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カテゴリ:agarta-david
ケン・ウィルバーをむしろ、外的な存在として客観視することのほうが楽なのだが、この本もまた、20数年、自らの傍らにありつづけた一冊であったとするなら、わが内なる「アートマン・プロジェクト」として語るほうに妥当性がでてきているようだ。 「統合心理学への道」P446で著者自身は「1983年、私は、自分を『トランスパーソナル』心理学者、ないし哲学者と呼ぶのをやめた。そして自分の仕事を『統合的』ないし『統合』と考えるようになった。」と述べている。著者はニューエイジと呼ばれることにも「ひどく憤慨した」 「グレース&グリッド」393pという。 日本語翻訳版がでたのが1986年だから、この間のギャップを、日本語翻訳者たちは知っていたはずなのだが、あえて彼らは、著者を「トランスパーソナル理論」のヒーローとはやし立てて、日本社会に紹介した。もっとも、この本自体は1978年当時に書かれたわけだから、その意味ではその紹介もまったく間違っていたわけではないかも知れないが・・・・・。 しかし、2001年になって、玉川信明が「トランスパーソナル心理学との相対関係」と銘打って、Oshoの世界を探訪しようという時、ケン・ウィルバーを「トランスパーソナル心理学の二大人物」p252の一人と見なすに至っては、トランスパーソナル心理学というパラダイムそのものが、不確実なものになってしまっている、といえるのではないだろうか。 二大人物の他方の一人とみなすスタニスラフ・グロフについては、当ブログではほとんど取り上げてこなかったし、読者としても、彼の本になじんだことはない。しかしながら、すでにその風評は耳にしており、薬物的研究以降、その過呼吸における神秘体験から生まれたブレス・セラピーは、私自身も70年代から体験しているし、トレーニングをうけた以降、私自身もセラピストとして臨床の体験を積み重ねた。この点については後述する機会があろう。 ユングは生前、後世の後輩たちによって、自らがトランスパーソナル心理学のリストに名を使われることを知らなかっただろうし、ケン・ウィルバーも、その名を拒否したとしても、他者においてトランスパーソナル理論家という名称を冠せられることは止むを得ないところがあろう。 しかし、リバーシング、ブレスセラピー、ホロトロピック・セラピーと名前はさまざまあれど、グロフが自らの基礎を、薬物体験、あるいはその集積研究においていたことを考えると、ウィルバーとともに、これら二大人物(?)がささえるとされるトランスパーソナル心理学とは、いったい何か、という問いが、また頭を持ち上げてくる。 Oshoは現代の心理学を一括してフロイトに始まるマインドの心理学として総括する。(反面、チャクラだのクンダリーニ等と呼ばれる東洋伝統の瞑想の科学化も訴える) この観点でマインド心理学からブッダ心理学への移行を訴えている。この言葉は本来人間変容の手段としての宗教のあり方としては、当然の要求であり、真実求められるのはブッダ心理学なのだ。玉川信明「OSHOの超宗教的世界」p105外野席に座って、リアリティのかなり遠くから、当事者たちに向ってヤジを飛ばすような段階では、仮に「ブッタ達の心理学」がすでに完成していたとしても、その利益を自らのものして享受することはできない。玉川であっても、当ブログであっても、「ブッタ達の心理学」の開発プロジェクトチームとは、まずは自分自身なのだ、という自覚が必要だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.24 11:23:59
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