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カテゴリ:スピノザ
「タブーの書」 <1> Vol.2の108冊目はこの本。Oshoの「私が愛した本」はアラン・ワッツの思いでに捧げられている。 アラン・ワッツは1915年1月6日イギリスに生まれ、19歳で最初の著書「The Sprit of Zen」を書いたというから早熟だ。アメリカに渡っていくつかの仕事を通過して60年代のカウンターカルチャアにおいてカリスマ的リーダーとして活躍した。そして1973年11月16日に亡くなった。 翻訳をしたのは竹淵智子。1981年にOshoのサニヤシンになって、Ma Dyan Yogaの名を持つ。ワッツはこの本を1966年にニューヨークで出版している。その本の翻訳が1991年にめるくまーる社から出版されることになったのは、当然、Oshoのかの本がひとつのきっかけを作っていることは十分考えられる。 フィクションは、それらがフィクションとして受け取られるあいだは役に立つ。p122 最初に指を入れて開いたページにこんなことが書いてあったことにドキッとした。「聖なる予言」シリーズがフィクション/ノンフィクションがないまぜになっていることにちょっとイラついていたことを思い出した。だが、ここでのワッツの文脈は、小説かジャーナルか、という意味ではない。 私達が自然の基本的な現実だと感じている多くのことは、実は一般に容認された世界観、あるいは伝統的な世界観から生まれ出た社会的フィクションだということを、私たちはすでに発見してしまった。p121 だが、そのフィクションが事実として受け取られるようになると、数々のトラブルが発生する。p112 兄弟愛や人類愛という名のもとに設立される宗教や非宗教は、ことごとく分裂的で闘争好きなものだ。たとえば実際の政治において、真に無階級で民主主義的な社会の実現をめざすプロジェクト以上に闘争好きなものがあるだろうか? p162 人権、国際平和、核兵器の抑止などにかかわている人々がこのことを理解することこそ、最も重要である。これらは精いっぱい支持されるべき疑念の余地のない主張だが、その精神において、対立するものへの敬意を欠いたり、それらを完全な悪や狂気と見なしたりしてはならない。p182 ここは翻訳者の腕もあるのだろうが、なかなか面白い表現だ。自分はどっちだろう。とげとげの部分もあるし、ねばねばの部分もある。あえて言うなら、ネグリを中心とするマルチチュードの流れは、私から見れば「とげとげ」一派に見えて読み通せないことも多いし、「聖なる予言」の翻訳者たちの一連の訳業などは、私からみれば「ねばねば」しすぎでウザったいと思うことが多い。 こういったまやかしのうちでも最たるものは、もちろん死である。意識の永遠の終結として、またあなたや宇宙に関するあなたの知識がたんに停止する地点として、あなたなど存在したことがなかったかのようになる地点として、死を考えてみてほしい。p213 Oshoの「死・終わりなき生」あたりを思い出した。死こそ最大のフィクションである、というのはOshoのフレーズだが、ひょっとするとワッツから借りてきているのかもしれない。なんせ、ワッツのほうが16歳も年上だし、ワッツのほうが先に本を出している。 ワッツには英文で20冊以上の本があり、この「タブーの書」のほかに、「心理療法・東と西」の邦訳がある。また翻訳者Ma Dyan Yoga(竹渕智子)には、キャロル・アドリエンヌ「人生の意味」、カミール・モーリン「女性のための瞑想」、クリシュナムルティ「あなたは世界だ」などの訳業がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.11 00:39:21
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