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テーマ:一冊仕掛人(459)
<1>よりつづく 長じて結婚した妻の実家もまた道元を祖とする寺の檀家だったし、その妹が嫁いだ先も、さらに別な道元を祖とする禅寺の檀家だった。他の親戚も、どういう因縁なのか、道元を祖とする禅寺の檀家がほとんどだ。道元が興した福井の永平寺にも短い間ではあったが訪れたこともあるし、みやげ物のすりこぎは、今でも我が家で活躍している。まわりを見渡せば、ほとんどが、道元、道元、という私の環境なので、仏教、といえば、道元、というのが、ごくごく自然な感覚だった。 だから、Oshoが最期の講話シリーズで、ZENを取り上げ、その中に道元を取り上げた時、それは当然だろうと、わが意を得たり、という感じで納得していた。だから、あまり本を読まない時期だったとしても、この本がでた92年10月には、すぐ購入した記憶がある。同時期にでた「空っぽの鏡・馬祖 」にはほとんど目を留めなかったのに比べると、雲泥の差だ。馬祖については、いまでもほとんど知らないが、多分Oshoが講話で触れることがなかったら、馬祖という名前さえ知らないで一生を終えたと思う。 あれから何年も過ぎて、私の傍らにあった本をなんどかめくりはじめたが、最後まで読み通したことはなかった。ほかのニューズレターなどで内容は分かっていたし、同じシリーズの類書と、どう違いがあるのか、そんなことさえ良く判明しなかった。 今回、このブログを進めるにあたって、次第次第にOshoのほうに打ち寄せられ、しかもZENシリーズを読むことになるに従い、この「道元」は、私にとっては、新たなる意味を持ち始めた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.04.04 23:59:48
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