって哲学に固有の領域などというものはどこにもないようである。むしろこういうふうに、当代の政治や科学や文化の諸領域と積極的な対話を試み、そこに共通の志向を読み取るというところにこそ、哲学の固有の使命があるのではないか。p220(現本あとがき1969) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.02.01 09:30:17
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