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カテゴリ:osho@spiritual.earth
<3>よりつづく Ya-hoo! ようやくこの本で、TAO全4冊が終わり、玉川「OSHO、禅を語る」リストを卒業できる、って、喜んでいいのか、どうか。すでにOshoは、Zenを遠く離れているし、この本において彼は老子さえ語ってはいない。導入項として、切り口として「老子」は語られているが、本質的に語られているのは、Oshoワールドだ。もちろん、老子とOshoがどこまで一体化・同化したのか、というのは、残された読者の判断にゆだねられるだろうが。 老子においては、信者もなければ患者もない。クライエントもいなければセラピストもいない。ただただ、人間がいるのみだ。神さえ、いない。 当ブログのブラブラ散歩において、やはり、クライエントとかセラピストとか、修行者とか、導師とか、潅頂とか、儀式、などという言葉は、本質的にはなじまないようだ。客観的に、ジャーナリステッィクに把握することは、それほどやぶさかではないが、しかし、自らの世界に取り込むことはなかなかできない。 チベット密教を「修行」するにあたって、当ブログでは、いたずらにあちこちの導師たちの潅頂を受けようとは思わない。ただひたすら、内的なマスターとのつながりのみを基調としようと決意したのだった。同様に、万が一、トランスパーソナルなセラピーに関心があったとしても、その構造的理解は、ひたすら、わがマスターのビジョンに感応する自分の内面を羅針盤とすることにする。 つまり、臨床的治療とか、発菩提心など、他人との関わりに関する立場は、単純に「愛と瞑想という二つの翼」、という理解にとどめをさすことにする。サニヤシンとしての私は、「出家者」でもなければ、「修業者」でもない。「病者」でもなければ、もちろん「罪びと」でもない。何かの構成員でもなければ、また、ひとりヒマラヤにこもる孤高をよしとする立場でもない。 人間として、ごくごく普通に生きよう。時には、ひとりになって瞑想し、時には、人びととふれあい、愛しあう。ごくごく当たり前でいいじゃないか。もし、なずけるなら、OshoがなずけたNew Manというキーワードが手掛かりとなってくれるだろう。体系化されすぎて、極端なイマジネーション力を要求されそうな密教の世界も、ことごとく理論と実験に振り回されそうなセラピーも、本当は、私の道ではない。 8番目の質問 何も難しいことはない。<全体>があなたを通じて動くとき、そこにあなたはいないだろう。区別する必要など何もない。そこにあなたはいないのだ。あなたは広大な無だ。しかし、そこにあなたがいるときは、あなたは別個な単体として動いている。<全体>があなたの中で動くとき、そこにあなたはいない。 自分を感じる可能性があるのは、あなたが流れに逆行しているときだけだ。もし川とともに流れていたら、自分など感じられるはずがない。川を感じはするだろうが、自分を感じることはない。そして、遅かれ早かれ、あなたは川になりきるだろう。p440 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.23 15:39:54
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