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ビジベンの「私の健康に役立ったウォーキングコース」 [全461件]
こんにちは。 半年以上もご無沙汰したのに、オイラのことを覚えていてくれる人たちがたくさんいてうれしいです。 それにしても、久しぶりに楽天ブログで更新してみると、ワードの文書や写真の貼り付けなど細かい部分のストレスをあまり感じられなくなりました。 いわゆる使い勝手が良くなったような。 でも、昔のような賑やかさが薄れてしまった感が無きにしも非ず。 地方の昔栄えた商店街みたいに、閉まったシャッターばかりの店舗にならなければいいのですが…。 …と、自分のことを棚にあげて、考える今日この頃。 もっとも、そんなことを言う資格はオイラにはないのでした。 今日は、前回の駅伝ハイクの続きです。 官ノ倉山の頂上に立ったオイラは、遠くから見るとフタコブラクダの背中のようになっている石尊山へ向かいます。 こちらも多少手こずりましたが、ほどなく山頂へ。 ![]() 標高はなんと、344.2メートルですと…。 官ノ倉山が344.7メートルだから、50センチしか高さが違わないのですね。 今までいた官ノ倉山の山頂がよく見えました。 山頂から降りようとすると、急な岩場。しかも、今度は急斜面にクサリ場までありまする。 ![]() これは、箱根駅伝の下りの6区より難所かも。 もちろん、角度だけですが…。 クサリをつかんで下りるのですな。真冬なので素手で触ると痛いっす。 登りのときはあまり感じなかったのですが、降りるときは若い頃に比べてスピードが大分落ちているのに気づきました。 体力面は仕方ないですけど、なにげに、年相応に慎重になったと言いますか。 年齢的に、足を骨折すると寝たきりにつながりかねませんからね。 それに比べて、若い頃は、今思い出しても無鉄砲さに背筋が寒くなりまする。 20代の頃、筑波山へ行ったとき、ノンストップで山頂から駆け下りたのですよ。 ノンストップと言っても、途中で転んで何度も止まりましたが。 感覚でいえば、パチンコ玉がピンに当たりながら落ちていくような。 ピンの役目を果たしたのが、山道の途中に生えている木です。 駆け下りていくとき、木をつかんだり、離したりしてスピードを調節したのですが、たまに大木に体当たりして転倒してしまったのです。 一応、無事に下山はできたものの、おかげで、一週間くらい膝がガクガクしてうまく歩けませんでしたね。 それに引き換え、今はものすごく慎重になったのは、やはり若い頃、怖い目にあって懲りたからでしょうか。 下りも杉林の山道を延々と歩き、小川町の市街へ。 このハイキングコースは標識が整備されていて、迷う心配がほとんどありませぬ。 その分、ストレスなく風景を堪能できる点がいいですな。 途中、急な石段の上にある北向不動尊にお参りをしたり、のどかな田園風景を眺めたりで、なかなか楽しかったです。 コースの途中にある八幡神社は、小川町の鎮守様として慕われているらしい。 ![]() うちの近所にも八幡神社がありますが、住宅街のなかに埋もれるようで、たびたび場所を探すのが大変なときもあります。 こちらは広々としていて、神様も気持ち良さそう。 神社のすぐ近くにあるのが、穴八幡古墳。 ほとんど予備知識がなく訪れたのですが、最初は、小振りな円墳に横穴が開いているだけなのかなと思っていました。 ところが、どうしてどうして、立派な古墳じゃあ~りませんか。 ![]() しかも、珍しい方墳なのだとか。 一辺の長さが約28メートル、高さがおよそ6メートル。古墳のまわりには二重の周溝がめぐっていたそうな。 石室の長さは約8メートルだそうですが、こんな存在感のある玄関?があるのも珍しいっす。 ![]() 鉄柵のすき間から、中をのぞいて見たら、エメラルドグリーンの石がピシッと組み合わされている。 この石は、緑泥片岩と言って、古墳の石室に使われるのは珍しいそうですね。 エメラルドの石室の伝説ですか。 ![]() 石室の入り口から、ザ・テンプターズの名曲「エメラルドの伝説」を中に向かって唄いたい心境になりましたが、また、野鳥が逃げるといけないので、ここはぐっと我慢しました。 駅伝ハイクも楽しかったし、立派な古墳も見れたしで、あとは小川町駅から帰るだけ。 住宅街をテクテク歩いていると、「仙覚律師跡・中城跡」という標識が目につきました。 「仙覚律師跡」って、お寺の跡っすか? 気になったのは、後に記された「中城跡」という3文字。 矢印の方向は、住宅街の狭い路地につながっている。 こんな住宅街の真ん中に、城跡なんてあるんですかね。 崖の下に、仙覚遺跡という石柱がありました。 ![]() ここに古いお寺でもあったのでしょうか。 もう遅いから行こうかと思ったのですが、何となく地形が気になったので、台地の上に行ってみることにしました。 坂道を登ると、そこはテニスコート。 その先にあるのは、もしかして、土塁っすか。 しばらく歩くと、思いのほか、立派な城跡が眠っていたのでした。 もう、こんなすごいところがあるなら、早く言ってくれ~!!! 危うく、通りすぎるところじゃ。 それにしても、仙覚律師跡という紛らわしい表示は一体何? 解説板を読んでみると、仙覚律師は鎌倉時代の天台宗のお坊さんで、「万葉集」の注釈書である「万葉集注釈」という本を、この場所で著した人らしい。 詳しいことは不明だそうですが、この中城と呼ばれる城は、鎌倉時代は猿尾太郎種直、室町時代の初期は斎藤六郎尉重範の居館だったとか。 現在残っている遺構は、戦国時代のもののようですね。 現在の城跡が出来る前に、仙覚律師がここにおられたようですが、オイラ的には小川町が誇る城跡として、もっときちんと表示してほしい。 せめて、縄張り図があるといいと思いますよ。 城跡の本郭と思われるあたりは、テニスコートがでんと鎮座しておりまする。 それでも、この土塁の残り方は、関東地方の城としてはAクラスでしょうね。 ![]() 喜んだオイラは、土塁を登ったり、下りたり、下りたり、登ったり、そしてまた下りたり、登ったり…。 雪が降って、庭を駆け回る犬のように、城跡を歩き回ったのでした。 土塁の下に、陣屋沼という池があり、これは当時の堀の一部かなとも考えたのですが、あとで調べたらどうやら違うようで。 ![]() でも、陣屋というネーミングは、戦国時代の戦か、もと城跡だったという痕跡なのでしょうか。 ちなみに、この沼もエメラルドグリーンっすか。 それはともかく、あとで調べたら、小川町には戦国時代の城跡がたくさんあるのですね。 以前、近くの仙元山にあった青山城に行きましたが、このほかにも、腰越城や高見城という山城もあるらしい。 来年こそは、駅伝ハイクでビジベン大学は初優勝を遂げるとともに、山城も攻略して二冠に輝きたいものだと大きな目標を立てたのでした。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。 完璧に忘れ去られるくらいブログの更新が滞ってしまいました。 更新の仕方を思い出すのに一苦労です。 ブログを書くのは半年振り?くらいですが、その後も毎日、仕事で原稿を書き続ける日々が続いていました。 今年に入って、ようやく一段落したといいますか。 それにしても、職業作家が毎日原稿を書き、なおかつブログやツイッターを毎日更新しているのを見ると、とてもオイラには無理だなと…。 やはり、プロになるには、世間話をするように文章を書けないと駄目なのだと身にしみてわかった次第です。 