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カテゴリ:agarta-david
ん? 「預言者」ってこんなにコンパクトだったっけ? ・・・・と思うほど実に見事に手のひらサイズに収まっている。確か以前に読んでいた「プロフェット」は、この約30ほどあるテーマのそれぞれに章建てがしてあって、ひとつひとつ、「なになにについて」、とまるで単語帳みたいに細切れになっていたのだった。 今回、あらためて、こうしてひと連なりの散文詩として読んでみると、じわじわと新たな感動が押し寄せる。何度読んでも、やっぱりあそこがいちばんいいようなぁ、というところがあるが、まぁ、今は伏せておこう。 最近、「完全新訳版」などというものが出たようだが、この「預言者」は何度もさまざまな人々によって翻訳しなおされているようだ。ジブラン自身も最初にこの散文詩を書いた10代から、亡くなる直前の40代まで、校正し続けたようだから、この本は、そのように、まるで口伝のように、語られるごとに、新しい息吹を吹き込まれていくべきタイプの詩なのだろう。 人々に愛された賢者が、人々との最後の別れにあたって、短い小さな言葉を残すというスタイルは、「老子」を思い出させる。「老子」の世界は、すでに数千年の時を経ているので、ひとつの世界観が出来上がっているが、それとても、時間とともに校正され続けてきて現在のスタイルになっているはずだ。 とするとジブランの「預言者」も、人々に愛されながら、時代とともに新しい息吹を吹き込まれながら、これからも生き続けていくことになるのだろう。小森健太郎が翻訳したジブラン著「漂泊者」の巻末には、この佐久間彪翻訳の「預言者」が参考文献としてリストアップされている。 さて、Oshoにとっての辞世の本とはどれだったのだろうか? やはり、死直前の禅シリーズだだったのだろうか。ワールドツアーから戻ってきたときの「新人権宣言」や「ニューマン」などのブックレットシリーズなども、その概念にあたるのではないだろうか。いやいや、「私が愛した本」を含むPune1の最後の歯科椅子シリーズも、それからの無期限のサイレンスを前にした辞世の言葉と、受け取れないこともない。 当ブログも、そろそろ最後の21th Categoryが目前となってきた。悪態をついてみたり、雑音を出してみたり、時には復唱してみたり、模倣してみたりと、試行錯誤の数々もあったが、当ブログも次第に、nothingness への準備に入ろうとしている。そんなとき、ジブランの散文詩に触れることも、何かの縁ということになろう。先人たちのよしみに倣って、なにか素敵なことが書ければいいのになぁ、と願う日々。 アルムスタファ、選ばれ、愛され、時代の曙であったアルムスタファ。かれは迎えの船を、12年の間オルファレーズの町で待ち続けていた。かれを故郷の島へ連れ帰るはずの船を。 その12年目、アイルールの月、すなわち刈り入れの月の七日、かれは町の城壁のかなたの丘にのぼり、遥かに海を眺め渡した。すると、おお、薄靄(うすもや)のなかに、迎えの船が現れたではないか。 かれの心の扉は弾(はじ)けとび、そこから、嬉しさが溢れ溢れて海のかなたに流れて行った。かれは、目を閉じて、魂の静まりのなかで祈った。 しかし丘を降(くだ)ったそのときには、悲しみが迫り、思いに沈んで言った。 迎えが来たというのに、私の心は安らかでない。かえって、悲しさがおそってくる。 この町から、傷跡を胸に残さずに出ては行けない。 この城壁の内側に過ごした苦しみの日々は長く、孤独の夜々もまた長かった。この苦しみ、この孤独から逃れ去ったとき、果たして悔いが残らないだろうか。 p9 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.17 21:47:57
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