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カテゴリ:バック・ヤード
<19>からつづく
「英知の辞典」 <20> OSHO
七つの谷 VALLEYS 偉大なスーフィーの師(マスター)、すべての時代を通じてもっとも偉大な者のひとりにアル・ガザリがいる。彼は「人間の人から神への成長の道----潜在力を秘めた人間からその力を実現させた人間への、可能性から現実への道には、七つの谷がある」と言う。これら七つの谷はこの上もなく重要だ。あなたはこれら七つの谷を渡らなければならないだろうから、それらを理解しようとしてみなさい。誰もがこれら七つの谷を渡らなければならない。 その谷にどう対処したらよいのかを正しく理解すれば、それを超えることができる。そしてあなたは頂に到達する----なぜなら、谷は必ず山に取り囲まれているからだ。谷を渡ることができれば、谷でひっかからず、谷で迷わず、谷に執着しすぎなければ、超然として、とらわれず、目撃者でいるなら、そしてこれは自分のわが家ではない、自分はここではよそ者なのだと覚えていたら、頂に到達しなければならないと、頂きのことを忘れなければ----あなたは頂に到達する。谷を渡るごとに大いなる祝祭が起こる。 だが、谷を渡るごとにあなたは別の谷に入る。それが続いてゆく。谷は七つある。第七に到達すればあとには何もない。人は自らの存在に到達し、彼はもはや矛盾に満ちてはいない。緊張もなければ苦悩もない。これこそ東洋で「仏性」と呼ばれてきたものだ・・・・。 谷にはそれぞれの誘惑がある。あなたが何かに執着してその谷を離れることができなくなるということは大いにありうる。次の谷に入りたいならそれを去らなければならない。谷のあとには必ず頂が、大いなる山の頂がある。谷のあとには必ず歓びがあり、その歓びはさらにさらに強烈なものになってゆく。そして最後に、第七の谷で、あなたは宇宙的なオルガムスに達する----あなたは消えてなくなる。そこにはただ神だけがある・・・・。 最初の谷・・・・。最初の谷は「知識の谷」と呼ばれている。 知識は両方向を指し示す矢印だ。一方の矢は知られる対象を指し、もう一方の矢は”知る者”を指す。知る者に目を向けるようになれば道に迷うことはなく、あなたは谷を超えることができる・・・・。 第二の谷は「後悔の谷」と呼ばれる・・・・。 自分のありのままを見るようになると、自然と大いなる後悔の念が起こってくる。しでかしてしまったすべての過ち、すべきではなかったのにやってしまったすべての行いゆえに、あなたは後悔を感じはじめる。だから意識とともに大いなる頂がやって来る----だが、突然、意識(consciousness)とともに良識(conscience)が起こってくる。いいかな、あなたが持っている良識はほんとうの良識ではない。それは偽金だ。それは社会から与えられたものだ・・・・。この借り物の良識は助けにならないし、それはあなたの重荷になるだけだ。最初の谷を渡ると、あなた自身の良識が起こってくる。いまやあなたは何が間違いであるのかを正確に知るようになり、それ以外のことはすることができなくなる・・・・。 第三の谷は「障害の谷」と呼ばれる。 良識が起こってくれば、あなたはどれだけの障害があるのかを見ることができるようになる。あなたはどれだけの妨げがあるのかを見る目を持つ。壁また壁が立ち並んでいる。扉もあるがそれらはごくまれだ。あなたはすべての障害を見ることができる・・・・。 第一の障害は誘惑の世界だ。第二は人々-----人々への執着だ・・・・。第三のものをアル・ガザリは「魔王(サタン)」と呼ぶ。そして第四は自我(エゴ)だ・・・・。 その否定的な側面はこれらの障害と戦いはじめることだ。戦いはじめたら、あなたは谷で迷ってしまう。戦う必要はない。敵対関係をつくりだしてはいけない。ただ理解するだけでいい。 戦うことは抑圧することだ。あなたは自我を抑えることができるし、自分の人々への執着を抑えることができるし、物欲を抑えることができるし、摩王(サタン)、自分の心(マインド)を抑えることができるが、抑えられたものはとどまり、あなたは第四の谷に入ることができない。 抑圧のない者だけが第四の谷に入る・・・・・。 第四の谷では無意識への参入が起こる・・・・・。 「試練の谷」とは無意識に入ることだ。それはキリスト教の神秘家たちが「魂の闇夜」と呼んできたものに入ることだ。それはあなたが自らの背後に隠している狂気の世界に入ることだ。それは実に不気味で、きわめて異様だ。第三の谷までは、人は師(マスター)なしで進むことができるが、第三を超えることはできない。第三の谷までは、人は自分でやってゆくことができる。第四ではどうしても必要になる・・・・。 それがだんだんあなたの風土になってゆくように、師はまさに最初からあなたに信頼と明け渡しについて教える----なぜなら、それはあなたが第四の谷に入るときに必要になるからだ・・・・。 第五の谷・・・・それは「雷鳴の谷」だ。 第五の谷であなたは死に入る。第四の谷であなたは眠りに入った。第五の谷であなたは死に入る。あるいは、もっと現代的な用語を使うとしたら、第四の谷であなたは個人的な無意識に入り、第五の谷で集合的無意識に入る。あなたは自らの個体性を失ってしまうので、大きな恐れが起こってくる・・・・・。 死のなかに、集合的な無意識に入るとともに、大きな恐れが起こってきて、深い苦悩が感じられる-----これまでに一度も感じたことのない大いなる苦悩が。というのも、こういう疑問が起こってくるからだ----生きるべきか死ぬべきか? あなたは消え去ろうとしている。あなたの全存在が生きることを望んでいる。あなたは第四の谷に戻りたい。それは暗かったが、少なくともこれよりはましだ----そこには”自分”があった。いまや、暗闇はさらに暗さを増した。それだけではなく、あなたはそのなかに消え去ろうとしている。じきにあなたの足跡すらなくなってしまう・・・・・。 次に第六の谷、「奈落の谷」が来る。 死が起こり、人は消えうせる。これがキリスト教徒の言う「磔(はりつけ)」だ。無が起こった。人はただ空っぽの大空になる。ヒンドゥー教徒はそれを「サマーディ」と呼び、禅の人々はそれを「悟り」と呼ぶ・・・・。 それから最後のもの、究極のもの、第七の谷が来る----「賛歌の谷」「祝祭の谷」が。 第七の谷では再誕生が、復活が起こる。それがキリスト教の「復活」の概念の意味するものだ----キリストが生まれ変わる、栄光の身体に生まれ変わる、光の身体に生まれ変わる、神の身体に生まれ変わるという。もはや肯定もなければ否定もない。二元性はどこにもない。人は”ひとつ”になる。統合が起こっている-----ヒンドゥー教徒が「アドヴァイタ」(不ニ一元)と呼ぶものが。二元対立は消えうせている。人はわが家に帰ってきた。 「賛歌の谷」・・・・・アル・ガザリがそれに美しい名前を付けた。もはや何も残されていない----ただ歌が、祝祭の歌が、神への賛歌が、まったくの喜びがある。これが私の言う「究極のオルガスム」だ。 もし私がこの谷に名前を付けるとしたら、私はそれを「全面的なオルガスムの谷」と呼びたい。ただ祝祭だけが残っている。人は開花し、花を咲かせた。かぐわしい香りが解き放たれる。もはやどこにも行く必要はない。人は自らがそれを得ようとして探しに探し求めていたものになった。 OSHO: SUFIS: THE PEOPLE OF THE PATH,Vol,2 p438 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.04.29 17:12:24
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