オイラの書いた原稿はいずれ形になると思うのですが、詳細はまたいずれ。 半年振りの更新ということで、リハビリのネタとしては、やはりお散歩ネタですな。 行ったのは、埼玉県の小川町。 正月二日の箱根駅伝で盛り上がっている頃でした。 20年ほど前、小川町近辺の山をハイキングしてとてもよかった記憶がありましたし。 ラジオで箱根駅伝の実況を聞きながら山登りすれば、沿道の大声援のおすそ分けを味わえるのではないか、とも考えたのです。 そういえば、3年前も同じ趣向で正月にハイキングに行き、オヤジ学院大学と山登りでデットヒートを演じたのでした。 そのときは、山下りの6区で転倒し、足を痛めて途中棄権を余儀なくされたのです。 去年は参加できず、今年は予選会を勝ち上がって、晴れて出場となったのですね~。 予選会と言っても、一人で近所の権の助坂を駆け上がっただけですが…。 それはともかく、スタートは東武東上線の東武竹沢駅から。 午前10時、カラスの鳴き声とともに、駅前を出発したオイラは、第一中継所となっている金勝山を目指して歩き出します。 急な上り坂もありましたが、多少息を切らしただけで、金勝山に到着。 ![]() 標高は264メートルでしたが、まわりの樹木の葉っぱがないためか、なかなかの眺めでした。 …と、そこへ急に雨雲がオイラの真上に。 今まで晴れていたのに、ザーッと雨が降ってきたんですよ。 折りたたみ傘を出す暇もありませんでしたね。 通り雨だったようですぐ止んだのですが、かなり濡れてしまいました。 雨が止んだと思ったら、すごい風がオイラを直撃します。 雨と風で体温が奪われ、一瞬で南極のブリザードの中に取り残された気分になりました。 それにしても、ドリフのコントでこんなシーンがあったような。正月早々縁起が悪いっす。 今年は激動の一年になるかもしれませぬ。 それでも10分後には、悪天候が嘘のように晴れ渡り、前途に一筋の光明を見出す期待が膨らみます。 金勝山から少し下ったところに県立げんきプラザというプラネタリウムなどがある施設があるのですが、正月なので当然休み。 その場所からは、これから向かう官ノ倉山と石尊山を眺めることができました。 ![]() 一旦、山を下り、東武竹沢駅に戻って、なだらかな田園風景のなかを歩きます。ラジオの箱根駅伝も、3区から4区の比較的平坦なコースにかかっている模様。 駅伝の選手と同じように、真上から初春の陽射しを受け、じんわりと汗がにじみます。 静かな里道の終わりにあるのが三光神社。 ![]() そこをお参りしつつ左折すると、次第にコースはゆるやかな登りにさしかかります。 やがて目の前に、深い緑に抱かれたエメラルドグリーンの沼が見えてきました。 ![]() 地図を見ると、これが天王沼らしい。 人っ子一人いない静謐な水辺の景色は、お正月ならではかも。 それほど大きくも深くもないけれど、この雰囲気は、昭和のグループサウンズの名曲「エメラルドの伝説」の風景をイメージしてしまいます。 誰もいなかったので、ショーケンの真似をして、エメラルドの伝説を唄います。 静かだった森に、オヤジの変な声が轟き、野鳥がどっと逃げていってしまいました。 ここはサンクチュアリの表示はなかったけれど、一瞬でも野鳥の安寧を阻害してしまったのかもしれませぬ。 オイラも逃げるように沼を離れ、山道へ分け入ります。 イヤホンを通して聴こえる箱根駅伝の実況中継は、小田原中継点を過ぎ、いよいよ登りの5区へ。 曲がりくねった急な上り坂。標高差864mを一気に駆け上がる難コースですな。 オイラがこれから登る官ノ倉山の標高は、それよりはるかに低い344メートルですが、一応急な九十九折の山道が続くらしい。 3年前は、登り道で、オヤジ学院大学のオヤジと壮絶なデッドヒートを演じたのですが、今年は後にも先にも誰もおりませぬ。 シチュエーションとしては、5区を独走する東洋大学の柏原竜二選手と同じと言えないこともない。 かなりきつい登りでしたが、ラジオから聴こえる沿道の応援の声のおこぼれを預かり、元気をもらいながら登っていきます。 そういえば20年前に、ここへ来たときも、こんな杉林のなかをひたすら登って行ったことを思い出しました。 ![]() まだサラリーマンだった頃で、仕事のストレスも、山の澄んだ空気を思い切り吸い込んだら一気に解消したことを覚えています。 が、しかし…。 その後、花粉症という不治の病を発症し、こんな見事な杉林の中を歩いても、鳥肌が立つばかりの心と体になってしまいました。 もし、花粉が飛んでいる時期に、ここを歩いたら、呼吸困難で命にかかわるかもしれませぬ。 20年という月日が、越えられない溝を作ってしまったのですね。 ああ、杉林を見て癒される、あの頃に戻りたい。 ブルーな妄想に苛まれながら、足取りははるかに及ばないものの、柏原選手の苦悶の表情だけは真似して、ひたすら上を目指します。 休まないと辛い…。けれど、ここで立ち止まっては母校のたすきを繋ぐことはできないのじゃ。 東洋大学とビジベン大学、どちらが先にゴールのテープを切るか。 ウォーキングのときにいつも使っているショルダーバックが、たすきにも思えてきました。 ようやく急な登りが終わり、峠に出るとここからは最後の登り道で山頂へ向かいます。 岩場が滑るのでなかなか大変。しかし、ようやく今回のハイキングの最高点の官ノ倉山に到着~!!!。 山頂に立つと、そこは別世界でした。 ![]() 標高はそれほどないものの、まわりに高い山がないから見晴らしがい~い。 新春の陽光が、360度の見渡す限りの大パノラマを照らします。天気のいい日は、東京スカイツリーが見えるらしい。 ![]() ただ、東京の方角がどっちかわかりませぬ。 遠くは多少霧がかかっているから、わかっても見えないかもしれませんが。 そのとき、オイラは駅伝対決をしていたことを思い出しました。 ラジオのボリュームを上げると、とっくに東洋大学はゴールしていたのでした。 うぬぬ、今年も完敗ですな。 でも、まだ復路がありまする。 それはまた次回。
こんにちは。 暑いですね~。 ここまで書いて、一瞬、記憶が飛んでしまうくらい暑いです。 早く書かないと、今日のネタを忘れてしまいそうなので、早速行かねば。 二年前、「病の基本としくみ」が出版されたときは、皆様に大変お世話になり、どうもありがとうございました。 ![]() 遅ればせながら先月、「病の基本としくみ」が台湾と香港で、翻訳出版されたということが判明いたしましたぁぁぁ~ ![]() 本のタイトルは、「人体疾病学習大百科」となっていますが、内容は日本語を忠実に中国語に翻訳していただいているようです。 台湾の方たちからは、今回の大震災でももっとも多くの義援金を送っていただいたそうですね。本の翻訳出版ともども、とても感謝しております。 この本が少しでも、健康のお役にたっていただければうれしいです。 ちなみに、売っている台湾の書店のホームページはこちら http://www.books.com.tw/exep/prod/booksfile.php?item=0010508249 http://www.iread.com.tw/ProdDetails.aspx?prodid=B000160323 http://www.kingstone.com.tw/book/book_page.asp?kmcode=2014290249399 http://shopping.pchome.com.tw/?mod=item&func=exhibit&IT_NO=DJAO1A-A56584369&SR_NO=DJAO1A&ROWNO=3 翻訳ソフトを使えば意味は大体つかめるのですが、購入の仕方がよくわかりませぬ。 