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カテゴリ:osho@spiritual.earth
「TAO永遠の大河」 <3> 老子を語る これはあなたの心(マインド)にとって、取っておきの最高級のシャンパンと言ってよいでしょう。ただし、要注意---もし心(マインド)がこれを飲んだなら、それもとことん飲んだなら、あなたはあなたが後生大事に抱えていたその心(マインド)をなくしてしまう羽目になるでしょう。そして、あなたはもう二度と、合理的な、分別ある、博識で、予測可能な、安全な人間ではなくなってしまうかもしれないのです。そのかわり、そこに最後には愛と空間(スペース)と平和と喜びがあるかもしれません。しかし、あなたには絶対にわからない。 警告しましたからね! スワミ・アーナンド・ソメンドラ「序にかえて」p7 「高弟のソメンドラさん」は、もうとっくにOshoの前から姿を消している。流れのなかにはいない。ひょっとすると、この本の著者だって、あの年配女性読者によれば「高弟」のひとりには違いない。いや、そういう意味では、かなりの数の「高弟」がOsho前からいなくなってしまった。あのセラピスト、あのリーダー、あの有名人。 そのことは何を意味するのだろうか。その意味するところは、Oshoのワークは滞りなく進行している、ということである。Oshoは「高弟」を必要としない。もしマヌーバーとして必要としたとしたら、そこに膿を集めて、摘出手術をするための、目印として、使った形跡はある。 私も、心の中から「低弟」なんて、自虐的表現をいつまでも身にかぶるつもりはない。日本的謙譲の美徳であれば、それはそれで「つまらない者」ですが、などと表現することもありうるだろう。しかし、自らを、個的なものと考えず、一般名詞としての「個人」として考えるなら、自分は決して、「つまらない者」ではない。 ソメンドラはソメンドラのワークをした。Oshoはソメンドラを使ったワークをした。その他、Oshoを通じて、自分のワークをし、自分のワークを通じて、Oshoに「使われた」、「高弟」たちはたくさんいる。しかし、それは本当は、湖の水面の波の現れ方を、そう見てしまっただけにすぎない。 Oshoのもとにあって、高いも低いもない。あったとしても、それら二つの価値は、互いのなかに消えていく運命にある。ほんのわずかな瞬間に、時間と空間のなかで、そのような表現になるときがある。だが、それは固定的な永続的なものではない。 Oshoには時代の流れに沿って、いくつかの姿がある。その変貌の中でも、この時代1975/06のOshoは、もっとも「対話的」であったのではないだろうか。これらの対話は極めて重要だ。のちにこの本は、「TAO-老子の道」(上)、(下) となって、対話部分がカットされ、二冊分冊で再発行されている。シンプルでよい面もあるが、あらためて、この4冊本の中で、対話を楽しみながら読み進めるのもオツである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.23 15:43:47
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