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カテゴリ:mandala-integral
必ずしもチベット密教におけるマンダラについてに限定した話ではないが、チベット仏教に詳しい立川武蔵教授が、講談社メチエの場を借りて、「ブッディスト・セオロジー」のシリーズを展開しており、この本はその第二巻。「聖なるもの 俗なるもの」、「仏とは何か」、「空の実践」などがシリーズに加えられている。 驚いたことに、この本において、ハイディガーに続いてスピノザについて述べられていること。当ブログにおいては、ようやく「スピノザ」カテゴリが108に達したところだったが、このタイミングで、またスピノザについて考えた。 スピノザの自然と神との関係と、仏教の密教的世界観を対比させますと、密教の世界観の特質がより一層はっきりします。密教とは何かおいうことは、第一巻において簡単に述べました。スピノザの体系にあっては「自然が神である」という側面と「神が自然である」という側面とは厳密に区別できません。スピノザの体系は、神を自然の中での内在因として規定するゆえに、汎神論的な世界観に近いものでした。世界(自然)と神(聖なるもの)とが一体であることは、仏教の密教的世界観と共通する特質であるといえましょう。しかし、スピノザが「自然は神と同じく必然的に存在しかつ完全なものである」というとき、彼は実在する完全なものを認めない仏教的な世界観から遠く離れていきます。p81 密教にあってはたしかに「神」と呼ぶことが妥当である存在が登場します。たとえば、大日如来は冠をいただき、胸飾りを付け、天衣を着た姿で図像化される一方で、この世界が大日如来の姿そのものに譬えられています。密教の行者にとって大日如来は単なる幻影ではありません。大日は、行者(実践者)にとって帰依の対象となる人格神です。したがって、さまざまな種類の宗教を視野に入れて論を進める時、大日を広義の「神」と呼ぶことは許されると思います。英語でも、密教に登場する大日や阿弥陀をdeity(神)と表現するのは一般的です。だからといって、大日をはじめすべての仏や菩薩が恒常的な実体であるというわけではありません。世界もそして仏も菩薩も「空なるもの」であり、「縁起せるもの」である、というのが仏教の大前提です。つまり仏教では「空なる神」が考えられているのです。p83 ここにおける著者の解説は、密教といっても日本的理解のなかで展開されているようだが、いずれにせよ、当ブログにおいては、これから大日如来との出会いを求めようとしているところである。アガータ多火手とのシンクロが始まっている。 「大日経」に少し遅れて、7世紀の末期に「金剛頂経」が成立します。この経典に述べられた金剛界マンダラは、「大日経」に述べられた胎蔵マンダラとはかなり異なります。「金剛頂経」は、地面に書くマンダラではなく、心の中に瞑想するマンダラを主として述べています。後世、「金剛頂経」は「ヨーガ・タントラ」と呼ばれる密教経典(タントラ)のグループに属すると考えられていますが、この経典ではヨーガの行法(瞑想法)を中心としたマンダラ儀礼が述べられています。p189 マンダラには「悟りを得た仏」と「仏が住む世界」との二つの要素が必ず表されている(p205)とのことである。この本、やや広口で、あちこちへと意識が拡散してしまい、注意力が低下してしまいそうなところもあるが、各カテゴリへのネトワーキングという意味では、当ブログにとって、大変よいマンダラのひとつになってくれている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.28 22:21:32
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