オイラの名前の一部の漢字は、中国語にはないようですが…。 それはともかく、書店ごとに本の値段が違うのですね。本の紹介の仕方も、日本とは若干違う点があってなかなか興味深いです。 さらに… 「病の基本としくみ」続編の出版が決定しましたぁぁぁぁぁぁ~ 前回は、病気のメカニズムがコンセプトでしたが、今回は、予防と治療にウェートを置いた本になりそう。 ほかにも、時期は未定ですが、ビジネス関連の本の出版が決っておりまして、今年は暑くて忙しい夏になりそうです。 …ということで、今日は、海外翻訳出版と続編の出版を記念しまして、久々に、「AYAちゃんの糖尿病事件簿」を復活してみようか、と…。 調べてみたら、このネタは10ヶ月ぶりなのですか。 書いた本人が内容を忘れているのだから、前回の続きからでは支離滅裂になりますね。前回と重複するところがありますが、切りのいいところから行きまっす。 登場人物は、病院の院長先生と現役女子高生のAYAちゃん(松戸あや)の二人。 AYAちゃんは、将来、看護師になることを夢見る元気な女子高生。 血糖値の上がったお父さんを救うため、糖尿病について勉強しているという設定でしたね。 今回は、糖尿病にはどんな種類があるのかが話題になります。 それでは…。 糖尿病にはどんな種類があるの? ~ 血糖値が高くなる仕組みによって、4つのタイプに分けられる ~ まず、「1型糖尿病」と呼ばれるタイプ。これはさっき言ったすい臓のベータ細胞が破壊されて起きる病気だよ。結果としてインスリンの分泌量が少なくなってしまうんだ。 ● AYAちゃん「えっ?どうして破壊されてしまうんですか?」 たとえば、風邪や風疹、おたふくかぜなどのウィルスに感染して、自己免疫反応が起きるケースが考えられるね。ちなみに自己免疫反応というのは、本来自分の体を守る免疫の仕組みに異常が起こり、自分の体を攻撃してしまう反応だよ。 ● AYAちゃん「それじゃ、この病気のタイプは、うちのお父さんみたいにカロリーの摂りすぎで高血糖になったわけじゃないのですね」 そう。おたふくかぜや風疹などのウィルスが原因になる場合が多い。だから子供でも若者でも病気にかかるんだ。10歳ぐらいで発症することが多いから、以前は「若年性糖尿病」と言われたこともある。でも中年以降に発症することもあるから、「1型糖尿病」と呼ばれるようになったんだけど…。ただ、日本ではこのタイプはごく少数だよ。 ● AYAちゃん「なるほど。うちのお父さんが気をつけなければいけないのはどのタイプなのですか?」 それは「2型糖尿病」だね。日本でもっとも多いタイプだよ。40歳以上に多く見られて、食べ過ぎや運動不足、加齢や肥満などさまざまな要因が加わって発症するんだ。 ● AYAちゃん「まさにビンゴですよ。うちのお父さんはほとんど当てはまります。ジムに通っているって言っても、最近はトレーニングの合間に休んでいる時間のほうが長いみたいだし…」 それから忘れてはいけないのは、遺伝的な体質だね。AYAちゃんのおじいさんやおばあさん、お父さんの兄弟で糖尿病の人はいるかな。 ● AYAちゃん「えっ?そういえば、おばあちゃんの親戚に糖尿病の人がいますよ」 そうなの。2型糖尿病になる人の多くは、もともとインスリンの分泌量が少なかったり、インスリンの効き目が悪かったりというような遺伝的な体質があるんだよ。だから気をつけるに越したことはないよ。 ● AYAちゃん「(ガーン。先生の白衣をつかみながら)それじゃ、うちのお父さんは糖尿病になりやすい体質なのに、私がカロリーの高い料理をたっぷり食べさせてしまったということですか。どうしよう。お父さんが糖尿病になったら私の責任だわ」 ちょっと、血相変えて白衣をつかまないでよ。まだお父さんは「境界型」だし、これから食べすぎや運動不足を改善していけば発症を防ぐこともできるんだよ。 ● AYAちゃん「あっ、そういえば、糖尿病の人はお母さんのほうの親戚だから、お父さんとは血のつながりがないんでした。 ふう。まったく、人騒がせな…。 ● AYAちゃん「あっ、でも。(再び、先生の白衣をつかむ彩ちゃん)そうしたら私が糖尿病になりやすい体質なんじゃないですか。わっ、それなのに、こんなカロリーの高いケーキを食べてしまった」 自分で勝手にケーキを作ったくせに。何度も言っているように、糖尿病になりやすい体質でも気をつければ健康に暮らすことができるんだよ。たとえ糖尿病になったとしても、節制していれば健康な人と変わらない生活ができる。だけど日本ではここ40年で、2型糖尿病が急増しているんだ。それ以前では、遺伝的な体質を持っている人でも糖尿病を発症する例は少なかった。 ● AYAちゃん「えっ?昔の人は根性があったから病気にならなかったんですか?」 またわけのわからないことを。前にも話したんだけどな。根性はともかく日本がまだ豊かでなかった時代、多くの人たちは質素な食事を摂り、体もよく動かしていた。好きなものを自由に食べられるようになったのは最近だよ。車や家電製品も普及して、あまり体を動かさなくていい便利な時代になったんだね。 ● AYAちゃん「そうか。だから「ALWAYS 3丁目の夕日」っていう映画がヒットしたみたいに、血糖値の心配が少ない貧しかった時代をみんな懐かしんでいるんですね」 血糖値までは考えていないと思うけど…。 ● AYAちゃん「ところでさっき先生は、2型糖尿病って、インスリンの分泌量が少なくなるほかに効き目が悪くなるっておっしゃっていましたよね。具体的にはどうなるんですか?」 大騒ぎしたわりには大事なことをよく覚えていたね。すい臓のベータ細胞から分泌されたインスリンは、筋肉や肝臓、脂肪組織などに運ばれる。それらの細胞の表面には、インスリンを受け取る「受容体」と言われる部分があるんだよ。 ● AYAちゃん「何ですか? 受容体って」 細胞の表面にあるキャッチャーミットと言ったらいいかな。ここにインスリンが結合することによって、血液中のブドウ糖がエネルギーとして利用されるんだ。 ● AYAちゃん「昔、遊園地に、鬼の的にボールを当てるとガォーって叫び声があがるゲームがありましたよね。それでインスリンの効き目が悪くなるとどうなるんですか?」 インスリンはちゃんと分泌されているのに、血糖値が下がらないんだ。細胞にブドウ糖が入るための扉が開かないと言ったらいいかな。 ● AYAちゃん「えーっ!? ボールがちゃんと的に当たっているのに、鬼がガォーっていうリアクションをしないと遊園地に苦情が来ますよ」 困った状態だよね。食べすぎや運動不足などさまざまな誘因があると、細胞のキャッチャーミットである受容体に異常が起こる。結果的にインスリンの効きが悪くなるんだ。このような状態を難しい言葉で「インスリン抵抗性」と言うんだけど。 ● AYAちゃん「そうか。糖尿病にならないためには、大切なすい臓のベータ細胞や細胞のキャッチャーミットがおかしくならないように気をつけないといけないんだ」 そう。早く血糖値を正常に戻す必要があるね。それから糖尿病の別のタイプとして、ほかの病気が原因となって発病するものがある。 ● AYAちゃん「具体的にはどんな病気なんですか?」 たとえば、すい臓やホルモンの病気によって血糖値が高くなり、糖尿病が起きるんだ。だから「2次性糖尿病」とも言われている。 ● AYAちゃん「すい臓の病気というとガン?」 それもあるね。すい臓がんは、60歳以上の男性に多いんだ。症状がほとんどないから早期発見が難しいんだけど、糖尿病の症状が出て、調べてみたらガンだったというケースもあるよ。 ● AYAちゃん「糖尿病とガンのコラボは困りますよ」 確かに。それから膵炎が原因になって糖尿病になることもあるんだ。膵炎はアルコールを大量に飲みすぎるなどが原因ですい臓に慢性的な炎症が起こり、すい臓の細胞が徐々に破壊されてゆく病気だよ。 ● AYAちゃん「アルコールはカロリーも高いんですよね。お父さんの心配な糖尿病のタイプにも影響するんでしたよね」 そう。アルコールの大量摂取は、さっき話した「2型糖尿病」、そしてこの「2次性糖尿病」、どちらのルートからも糖尿病に直結するんだよ。 ● AYAちゃん「入り口が同じで、どちらのルートを選んでも糖尿病がゴールなら、最初から行かないのが賢者の選択だわ。ところでさっきの話に戻りますけど、ホルモンの病気って、どんなものがあるんですか?」 たとえば、「クッシング症候群」や「褐色細胞腫」などの副腎の病気が多いね。 ● AYAちゃん「難しい病名ですね。副腎って、腎臓と関係があるんですよね」 左右の腎臓の上に帽子が乗るような形であるから副腎と呼ばれるんだけど、直接腎臓と繋がっているわけじゃないんだ。副腎は、脳にある下垂体や首のところにある甲状腺とともにホルモンを分泌する器官で、内臓の働きを調整する役目を果たしている。これらの器官がダメージを受けると、血糖値が高くなることがあるね。 ● AYAちゃん「でも、2型糖尿病みたいに、インスリンの分泌が少なくなったり、細胞のキャッチャーミットに異常が起こったりするわけじゃないんですね」 ( 次回はいつになるかわかりませんが、一応続く予定です )
こんばんは。 今回は、世間でお騒がせの「あの人」のルーツを探るべく、ウォーキングに行ってまいりました。 行ったのは、都心の北方に位置する文京区。 東大など、さまざまな大学がたくさんあるから、文教地区をイメージするネーミングだなと感じていたのです。 でも、実際行ってみると、かなり起伏の多い土地で、急な坂道がたっぷり。 知識だけでは、この土地で暮らすのには骨が折れるかも。 ウォーキングのスタートは、営団地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅です。 茗荷谷とは粋なネーミングですが、かつてこの辺りは、茗荷がたくさん採れたからだとか。 茗荷がたくさん生えているのはどんな景色なのだろうと、まわりをキョロキョロ眺めます。 ビルばっかりで、全然イメージがわいてこないのでした。 目の前の春日通りを渡り、すぐのところにあるのが教育の森公園。 教育の森とは、さすが文教の文京区という感じですが、実は、かつてここに日本の教育界で絶大な力を誇った東京教育大学があったのでした。 東京教育大は、現在の筑波大学の前身ですな。 オイラの子供の頃通っていた塾の先生が、東京教育大の現役の学生さんだったのですよ。 教育のプロを養成する学校の学生さんですから、すごいかと思いきや、町中でラーメン屋のアルバイトと大ゲンカしているシーンだけが記憶に残っています。 ケンカの理由はいまだに不明ですが、それを見ていた塾の生徒が仲裁に入って、事なきを得たのです。 子どもに諭されるという、教育者としてはなはだかっこ悪いスタートを切った学生さんは、今どうしているでしょうね。 そういえば、同じ塾で、学習院の学生だった先生もいました。 その先生が、授業中、少しでも私語が交わされたら、チョークをびゅんびゅん投げるのです。 黒板に字を書いていて、振り向きざまピッチャーが牽制球を投げるみたいに…。 概ね、不届きな生徒に命中するのですが、たまに、私語とは関係ない真面目な子の顔面にチョークが直撃!! 一度、オイラも、オーバースローで投げた速球、いや速チョークが眉間に当たったのでした。 目の周りに星がキラキラ輝いたのを覚えています。 そんなこともあって、その教室では、先生が振り向くと、パッと顔を伏せるのが生徒たちの習慣に。 勉強は少しも頭に入りませんでしたが、運動神経は鍛えられました。 今でも、ゲーセンのモグラ叩きやワニ叩きは、かなりの高得点を出す自信はあります。 そんな過去の思い出に浸りつつ、教育の森公園の中にある占春園を散策しました。 ![]() どうして大学の跡地なのに、こんな自然が残っているのかといいますと、ここは江戸時代、守山藩の上屋敷の跡だったからなのですな。 当時の庭園のあとなのでしょうね。 東大の三四郎池のあたりの自然も、加賀百万石前田家の上屋敷の庭園だったそうですし。 春日通りを渡り、細い道を道なりにしばらくいくと、拓殖大学の近くに、深光寺がありました。 ここには、南総里見八犬伝で有名な滝沢馬琴の墓があります。 滝沢馬琴は、八犬伝を書いた頃は目が見えなくなってしまったそうですね。そのとき、口述筆記で助けたのが、長男の嫁の路女だったとか。 彼女の墓も、馬琴の墓のすぐそばにありました。 寺を出て、昔はカエルの大合唱が聞こえたという蛙坂の曲がりくねった坂道を登り、住宅街の静かな道を行くと、左に立派な石碑が建っていました。 ![]() 碑には、「切支丹屋敷跡」の文字が。 江戸時代はご存知のように鎖国していて、キリスト教はご法度ですね。 前からいた宣教師たちは、ここへ入れられてしまったのですか。 長崎にあるのはわかるのですが、江戸にも切支丹にまつわる史跡が残っていたのは少し意外でした。 近くの切支丹坂を下り、再び春日通りに出てしばらく行って角を右折、丸ノ内線の陸橋を渡ると、右手に「徳川慶喜終焉の地」の解説板が寂しく立っています。 ![]() 解説板の後ろは現在、仏教関係の大学院大学のキャンパス。この広大な土地は、かつてケイキさんのお屋敷だったのですか。 幕末ものの大河ドラマには必ず登場しますが、作品によって名君になったり、バカ殿様になったりさまざまですが、ホントはどっちなのでしょうね。 オイラ的にはやはり、もっくんのケイキさんが一番印象に残っていますが。 解説板の立つ今井坂を下り、突き当りを右折すると、称名寺や日輪寺といった由緒ある寺が並ぶ通りに出ます。 お寺の門前の解説板に一つひとつ目を通しながらゆっくり雰囲気を楽しみました。 首都高速道路の高架の手前で右折し、次の角の右手が鷺坂。 ![]() 「さぎざか」とキーボードに打ち込んだら、「詐欺坂」と表示され、このパソコンはオイラの心の中の文字をそのまま表示するのかと、一瞬苦笑してしまいました。 実は、これから向かうのは、「詐欺だ、ペテンだ」という言葉で、最近、再び存在感を示した人のゆかりの場所でもあるからです。 台地の下の道を歩くと、右手にあるのが今宮神社。 神社の先にある八幡坂を上り、道なりに細い道を行くと、左側にお屋敷の塀が続いています。 立派な洋館の屋根に取り付けてあるのは、鳩の彫刻でしょうか。 鼠坂という由来が知りたいネーミングの坂を下り、音羽通りを左に歩き、しばらく行くと立派な門構えの豪邸がありました。 どれだけすごい豪邸かというと、門とそこから続くつづら折りの坂道だけで、全然お屋敷が見えませぬ。 ![]() 屋敷の中の坂道といっても、これは公道だと言っても過言ではないでしょうね。 きれいに舗装された坂道をひたすら登り、山頂に立つと、古い洋館が目の前に現れました。 ![]() 綾辻行人の館シリーズや金田一少年がこの中で活躍しそうな雰囲気ですが。 