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「帝国陸軍好きの読書ノート」にお越しいただきありがとうございます
仕事を持つ身ですのでそんなに多くの本は読めないのですが、日頃読んだ本のこと、本を読んで考えたことを忘れないために読書記録をつけてます。 阿川弘之等を利用した宣伝の結果、世間では海軍善玉史観が流布しており「帝国海軍」ファンは数多くいますが「帝国陸軍」ファンは本当に少ないです。いろんなブログや本の紹介を見ても海軍の本が8:2以上で多い…そんなわけで微力ながらなるべく帝国陸軍に関係する本を紹介していこうと考えてます。 最初のうちは本当に備忘録として印象を書き残す程度だったのですが、徐々に読めばその本がどういう本なのかわかってもらえるような文章を書けるように努力しているところです。 非常に拙い文章ですし、考えの足りないところもあると思いますが、よろしければ御意見、御感想、御批判などをコメントに残してやってください。 また、内容が関係があるものでしたらトラックバックは大歓迎。事前の許可などは不要です。また、ご自身でわざわざ本の紹介を書くのが面倒な場合に参照としてお使いいただいても結構です。 このような記事でよければどんどんお願いします。 ●簡単なご案内 私の自己紹介とこのブログのカテゴリー分類の方針については「はじめに(自己紹介など)」のカテゴリーをご覧下さい。 読書記録が増えてきたので「読書記録一覧」を作成しました。 よろしければこちらもご覧ください 人気Blogランキングに登録しました よろしければクリックしてやってください 五年現役兵の読書ノートと日記 [全256件]
10月16日金曜日 今週も仕事を14時半で切り上げて、今度は国立新美術館に「THE ハプスブルグ」展を見に行きました。 18日にテレビで特番が放送されるそうなので先週の「皇室の名宝」展に続いて2週連続になりますが混雑を避けるには仕方ありません。 国立新美術館には15時頃に到着したのですが、先週おなじ金曜日のほぼ同じ時間帯に行った「皇室の名宝」展よりは空いていました。 入場制限も無く、並ばなくてはならないわけでもなく、所々人が溜まっているところがある程度で展示を見るのに支障はほとんどありません。 上手くタイミングを見計らうと展示物の前ががら空きになる事もあり、過去の経験の中でも比較的ゆっくり鑑賞できた部類に入るかと思われます。 唯一並ばないと見れなかったのが「風俗・物語・花鳥図画帖」という日本の皇室からオーストリア皇帝に19世紀に贈られたという図画帖でした。 客層は「皇室の名宝」展以上に女性の比率が高く、8割以上かも知れません。中年以上の女性が多いです。 結果、一番混雑していたのが最後のショップのところ―とにかく女性ばかりが溜まっていた―だったような印象があります。 あまりに女性ばかりで混雑しているのでみやげ物を買うのをあきらめてしまいました… ちなみに今回展示されている絵画についてはほとんどがウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の収蔵品、工芸品については数点を除いてウィーン美術史美術館の収蔵品だそうです。 結論から言えば、絵画に関しては事前に本展のホームページを見て抱いた期待よりもはるかに良かったと思います。 特に個人的には、大好きなドイツ・イタリアの16世紀絵画―よくバロック・マニエリスム絵画と言われているもの―が予想以上に多くあり、その質も優れていたのが嬉しかったです。 中でもルーカス・クラナッハ(父)の作品は「聖人と寄進者のいるキリストの哀悼」と「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」の2点があったのですが、「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」が印象的でした。 