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<2>につづく
レイ・ブラッドベリの傑作SF小説を、”名匠”フランソワ・トリュフォーが映画化!【洋画特別セール】■「華氏451」 FAHRENHEIT451■ <1> ブラッドベリの原作が1953年で、映画化が1966年ということだから、それほど昔のことではない。1953年は、私が生まれた前年だし、1966年はビートルズが日本にやってきて公演をした年だ。それほど昔とは思えないのに、この映画はやたらと古く見える。 焚書を仕事とする「消防士」の話だが、本だけが敵視されている。思想や哲学を戯画化したのだろうが、このような戯画が成立した1950年代~60年代はたった半世紀前のことにすぎない。小説も歴史書も自伝も焚書の目にあう。 パジャマを着たままパソコンの前に坐る、現代日本のブロガーにとっては滑稽なストーリーであり、パロディにもなににもなりやしないようなストーリーではある。だが、ちょっと視点を変えてみると、実は、これはまだまだ地球上では十分成立するパロディであり、まだまだこの事態にさえ及ばないような地域が存在する、というのが事実だろう。 3年間に1500冊を読んできた当ブログだが、自宅にはほとんど本を置かないようにしている。図書館ネットワークが発達してきたし、自宅はすでに手狭になっている。「本」を保存するというスタイルは、次第に個人の生活からは離れつつある。必要あれば借りて読むし、ネットで検索する。読み終われば返却するか、オークションで売り飛ばす。それもこれも、常に本は手に入る、という大前提があったればこそだ。 ところが、ネットがまだ十分に発達しない地域がある。あるいは本が流通していない地域がある。本そのものが存在しない地域だってあるのだ。そこに自由な人間精神や発想が根付いていない。あるいは、そこまで物心両面で豊かになっていない地域は多くある。しかして、この映画(小説)が言わんとするのは、権力者の無謀や文明の果てる地域のことではないだろう。 本がなくても、人がそれぞれに自らの中に本一冊を記憶すれば本など要らない、という逆説は、現代の私たちにも重くのしかかる。インターネットと図書館システムを使えば、本など手に入らないものはない時代だ。しかし、そういう時代だからこそ、本の価値は相対的に下落している。 そもそも本は、人類の英知の象徴としてあった。それを理解することは至高の喜びであったし、記憶し、また所有することも、比類のない喜びとされてきた。その本類も、いまや相対的に意義を失い、さまよいだしつつある。人類に本当に必要な「知」とは何なのか。本として象徴されているものは、物質化した外在物だ。仮にそれが知識として脳に蓄積されても、じつはそれは外在物にすぎないのだ。本当に必要な「本」とはなにか。この映画が最後に暗示する未来社会に、現代をかぶせてみることは限りなく可能である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.05.08 22:37:50
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