大理石の階段に敷かれた赤い絨毯を踏んで、屋敷のなかに入ります。 広い廊下の右手には、広い応接室や食堂、サンルームがありました。 応接室のソファーでは、見学者が腰かけてビデオの画面を眺めています。 ![]() オイラは、光あふれるサンルームを抜け、庭園へ行きました。 それほど広くはないけれど、よく手入れされていますね。 庭の一角には、それほど古くはない内閣総理大臣「鳩山一郎」の銅像が。 ![]() もうお分かりだと思いますが、ここは日本の近代政治と教育界に偉大な貢献をしてきたといわれる鳩山家のお屋敷のあとなのでした。 鳩山家は、初代の和夫氏が洋行帰りの弁護士で、のちに衆議院議員。長男の一郎氏が総理大臣。そのまた長男の威一郎氏が大蔵事務次官や外務大臣。さらにそのまた長男のご存知、由紀夫氏が総理大臣を務めたのでした。たなみに、弟の邦夫氏も大臣経験者。 近代日本の政治史を語る上で、絶対に外すことはできない家系であることは間違いないようで。 このお屋敷は通称、音羽御殿。今は、鳩山会館となっているのですね。 ![]() 何でも、鳩山家が音羽の地に住み始めたのは、明治24年の秋らしい。洋館が完成したのは、大正13年なのですか。 再び、お屋敷の中に入って、中をぐるぐる見て回ります。 一階は、さまほど書いたとおり、応接室やサンルームがあるのですが、食堂も含めると応接室が3つもあるのですか。 鳩山一郎氏が活躍していた頃、民主自由党と民主党が一緒になって自由党が発足したのですな。そのとき、このお屋敷の応接間が会合の場として度々用いられたらしい。また彼が総理になってから、ソ連との国交回復の打ち合わせもここで行われたのですか。 オイラも、結構豪邸を見学する機会は少なくないですが、ここは思ったより小ぶりで使い勝手が良さそうだと感じました。 昔の宮様や財閥のお屋敷だった洋館は、やたら広いのです。トイレへ行くのに、30メートル以上も歩く必要があったり。 もし住んだとしたら、家の中を移動するだけで疲れるでしょうね。 一階には、和室も作られていました。 ![]() なんか、旅館みたい。 昔は、こんな画面の小さいテレビが大画面として売り出されていたのを思い出しました。 二階へ向かう階段の踊り場部分にあるステンドグラス。五重塔の上を鳩が舞う図柄で、鳩へのこだわりが感じられました。小川三知の作品らしいですが、どっかで見たことがあると思ったら、かつて「なんでも鑑定団」で紹介されていたような。 二階は、寝室が3部屋並んでいたそうですが、現在は間仕切りを撤去し、大広間に改装されています。そして大広間を挟んでそれぞれ鳩山一郎記念室と鳩山威一郎記念室。 ここは、かつて書斎として使用されていた部屋を書簡や軍服、文具などの展示、議員時代の給与明細や自動車の運転免許証、デスマスクなどの遺品も収められていました。 行った日は休日だったので、多くの見学者がその記念室に訪れていました。 その中の老夫妻が、「鳩山さんのお父さんやおじいさんは優秀だったのにね~」とつぶやいたのです。 そうしたら、部屋の中にいた5~6人の人たちが一斉に、うんうんと頷いたのが印象的でした。 もちろん、オイラもその中の一人でしたが…。 鳩山和夫氏は四男だったそうですから、彼を初代とすれば二代目が一郎氏、三代目が威一郎氏、四代目が由紀夫氏になるわけですな。 ちなみに鳩山家は、五代連続で東大合格だそうです。 由紀夫の最大の功績は、東大に対するコンプが解消されたという意見が少なくないそうですが。 それはともかく、足利幕府でも、徳川幕府でも、三代目がしっかりしていると家は長く栄える傾向があるような。 足利義満や徳川家光は、一応名君として登場しますから。そういえば、オイラの好きな北条氏康も、三代目。 三代目は、初代と二代目が苦労して家を興した姿を近くで見ていますからね。 鳩山家三代の威一郎氏も、地味ながら官僚トップと外務大臣を手掛けて手堅い印象です。 足利家と徳川家の四代目は知らない人のほうが多いのでは。 後北条家の四代氏政は、家を滅ぼすような失敗をしていますし。 さて、鳩山家の四代目はどうですかね~。
こんばんは。 急に暑くなってきましたね。 今年の夏は、節電の嵐が吹き荒れそう。 オイラも協力するために、まず夏の暑さに負けない体力を作らねばと考えておりまする。 そこで、厚着をしてウォーキングに励む今日この頃。 さて、今回行ったのは、横浜の根岸のあたり。 横浜の繁華街から近いのですが、山手や根岸のあたりは古くから住宅街として栄えたらしい。緑あふれる人気スポットもあるそうですね。 最近、書店で「横浜散歩マップ」というガイドブックをゲッツしたんですよ。 横浜は、都心へ出るのと同じくらいオイラの家から近いので、当然これまでも何十回となく足を運んだことがあります。 でも、この本を読んでみると、定番の観光スポットへは行っていますが、まだまだ見ていない場所も少なからずあるみたい。 一度訪れたことのある場所でも、歩くコースが違ったり、歴史背景の新しい発見があったりすると、全然違った場所に見えすまし…。 …ということで今回は、JR根岸線山手駅からウォーキングを開始します。 山手というくらいなので、駅周辺は結構、起伏があります。駅から少し坂をのぼってゆくと、根岸外人墓地がありました。 ![]() 外人墓地といえば、港の見える丘公園の近くにある山手の横浜外人墓地が有名ですが、ここにも外人墓地があるのですか。 根岸の外人墓地は、山手の墓地が狭くなったため、新たに作られたらしい。 今は有名な観光スポットになっている山手の外人墓地と比べ、こちらは訪れる人も少ないみたいで静寂に包まれていました。 現在、墓標が160ほどで、ここに1200人が眠っているそうですが、とてもこじんまりした印象。 当時、経済的理由から石碑を建てられなかった人も多かったらしいですね。 お墓はやっぱり、こんな静かな場所にあったほうがいいかも。でも、滅多に人が訪れないためか、早々と現れた蚊の大編隊の急襲にあい、やむなく撤退を余儀なくされたのでした。 蚊に刺された手足をボリボリかきながら丘をのぼり、根岸森林公園へと向かいます。 途中、見晴らしのいい公園があったので、少し休もうと思ったのですよ。すると、いきなり上空から巨大な黒い物体が、オイラの頭上をかすめていきました。 すわっ、今度は蚊ではなく、大型爆撃機が来襲か。 思わず、しゃがみこんで空を見上げると、カラスが低空を飛んで舞い戻って来るではありませんか。 そして近くの枝にとまって、カアカアと鳴きわめき、オイラに示威行動を加えます。 近くに巣があるんですかね。 今度やったら、佐々木小次郎直伝の「カラス返し」をお見舞いしてやるのじゃ。どこかに木の枝がないかとキョロキョロあたりを探しました。 しかしそんな都合のいいものはないので、仕方なく根岸森林公園へと向かいます。 根岸森林公園は、面積18万平方メートルにおよぶ広大な公園。オイラがまず向かったのは、道一本隔てたところにある芝生広場です。 ここに、この公園の歴史を物語る貴重な遺構が残されているのですね~。 さて、これは何でしょう。 ![]() ここへ来たのは二度目ですが、最初に見たとき、この建物は一体何のために使われたのだろうと首をひねってしまったのです。 実はこれは、旧一等馬見所といって、競馬場の観覧席の一部だった建物なのですな。建てられたのは、1930年というから昭和初期。 紀元前のローマの遺跡みたいな印象ですが、オイラと同じ昭和生まれですか。意外とお若いようで…。 J.H.