クラナッハの女性像では定番の赤い帽子、切れ長の眼、卵形の頭、ゴシック風というか中世風の肩幅が狭くて胸が小さい身体 大学生の頃に読んだ―そしてなぜか文庫初版を今も保有している―澁澤龍彦『幻想の肖像』(河出文庫,1986)のクラナッハの「ユディット」を論じた部分がそのまま当てはまるかのような幻想的な女性の姿と、グロテスクなヨハネの首の切断面のコントラスト (「ユディット」においてはホロフェルネスの首ですが、構図も結構似ているように思えます) また、そういう構成も魅力的なのですが、この作品は左手奥、窓の外の風景の幻想的な清澄な色彩も綺麗だし、それ以上にサロメの左肩周辺の肌の色がとても美しいのも印象的でした。 ちなみに、なんで学生の頃(大昔)に読んだ『幻想の肖像』など思い出したのかと言えば、今回の展覧会ではアルブレヒト・デューラー『若いヴェネツイア女性の肖像』も展示されているのですが、これもこの本の中で「ヴェネツイアの少女」として取り上げられていたから。 記憶をたどって手持ちの文庫本をざっと調べてみたところ、澁澤龍彦の著作でクラナッハについて書いてあるのは上述の『幻想の肖像』以外には『エロティシズム』(中公文庫,1984)の文庫版あとがきがありました。 澁澤龍彦がお好きな方は、本展を見る前にこれらを読んでおくといいかも知れません。 イタリア絵画のほうはティツィアーノが有名なイザベラ・デステの肖像画を含む4点(うち一点は工房作)、ティントレットが3点。 ヴェロネーゼは1点だけだったのですが「ホロフェルネスの首をもつユディット」はこれらの中で最も印象的な作品でした (単に私がこの手のテーマが好き、というだけかもしれませんが…)。 スペイン、オランダ・フランドル絵画に関しては17世紀のものに重点が置かれており、ベラスケスが3点、ムリーリョとルーベンスがそれぞれ工房のもの1点を含めて3点。 クラナッハが私の好みに合い印象的過ぎたので、ベラスケスの肖像画2点以外は印象が薄い… またかなりの数の工芸品もあったのですが、この分野に関しては個人的な印象ですがつい先日見た「皇室の名宝」展のものの方が優れていたような気がします。 決して悪いと言うわけではないのですが… 見に行く順番を間違えたかも知れません。 武具については装飾的で綺麗だったのですが、武具が本来持つべき威圧感や機能美が余り感じられなく物足りなかったです。 「皇室の名宝」展の刀剣の展示は2期なのでまだ始まっていないのですが、国立博物館の通常展で展示されている日本の刀剣や鎧を何度も見て慣れているからなのか、日本人(あるいは私個人)の感性に合わないのかはわかりませんが…
10月9日金曜日 仕事を14時半で切り上げて、東京国立博物館の特別展「皇室の名宝―日本美の華」展を見に行きました。 会場の国立博物館平成館には15時頃に到着しましたが、平日の日中だというのに先日行った国立西洋美術館の「古代ローマ帝国の遺産-栄光の都ローマと悲劇の町ポンペイ」展の土曜日より混雑していたような気がします。 とはいっても、入場制限があるわけでもなく、入るのに並ばなくてはならないわけでもなく、人が多いなぁとは思いましたが展示を見るのに大きな支障があるほどではありません。 平日の日中だからか、伊藤若冲目当てからか、来場者に中年女性や年配者が多いのが印象的です。 この様子ですと土日は人が多くて大変かもしれません。 本展は11月12日で展示が総入れ替えになるそうで、個人的には2期の刀剣に一番期待しているものですから、若冲目当ての人が来なくなって2期はもう少し空いていてくれると嬉しいところです。 でも、入り口で見た限りでは1期、2期セットのチケットを持っている人が多かったので、同じくらいは混むと覚悟しておいた方がいいような気もします。 さて、今回の特別展には平成館の2階が全部あてられており、ゆっくり見たつもりなのですが、所要時間は1時間半から2時間と言ったところでした。 今回見てきた1期の展示内容は、近世絵画が半分、明治以降の美術工芸品が半分となっています。 まず、近世絵画のほうですが、2番目の結構大きな部屋が全て若冲というのはインパクトがありました。 ネットでも見る事のできる展示品の目録では「動植綵絵」として1点にカウントされているのですが、実際には30幅から成りますので、もう一点の若冲作品を含めると合計31幅あり、それが一室にまとめて展示されているのは壮観でした。 