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カテゴリ:mandala-integral
<1>よりつづく 集合的無意識 Osho、社会、自分の三つのカテゴリを統一していこうとすると、次第次第に「集合的無意識」というテーマが、当ブログのひとつのプラットフォームになってきた。 6年間にわたる無意識の闇とのすさまじい格闘の後、ユングは一筋の光明を見出した。マンダラである。マンダラはサンスクリット語で「円」を意味し、自然のあらゆる要素に見出される円のパターンを表しており、歴史を通じてすべての民族の絵画や舞踏で表現されている。それは人間のこころの奥深くに住まうイメージであり、さまざまなかたちで、おのずとあらわれてくるものであって、構築され得ない内なるカオスに形を与え、調和と秩序を回復する自然の理法なのである。 ユング同様チベット仏教も随伴する危険には気づいているので、適切な安全装置をかけるよう主張している。タントラの観想とほぼそれと比較しうるユングの能動的想像法においては、資格ある教師ないしは分析家の指導が必要とされる。そのうえ金剛乗の実践においては、あらゆる観想の初めと終わりに空の瞑想とイメージの溶解という作業がある。この作業が象徴との同一化が持続することを防ぐのである。瞑想者は仏がイマジネーションの産物であることを知らされる。p121 このあたりで、当ブログも重要なポイントに差し掛かってきた。チベット密教に触れたとたんに、常に言われてきたことだが、導師、マスターが、ほぞ絶対的条件として提示されている。かならずしもその「修行」に足を踏み入れていなくても、一般に公開されているチベット密教の行法は本でよめる。もちろんそれは単に文字面だけのことであり、一歩足をふみだそうとすれば、必ず導師の存在を必要とされる。 導師の存在、それは潅頂=イニシエーションの必要性、ということなのだろうが、当ブログは、後述するように、当ブログなりの立場を保ちながら、この旅をもうすこしつづけてみようと思っている。精神世界の旅において、ハイリスクハイリターンを求める気持ちは毛頭ないが、臆病になる必要はなにもないと思う。当ブログはノーマルリスク・ローマルリターンで、ごく普通の旅を続けようと思う。 ここにきて「瞑想者は仏がイマジネーションの産物であることを知らされる」という一行は重い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.20 20:51:49
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