モーガンというアメリカの建築家が設計したのだとか。 なぜ、競馬場の観覧席がこんなところに、と思ったら、根岸森林公園そのものが、かつて横浜競馬場だったのですね~。 ガイドブックを持たないでそぞろに歩くのも、こんな驚きと感動があるので、お勧めです。 競馬場だった頃には、ほかにも、下見所、二等馬見所という建物があったらしい。 こういう古い建物を見てしまうと、中に入って見学したくなるのが人情ですが、フェンスに囲まれて一般公開はしていないのでした。 観覧席の跡を眺めたところで、かつての競馬場だったという森林公園のほうへ向かいます。 どこまでも広がる緑の絨毯。それを取り巻く深い森の景観が都会にいることを忘れさせてくれそう。 ![]() 芝生の起伏も結構あり、競馬場の跡というよりゴルフコースをイメージしてしまいました。 太平洋戦争の激化とともに、競馬の開催を中止してこの場所は日本海軍に接収されたそうですね。 終戦後、アメリカ軍の管理下に置かれ、そのときここは、米軍専用のゴルフ場となっていたらしい。 実際、ゴルフ場だったからそう見えるのですな。 …といっても、根岸森林公園に隣接して根岸競馬記念公苑があり、その中に「馬の博物館」もあって、当時の競馬場の様子を伝えておりました。 何でもここは、日本初の洋式競馬が行われた場所でもあるらしい。 行った日は博物館がお休みだったのですが、乗馬の訓練が行われているのを見ることができました。 根岸森林公園をあとにし、次に向かったのは白滝不動尊。 ![]() 写真ではわかりませんが、このお堂の下は急勾配の石段が続いておりまする。 高台にあるので、昔は境内から根岸湾の眺望が見事だったとか。 白滝不動と呼ばれるように、昔は水量の豊かな滝があったそうですね。境内の横には、その滝の水源のひとつともなっている小さな滝がありました。 白滝不動から住宅が建ち並ぶ尾根伝いに歩き、九十九折になっている崖の道をくだって根岸八幡神社へ。 暑かったので、日陰を探しながら歩いているうちに、途中のチェックポイントにしようと思っていた喫茶店を行き過ぎてしまったのに気づきました。 その店はドルフィンといって、ユーミンの「海を見ていた午後」の舞台になったそうなんですよ。 ユーミンファン必見の店らしいのですが、ただ、その歌は知らなくて…。 戻ろうかと思いましたが、高い崖を見上げるとさすがに登る気力が失せてしまいました。 根岸八幡神社は、1400年くらい前から続く由緒ある神社。 ![]() 深い森を背景にした拝殿や境内のイチョウの古木など、歴史を感じさせる神社でした。 しっかりお参りしたあと向かったのは、今日のウォーキングの目玉ともいうべき旧柳下邸。 ![]() 大正時代に建てられた柳下家の邸宅を、平成8年に横浜市が譲り受け、根岸なつかし公園として一般公開されているのですな。 ちなみに柳下家は、明治時代の初頭より、横浜でも有数の「銅鉄引取商」として、金属の輸入業を営んでいたらしい。 純日本風の家屋に洋館がコラボされた和洋折衷の建築物が目を引きますが、意外と違和感なく景色に溶け込んでいます。 う~ん、大正ロマンですね~。 このあたりは当時、海が近い別荘地だったとか。洋館つきの邸宅が流行したようで、今でも当時の面影を残している建物があると聞きました。 ここが一般公開されたのは最近らしいです。古い建物ファンとしては、どんどん一般公開してもらいたいですね~。 建物の中も見学できるそうなので、中に入ってみることにします。 おお、無料で見学できるなんて最高っす。 入り口からすぐの場所に、風呂場がありました。今の入り口は当時、お勝手口として使われていたそうですから、サニタリー空間が近くにあっても不思議ではない。 それにしても、脱衣室が四畳半もあるのですね。 風呂場もいろいろな装飾があってお洒落なのは驚きました。 ![]() 風呂釜は昔懐かしい五右衛門風呂ですか。 オイラの子供の頃、家の風呂は五右衛門風呂だったのですよ。 今みたいに、ボタンを押せばお湯が風呂一杯になるなんて、当時は夢物語だったかも。 子供でしたけど、一人で風呂を沸かしたことも懐かしい思い出ですね。 まず新聞紙を丸めて入れ、マッチで火をつけ、火が少し大きくなったところで薪を入れるのです。 時代劇みたいに、竹の筒を拭いて火を大きくすることはしませんでしたが…。 そういえば、昭和の中頃も、明治・大正はおろか、江戸時代の時代劇みたいなことをやっていたのかも。 ノスタルジックな気分に浸りながら、広いお屋敷のなかを見学しました。 洋館はそれほど広くはないですが、生活の中のアクセントにもなって、とても暮らしやすそうに感じました。 家の中に蔵があったり、高台にあるので座敷から当時は海を眺めたりすることができたのでしょうね。 旧柳下邸を出て、静かな住宅街のなかにある海照寺に立ち寄り、掘割川を渡って横須賀街道をゆくと大きな団地の一階を利用した博物館があります。 ここが横浜市電保存館。 ![]() 東京は「都電」と呼ばれたのですが、横浜では「市電」ですか。いわゆる「ちんちん電車」の博物館なのですね~。 なぜ市電の博物館がここにあるかというと、この場所に当時の車両基地、修理工場があったみたい。 横浜の市電は1972年に廃止されたのですか。 そういえばオイラの子供の頃は、東京の至るところに都電が走っていた記憶があります。 銀座の目抜き通りを都電が走っていたなんて、今では信じられないかもしれませんが…。 展示コーナーでは、初期の500系から、1000系、1100系、1300系、1600系そして、市電の決定版といわれた1500型などの当時の車両がそのままの形で展示してありました。 ![]() 館内では、市電が市内を走っていた当時の映像が常時放映されていて、昭和の気分に浸ることができました。 市電のデザインは今見ても、なかなかお洒落で趣がありますね。 ![]()
こんばんは。 自粛していたわけではないのですが、久々にウォーキングに行ってきました。 ようやく、花粉の飛散もピークを越えたようなので…。 今回行ったのは、千葉県の市川市と船橋市。10年以上前に訪れたことがあるのですが、見どころ満載のウォーキングコースだったという記憶があります。 そのときは、葛飾柴又から矢切の渡しで江戸川を越え、野菊の墓ゆかりの土地やじゅんさい公園、そして里見公園にある城跡を見学したような。 今回は逆ルートで、前回見られなかった市川の名所旧跡をまわってみようと思ったのですね~。 ウォーキングのスタートは、京成電鉄の市川真間駅です。 駅前の商店街から住宅街をテクテク歩き、まず向かったのが、いちかわ文学の道。 ![]() 市川は、万葉の昔から現代に至るまで、多くの文人と関わりのある土地だそうですね。 京都の哲学の道みたいに、有名人の散歩道だったわけではないようですが、散歩道沿いに、市川ゆかりの作家たちをパネルで紹介してありました。 たとえば、北原白秋、幸田露伴、永井荷風、水原秋桜子など有名な作家ばかり。 オイラも結構、文豪たちの業績に興味がありますので、立ち止まって一つひとつパネルの解説文を読みました。 今では近代日本文学史に燦然と輝く文豪も、生前は貧乏だったり、孤独死を迎えたりしたケースがあったのですか。 とくに永井荷風は慶応の教授でもある作家。「三田文学」を創刊したセレブの元祖みたいな印象がありました。 でも、慶応の教授はすぐ辞めてしまったのですね。晩年はかなりの変人として知られ、知り合いとも喧嘩して別れて、一人で市川に暮らしていたらしい。 