できることなら閑散とした状態のときに見てみたいものですが、そんなことは維持会員になって内覧会でも招待されない限り無理でしょうね。 さて、この「動植綵絵」、30幅で一組と言う事なので一幅は小さいと思っていたのですが普通の大きさなんですね。 私は他の若冲の絵は見たことが無い(あるかもしれないが記憶が無いだけかもしれませんが…)ので、若冲作品のなかでどの程度の位置を占めるのかを評する事はできませんが、一幅毎の絵としての完成度も高いものです。 また、教科書などにも載っているので有名な狩野栄徳・狩野常筆の「唐獅子図屏風」もパンフレットに載っている有名な右側だけではなく左側も並んで今回展示されているのですが、これも図録や写真などが実物の魅力のほとんどを伝える事ができない類の作品―ベラスケスとかギュスターブ・モローの「一角獣」とか―のひとつである事を実感させられました。 やはり、作品の大きさ、背景の金色の微妙な輝きなどは最良の印刷でもその魅力の半分も表現できないのではないかと思います。 これは今回展示されている近世絵画のほとんどについて言えることなのですが、表具がとても綺麗で、また保存状態も良好なものが多かった事も印象的でした。 このあたり流石は皇室収蔵品、というところでしょうね。 残る半分、明治以降の美術工芸品の方は、絵画に関しては近世絵画ほど魅力的ではなかった―近世絵画の方が良作を集めすぎているというのもあるのではないか―と思うのですが、工芸品の方は比較的単純で私のような素人にも見ればわかる綺麗さなので私のように日本美術史の知識がほとんど無い人でも単純に楽しめるのではないかと思いますが、やはり前半の近世絵画に比べると物足りなかったという印象があります。 一見してもわかるほど工芸品としての完成度が高いものが多いのですが、やはり制作年代や作者によるバイアスが作用しているのでしょうか? この点に関しては審美眼のある方に伺ってみたいところです。
安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その3 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません ・ 現在までに出版された「山下奉文」に関する伝記の中で、もっとも信頼性ありとされている沖修二著『至誠通天 山下奉文』… p.13 ・ 生前の山下は、きわめて身近な人々にさえ母方の実家森田家や生まれ故郷の事を口を緘して語っていない。義妹の永山勝子もそれを山下自身から聞いた記憶が全くないというp.14 ・ 母方の実家森田家(高知県香北市白川)の由来p.14- ・ 《海南学校およびその校長吉田数馬に関する記述》p.60-67 ・ 《明治33年9月1日 広島陸軍幼年学校に入校した4期生》50名のうち土佐出身者が17名、2年生では50名中10名、3年生が50名中15名。一方で長州出身者は全校で4名のみp.77 《確かに、著者の言うとおり土佐における軍人熱の高さがよくわかります。ただ、その原因についてまでは言及されていません。その一つは海南学校の存在もあるとは思われますが…。もしかすると長州は中央勤務の親が多い可能性がありますので広島ではなく中央幼年学校の方に多いのかもしれません》 ・ 沢田茂(参謀次長)によると山下の幼年学校での成績はいつも10番以内。阿南惟幾は90番くらいだったp.81 ・ 幼年学校での山下の同期、甘粕重太郎は甘粕正彦の親戚。大杉栄惨殺事件の際、甘粕重太郎は陸軍省軍事課にいた山下のもとへ度々相談に訪れ、山下は親身になって善後策を考えてやったp.99 ・ 《永山元彦騎兵少将(山下の義父)の経歴やエピソード―主に永山勝子の証言による》p.111-116 ・ 《山下奉文の兄の奉表に関する記述―16歳で医師試験に合格したが若すぎて医師免状がもらえず18歳になって免状が下付された。軍医として旅順港閉塞戦に参加し軍医としては初と思われる功五級金鵄勲章を下賜された、など》p.137- ・ 《津野田知重少佐(東條暗殺未遂事件の首謀者の一人)の親、津野田是重とその夫人に関する記述。津野田是重夫人は信州財閥小坂善太郎一門の出身で、山下の義妹永山峯子と児島高信の仲人。》p.159 ・ 山下は《ウィーン駐在で》渡欧する前は痩せていたが、戻ってきたときには太っていたp.195 ・ 《荒木陸相の秘書官だった有末精三から著者が直接聞いた、荒木陸相下での軍事課長への山下選任の理由とその評価》p.231,233 ・ 《著者が沢田茂(参謀次長)から直接聞いた真崎の評価》p.234 ・ 軍事課長時代の山下のあだ名は「散水車」。大量の汗をかくためp.235 ・ 当時《時期の詳細な指定なし、戦前、位の意味か?》山内家では陸士在学中の土佐出身者の中で、特に卒業間近となった者を集めて激励する会が、毎年一回もよおされていた。主賓格はその年の卒業予定者で、招待されるのは陸士在学者と陸士卒業の在京土佐出身者。山下も在京中であれば出席していたp.240 ・ 昭和9年8月、山下は少将に進級。同時に陸軍省軍事課長から陸軍兵器本廠付となる。同期では9番目p.259 ・ 《相沢事件について山下が永山勝子らに当日語った内容、並びに山下の永田軍務局長への評価》p.266 第4章 山下擁護論 ・ 《沢田茂の所謂「山下狡猾論」に対する評価(否定的)。著者が直接聞き取ったもの》p.278 ・ 《皇道派と山下の関係に関する有末精三の証言》p.279 ・ 《清原康平元陸軍少尉から著者が得た証言―山下の「岡田を斬る」と言う発言に対する当時の青年将校側の実感》p.284 ・ 《永山勝子の著者への証言―山下はとにかく財閥が嫌いで、三越では物を買うなと言っていた。財閥はつぶさねばならぬと考えていたようで、贈物なども金持ちの家には持っていかない反面、出入りの大工や職人は大切にした》p.285 ・ 《二.二六事件当日朝の山下に関する永山勝子の証言》p.287,291 ・ 事件の朝、山下の自宅に第一報を電話で知らせてきたのは陸相秘書官小松光彦少佐。少佐の養家は山下家に近かった関係で、かなり緊密に連絡を取りやすかったと推定され、川島陸相の意図を小松秘書官を通じて熟知することができたと思われるp.288 ・ 《著者が直接、山下が青年将校に阿っていたと思うかと聞いた事に対する沢田茂の回答》p.295 ・ 有末精三は山下が陸軍大臣告知の作成に関与していなかったと著者に語っている《山下の評伝を書いているから、山下を美化しようとしたのでしょうか?この点に関しては著者も疑義を抱いているようで、有末の証言はこういう点からも鵜呑みにはできないのではないかと思われます》p.303 ・ 昭和63年5月23日、著者が池田俊彦元少尉に山下を狡猾な人物だと思うか尋ねた際の池田元少尉の回答 「あの二・二六事件は、私たち青年将校が憂国の気持ちから起したもので、山下さんがそそのかしたとか、そそのかされたとは全く考えていません。私は山下さんをずるい人間だとは思っておりません。そんな方ではないと思います。 《中略》当時は陸軍の首脳部の方々が、天皇陛下のご意志を明示することは、責任を天皇陛下に転嫁することになり、『禁句』であったのです。だから言いたくても言えないわけです。《中略》…『雪は汚れていた』の著作や、NHKの特集などで、実情を知らずに、「闇」という言葉を使ったりして、あたかも、陸軍上層部の将軍の陰謀などと推理を飛躍させ、三段論法的に書いておられますが、蹶起の事実を全く知らない、実にけしからぬことです。私の仲間の一人などは、これらの事件の取り扱いを、『羊頭を掲げて狗肉を売っている』といって、大変憤激していますよ」p.308 《松本清張に代表される作家たちやNHK特集の採る陸軍上層部陰謀説は、青年将校の側から見る限りでは事実に反しており同意できるものではない、と言う事はほぼ間違いないのではないかと思います。 これは発生後に事件を利用しようとした陸軍の将官が存在しなかった事の証明とはなりませんが…》 第5章 揺れる山下 ・ 《二・二六事件後山下はクビになる覚悟をしていたという永山勝子の証言》p.354 ・ 山下の妻の妹春子は朝日放送重役になった森本重武の妻p.362 ・ 《有末精三の証言。何かのついでに龍山の山下(四十旅団長)へ立ち寄ったところ、陸軍省に帰ったら武藤章に『貴様まで疑われるぞ』と小言を言われた》p.375 ・ 山下は歩兵第三聯隊長の頃から書の依頼が多くなったので書道をはじめ、雅号は最初は紫山、後に巨杉に変更。