「五重塔」で有名な文豪・幸田露伴も、近くに住んでいたようですね。 露伴が死んだとき、荷風は通夜の席に赴いたそうなんですよ。 でも自分の服装が粗末なのを恥じて、遠目に会釈するだけで立ち去ったとか。 文学史の業績だけからは伺えないエピソードで、貧乏なオイラとしても荷風先生に親近感をおぼえました。 永井荷風は79歳で亡くなったそうですが、自宅で孤独死だったそうなんですよ。 そういうところだけは将来、親近感を覚えたくないようで…。 少しブルーな気分になりつつ、真間川に沿って歩きます。 入江橋のところで右折してしばらく行くと、住宅街の中に赤い欄干の小橋がありました。 ![]() これは、真間の継橋というらしい。 かつて下総の国府と上総の国府を結ぶ道は市川の砂州の上を通っていて、それらの砂州を掛け渡した橋が継橋なのですね。 その情景を詠んだ歌が万葉集にも載せられているそうです。 現在の整備された道を見てしまうと、当時この辺りが真間の入江の砂州だったとは信じられない雰囲気ですな。 継橋を渡ってすぐ右側にあるのが、手児奈霊堂。 ![]() このお堂には悲しい伝説があるそうですね。 手児奈は、「てこな」と読み、娘の名前に由来するらしい。 手児奈は絶世の美少女だったそうで、村の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては結婚を迫ったそうなんですよ。 当然、彼女を手に入れるため、男たちは醜い争いを繰り広げたとか。 本来なら、白鳥麗子さんみたいに、「お~ほほほほほっ。あなたがたが私の美しさに惹かれるなんて、百万年早いのよ!」なんて言いたくなる状況かも。 でも、手児奈はそうは考えなかったのですね~。 市川市のホームページから彼女の心境を引用させていただくとこんな感じでしょうか。 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」 そして思い悩んだ手児奈は、海に身を投げてしまったそうな。 彼女を巡って争いを繰り広げた男たちは、彼女を苦しめてしまったことを後悔したものの後の祭り。気の毒に思った村人たちは浜に打ち上げられた亡骸を手厚く葬ったのですね。 それほどの美少女。今だったら、芸能プロダクションが動いてグラビアアイドルになっているかも。 でも当時は、ネットやテレビ、雑誌なんてものはないし、美少女の選択肢は極めて限られていたのではないかと感じました。 気の毒というほかはありませぬ。 手児奈のお墓の傍らに建立されたのが、この手児奈霊堂なのですね。 ちなみに、伝説の美少女・真間の手児奈を詠んだ歌が万葉集のなかにあるそうです。 手児奈霊堂のすぐ近くにあるのが、真間山弘法寺(ぐほうじ)。 ![]() なんと創建は、天平9年(737)。行基が建立して「求法寺」と称し、のち弘法大師によって「弘法寺」と改められたと伝えられているお寺です。 境内はかなり広く、水戸光圀が訪れたという茶室をはじめ伏姫桜、水原秋桜子、富安風生の句碑、国府台砲兵の碑など見どころもたくさんありました。 高台にあり、まわりが急な崖になっているので、もしかして城跡かも、と思ったのですが、その可能性もあるらしいのですよ。 この辺りは、古代の下総の国に中心地でもあり、これだけの広さと眺望を持った高台ですからね。きっと中世の豪族の一人が目をつけたのではないか、と…。 詩人北原白秋がかつて住み、万葉集にも詠まれた真間の井があるという亀井院へお参りした後、いよいよ下総国分寺へと向かいます。 国分寺へ行く途中にあるのが、郭沫若(かくまつじゃく)記念館。 ![]() 郭沫若という人を知らなかったのですが、中国・四川省楽山市出身の文学者・歴史学者・政治家であったそうですね。 氏は、昭和3年から約10年間にわたり、市川市で家族とともに暮らしておられたそうな。 その後、日本と中国の架け橋となる活躍をして、市川市と楽山市の友好都市締結のきっかけとなったのですか。 この家は、当時の家をこちらの公園に移築保存したものだとの由。 中にも入れるそうなので、ぐるっと家の中を一巡しました。質素ではありますが、平屋でこれだけの建坪があたったら今や豪邸の部類かも。 今流行の3階建ての小規模住宅なら、三棟は作れそうだと思ったりして。 記念館からしばし歩き、坂を登ったところに下総国分寺がありました。 ![]() 国分寺とは天平13年(741年)、聖武天皇の詔勅によって、全国各地に「国分寺」「国分尼寺」が建立された寺院。 その親玉とも言うべき、総国分寺がご存知、東大寺なのですね。 現在の千葉県には、かつて上総、下総、安房の三つの国があり、それぞれ国分寺があったそうな。そしてここ下総国分寺は、現在の市川市国分に建立されたのですな。 今ある建物は、もちろん天平時代のものではなく、江戸時代に再建されたもの。 朱塗りの門は、昭和53年に復元されたもので、天平時代当時をイメージできます。 ![]() 当時の国分寺の建物は、現在とほぼ同じ場所にあるらしいのですが、さすがに規模は天平時代のほうがかなり大きかったみたい。 何せ、国家プロジェクトですからね。 ただ、国分寺としては珍しく、東大寺様式ではなく法隆寺様式の伽藍配置であったそうな。 …といってもよくわからないのですが、正面に金堂、その左手に七重塔、その背後に講堂があったらしい。 当時、七重塔といえば、東京スカイツリーくらいのインパクトがあったのかも。 塔は失われていましたが、その礎石と墓地のなかに講堂の礎石の一部が残されていて、その大きさが偲ばれます。 ちなみに、昭和40~41年の発掘調査では、現在の本堂下から東西31.5m、南北19mの金堂基壇、墓地のなかには、東西26m、南北18mの講堂基壇が確認されたとのこと。 古の巨大建造物を思い描きつつ、近くにあるという国分尼寺のあとにも向かいます。 国分尼寺のほうは、今もお寺が建っているわけではなく、芝生広場になっていました。 もっとも、下総の国分尼寺のほうは、中世以降完全に忘れ去られた存在で、江戸時代には何かお堂があったらしい、という程度の記憶から「昔堂」と呼ばれていたそうですね。 芝生広場では、金堂の基壇の上で子供たちが野球をしていました。 当時の大きさを示す石が、ちょうど野球のダイヤモンドみたいに並んでいるから、野球をしたくなるのも頷けますが。 国分尼寺の跡から十分ほど歩いたところにあるのがじゅんさい池公園。 ![]() 水辺と背後の緑溢れる丘陵の景観が素晴らしいですな。ここも天平の時代から、絶景スポットとして有名なのかと思ったら、昭和になってから整備して公園にしたらしいですね。 じゅんさいが自生していたのでそう呼ばれるらしいですが、池には見ることができませんでした。じゅんさいは、味噌汁に入れるとトロトロした食感が楽しめますね。 そこから堀之内貝塚公園、市川考古博物館、市川歴史博物館へ行き、市川の古代史や中世・近代史を勉強しました。興味がありすぎて、写真を撮り忘れたので、ブログではスルーさせていただきまする。 すべて無料で見学できるのでお勧めですよ。 かなり遠回りになったのですが、最後に向かったのが里見公園。 ![]() 公園のネーミングからも分かるとおり、安房の里見氏ゆかりの公園で、室町時代に里見氏が北条氏と戦った古戦場の跡でもあるらしい。 海抜20メートルの高台にあり、市川市の最高標高地点の表示がありました。 噴水や花壇の西洋庭園があって、激しい戦があったとは思えませぬ。 この公園一帯は、国府台城という城跡でもあり、土塁などから当時の縄張りを垣間見ることができます。 珍しいのは、前方後円墳の石棺が露出している場所があるんですよ。 ![]() 前方後円墳と城の土塁がコラボであったり。 古墳を破壊して城を築いたのでしょうか。 古墳は壊して欲しくはないけれど、城ヲタクとしては城をじゃんじゃん作って欲しかったりして、結構オイラ的には悩むスポットでありました。