永山勝子によると雅号の変更は龍山以後。巨杉は高知県長岡郡大杉村大杉にある樹齢三千年の杉にちなんだものp.378 ・ 山下の初陣は北京郊外南苑近くの黄村における戦闘《同戦闘に関する簡単な記述あるも典拠は不明》p.387 ・ 《安藤正(陸士47期)『非凡なる戦術家、山下大将独創的な南苑攻略』(一方会会誌第十五号)に基づく南苑の戦闘における四十旅団に関する記述》p.388- ・ 《沢田茂の回想。旅団長時代の山下の言動から、第一線で死に場所を求めているとの印象を受けた、というもの》p.391 ・ 《永山元彦元陸軍少将(山下の義父)が鎌倉の稲村ヶ崎に恩給を担保にして家を購入したが》その恩給の担保を山下は支那事変で得た功三級金鵄勲章の恩賜金で抜く代わりに家と敷地の名義を山下久子にした。これが後に問題を惹起するp.402 ・ 昭和14年、板垣陸相が山下を駐蒙軍司令官に据えようとしたが昭和天皇が躊躇。理由は二・二六事件と天津租界封鎖。閑院宮が考課表をもとに説明したところ二・二六事件については納得されたが天津租界では疑念をもたれ奏上を取り下げp.404 《東條の山下嫌いについて明確な原因は定かでは無いようなのですが、狭量とか言う問題より、天皇に対する忠誠心から不興を買っている山下を中央から遠ざけただけのような気がしないでもありません。実際には予備役に入れようともしていませんし、重要な作戦には起用しています。戦場に出るのを貧乏籤と考える風潮は当時(少なくとも高級将校には)ほとんど無かったことは考慮すべきでしょう。戦後に作家の書いたものには戦場に出る=左遷という下士官兵や戦後の価値観で高級将校を論じているものが少なくありません。》 ・ 《山下の航空総監就任人事に関する沢田茂の談話。東條が陸相になりそうになったので沢田が阿南と話し畑陸相の在任中に山下を中央に引っ張り出す工作をした。山下が東條の後任の航空総監となる事を阿南が東條に報告したところ怒鳴られた》p.414- ・ 山下が航空総監時代に住んでいた家は三番町にあった鈴木「味の素」社長宅の敷地内、入り口近くにあった鈴木社長の次男の家p.419 ・ 山下は妻の妹永山哲子と兄奉表の長男真一とを結婚させてゆくゆくは山下家を継がせたいと考えていたようだが、真一がノモンハンで戦死したので実現せずp.424 ・ 《沢田茂の直話―近衛内閣総辞職のとき、後任の陸相に山下がなることを東條は心配したらしい。参謀本部に直接連絡してきて満州防衛司令官の編制を急げと催促してきた。当時山下は青年将校に人気があった。東條は山下を生理的に嫌っていたとしか思えない(何か個別・具体的な理由や因縁があったというわけではないようだ、ということでしょうか)》p.436 ・ 《有末精三の談話。参謀本部第二部長時代、近江の柳川平助に何かのことで電話したところ盗聴されていた》p.438 ・ 《山下の日誌における辛らつな辻正信評》「この男矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上、注意すべき男なり。小才物多く、がっちりしたる人物に乏しきに至りたるは、また教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面的端正なる者を用いて小才を愛す故に、年と共にこの種の男、増加するは困りものなり―」p.513 ・ 《杉田一次二十五軍参謀の証言。英軍が簡単に降伏するとは考えていなかったので降伏条件を書いた文書は慎重に書いたものではない。当時無条件降伏ということは考えていなかった。誰かが大本営に「無条件降伏」という電報を打ったのだが、事後に調査したが誰がやったのかは判明しなかった》P.575- ・ 昭和53年7月8日付高知新聞に、山本春一陸軍少佐が書いた記事が掲載されている。山下の「イエスかノーか」は通訳の菱刈氏《菱刈隆文大将の子息》に言ったものである旨のものp.579 ・ 著者による山下の短歌への評価。「…やや古臭い感じがする。いわば古今集的ともいえる。言葉も生硬であり、おせじにも洗練された秀作とはいえない。」p.630- |一覧| |
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