こんにちは。 昨日の大地震には驚きましたが、今日も長野県で震度6強の地震があったそうですね。 余震にしても半端じゃない大きさですし、東北と信州は結構離れています。 もしこれらの地震が関係あるとしたら、ものすごいエネルギーが日本列島の下に渦巻いているのではないか。 …と、昔読んだSF小説のイメージが頭をよぎりました。 しかしテレビを見ると、信じられないような映像が、次々に目に飛び込んできます。 昨日は、リアルタイムで地震の揺れを感じたのですけど、まさかこんな大災害になっているとは思いませんでした。 私事で恐縮ですが、地震のあった午後2時46分、オイラは東京立川市の住宅街を歩いていたのです。 突然、目の前が大きく揺れたので、貧血でも起こしたのか、と。 そのあと、一軒の住宅から、「おおおおおお~」と雄たけびをあげながら、外へ飛び出してくるお兄さん。こっちが身構えてしまうほどの迫力でした。 工場から、パートのおばさんたちも青ざめた表情で外へ走り出てきます。 そのときはじめて地震だと気づいたのです。外を歩いていたから、あまり衝撃は感じなかったような。 あとで、その場所は震度4だったと知りました。 震度4といえば、オイラの決して短くない人生で経験した、震度のタイ記録ですよ。 これは、電車が混むかもしれないから、早く帰ろう。 そのときは、まさか都内の電車が完璧にストップするなんて思いもしません。 急いで青梅線の中神という駅へ行くと、改札に貼紙があって中に入れないのです。 青梅線がストップしても立川へ行けば何とかなるだろうと思い、パスがなかったので4キロの道のりをテクテク歩きました。 途中、電車が走らないのに踏み切りの遮断機が降りっぱなしになっていたり、鉄橋の上で乗客の乗っていない電車が立ち往生したりしている光景を目にしたりして、だんだん事態の深刻さが伝わってきました。 ![]() そうやく立川駅に着くと、改札のシャッターが下りていました。まわりには鈴なりに行き場を失った人たちで通路はあふれています。 サラリーマンや高校生にまじって、今日が卒業式なのか、着物にはかまを穿いたおねーさんたちも。 復旧に相当な時間がかかると、場内アナウンスが告げています。 相当な時間って、2~3時間くらいかな。 近くの昭和記念公園に避難所があるので、そちらへ進んでくださいとしきりにアナウンスが勧めるので、待ち時間をつぶすつもりで行くことにしました。 ちなみに昭和記念公園は、昭和天皇の在位50年を記念して開設された東京都立川市と昭島市とに跨る国営公園。150ヘクタールの広大な面積があります。 ところが、入り口付近には5~6人しか歩いていません。 ホントに、避難所があるの? 勧められて来たものの、なんだか不安になってきました。 とりあえず、奥のほうにある近代的な建物まで行ってみて、誰もいなかったら戻ろうと考え、前に進みます。 ![]() 入り口の自動ドアを抜けて中へ入ると、椅子に腰掛けている多くの人たちが目に入りました。 結構、大勢いるみたい。 かなり奥行きのある建物ですが、行けども行けども人が途切れることがありません。 集まっているのは、サラリーマンやOL、年配の人たち、大学生、高校生などバラエティに富んでいます。それから、赤ちゃんと一緒のお母さんたちも。 ![]() 午後8時過ぎに、ケータイで交通情報を確認したら、JRの復旧は本日中には無理とのことでした。 立川から東京へ行く電車のルートはいろいろありますが、現時点で動いているのは多摩モノレールだけ。 モノレールってすごいですね。羽田モノレールも地震の後動いていたと言いますし、地震に強い乗り物なのでしょうか。 それはともかく、この時点で避難所での宿泊が確定してしまいました。 うう、泊まるつもりじゃなかったので、飲み物や食べ物を何も買ってこなかった。 のどが渇いたよ~。 …と思ったら、「アサヒカルピスビバレッジ株式会社さまのご好意で、皆様にミネラルウォーターを一名様に一本をお配りいたします」との有難いアナウンスが…。 おお、いつも飲んでいる富士山のバナジウム天然水じゃ。 ![]() 困っているときは、こういうさりげない親切はありがたいもの。 その次は、毛布が配られました。年配の人、赤ちゃん連れの人、そして女性が優先ですが、大量に確保されているようで、オヤジたちにもすべて行き渡ったのでした。 しかし、夜も更けるとお腹もすきまする。 ひもじいよ~、と思ったら、何と、軽食までふるまってくれたのです。 それは、パックに入ったおこわ。 ![]() たっぷりの量で食べきれず、翌朝の朝食にもなったのでした。 さて、夜も更けて、寝る人が増えてくるのですが、絨毯の敷かれたエリアで横になる人、椅子にすわったまま転寝をする人、フロアに直接横になる人など、さまざまな寝方をチョイスします。 ![]() 絨毯のコーナーは女性たちに譲ろうと、オイラは椅子に座ったまま毛布に包まって寝る道を選択しました。 でも、腰が痛くなってきて、とても座ったままでは眠れませぬ。 仕方なく、フロアに毛布を敷き、その上に寝てみたのです。 やっぱり、寝るときは横になるのが一番とそのときは思ったのですが、下と上から冷やされて寒く、とても眠れたもんではない。 しかも、起き上がったら、全身に電気が走るような痛みが…。 これはいかんと、午前3時からは椅子を二つ並べて、足を伸ばして座り、毛布にくるまって眠ろうとしたのです。 しかし、この姿勢も途中から腰が痛くなり、とうとう一睡もできないまま朝を迎えたのでした。 こんな状況でも、いびきをかいて寝ている人が何人かいましたからね。どんな場所でも寝られる人ってうらやましいっす。 でも、みんな朝起きてトイレに行くときは、ロボコップみたいなぎこちない歩き方になっていました。 やはりいくら毛布があっても、硬いフロアに寝るのはものすごく大変だと身をもって感じました。 たった一晩で、もうギブアップです。 帰りの電車も200パーセントの込み具合でしたし…。 これは、今朝の新宿駅の風景。 ![]() こんなに混んでいる駅や電車を見たのは十何年ぶりですかね。 あとで調べてみると、オイラが泊まった「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」での避難者は最大で約600人、毛布が700枚、アルファー米が1000食分だったそうな。 オイラは、眠れないと言いつつも、ずっと横になっていたわけでありますが、昭和記念公園のスタッフの方たちは、一晩中寝ないで避難者のサポートに当たっていたのには頭が下がりました。 本来は、サポートされる側ではなく、サポートする側にならないといけないのだけれど。 東北や長野の被災地でも、多くのスタッフやボランティアが活躍しているのでしょうね。 被災されている方は、避難所でこれからも長く寝泊りすることを余儀なくされるケースが多くなると思います。 阪神大震災のときも、長い間避難所で生活しなければいけなかったそうですし。 今回も、苦しい避難所での生活が続くのではと思うと、胸が痛みます。 被災者の方たちへ深くお見舞い申し上げます。被災された地域の復興を心から祈っております。 |一覧| |