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THE ハプスブルグ展/国立新美… (読書・コミック)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
帝国陸軍好きの読書ノート
五年現役兵の読書ノートと日記

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2009.10.16 楽天プロフィール Add to Google XML

THE ハプスブルグ展/国立新美術館
[ 美術史とか ]    

10月16日金曜日
今週も仕事を14時半で切り上げて、今度は国立新美術館に「THE ハプスブルグ」展を見に行きました。

18日にテレビで特番が放送されるそうなので先週の「皇室の名宝」展に続いて2週連続になりますが混雑を避けるには仕方ありません。

国立新美術館には15時頃に到着したのですが、先週おなじ金曜日のほぼ同じ時間帯に行った「皇室の名宝」展よりは空いていました。

入場制限も無く、並ばなくてはならないわけでもなく、所々人が溜まっているところがある程度で展示を見るのに支障はほとんどありません。
上手くタイミングを見計らうと展示物の前ががら空きになる事もあり、過去の経験の中でも比較的ゆっくり鑑賞できた部類に入るかと思われます。
唯一並ばないと見れなかったのが「風俗・物語・花鳥図画帖」という日本の皇室からオーストリア皇帝に19世紀に贈られたという図画帖でした。

客層は「皇室の名宝」展以上に女性の比率が高く、8割以上かも知れません。中年以上の女性が多いです。
結果、一番混雑していたのが最後のショップのところ―とにかく女性ばかりが溜まっていた―だったような印象があります。
あまりに女性ばかりで混雑しているのでみやげ物を買うのをあきらめてしまいました…


ちなみに今回展示されている絵画についてはほとんどがウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の収蔵品、工芸品については数点を除いてウィーン美術史美術館の収蔵品だそうです。


結論から言えば、絵画に関しては事前に本展のホームページを見て抱いた期待よりもはるかに良かったと思います。

特に個人的には、大好きなドイツ・イタリアの16世紀絵画―よくバロック・マニエリスム絵画と言われているもの―が予想以上に多くあり、その質も優れていたのが嬉しかったです。

中でもルーカス・クラナッハ(父)の作品は「聖人と寄進者のいるキリストの哀悼」と「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」の2点があったのですが、「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」が印象的でした。

クラナッハの女性像では定番の赤い帽子、切れ長の眼、卵形の頭、ゴシック風というか中世風の肩幅が狭くて胸が小さい身体
大学生の頃に読んだ―そしてなぜか文庫初版を今も保有している―澁澤龍彦『幻想の肖像』(河出文庫,1986)のクラナッハの「ユディット」を論じた部分がそのまま当てはまるかのような幻想的な女性の姿と、グロテスクなヨハネの首の切断面のコントラスト
(「ユディット」においてはホロフェルネスの首ですが、構図も結構似ているように思えます)

また、そういう構成も魅力的なのですが、この作品は左手奥、窓の外の風景の幻想的な清澄な色彩も綺麗だし、それ以上にサロメの左肩周辺の肌の色がとても美しいのも印象的でした。


ちなみに、なんで学生の頃(大昔)に読んだ『幻想の肖像』など思い出したのかと言えば、今回の展覧会ではアルブレヒト・デューラー『若いヴェネツイア女性の肖像』も展示されているのですが、これもこの本の中で「ヴェネツイアの少女」として取り上げられていたから。

記憶をたどって手持ちの文庫本をざっと調べてみたところ、澁澤龍彦の著作でクラナッハについて書いてあるのは上述の『幻想の肖像』以外には『エロティシズム』(中公文庫,1984)の文庫版あとがきがありました。

澁澤龍彦がお好きな方は、本展を見る前にこれらを読んでおくといいかも知れません。


イタリア絵画のほうはティツィアーノが有名なイザベラ・デステの肖像画を含む4点(うち一点は工房作)、ティントレットが3点。
ヴェロネーゼは1点だけだったのですが「ホロフェルネスの首をもつユディット」はこれらの中で最も印象的な作品でした
(単に私がこの手のテーマが好き、というだけかもしれませんが…)。


スペイン、オランダ・フランドル絵画に関しては17世紀のものに重点が置かれており、ベラスケスが3点、ムリーリョとルーベンスがそれぞれ工房のもの1点を含めて3点。
クラナッハが私の好みに合い印象的過ぎたので、ベラスケスの肖像画2点以外は印象が薄い…


またかなりの数の工芸品もあったのですが、この分野に関しては個人的な印象ですがつい先日見た「皇室の名宝」展のものの方が優れていたような気がします。
決して悪いと言うわけではないのですが…
見に行く順番を間違えたかも知れません。


武具については装飾的で綺麗だったのですが、武具が本来持つべき威圧感や機能美が余り感じられなく物足りなかったです。

「皇室の名宝」展の刀剣の展示は2期なのでまだ始まっていないのですが、国立博物館の通常展で展示されている日本の刀剣や鎧を何度も見て慣れているからなのか、日本人(あるいは私個人)の感性に合わないのかはわかりませんが…

最終更新日  2009.10.17 11:44:34
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2009.10.11

皇室の名宝―日本美の華 展
[ 美術史とか ]    

10月9日金曜日
仕事を14時半で切り上げて、東京国立博物館の特別展「皇室の名宝―日本美の華」展を見に行きました。

会場の国立博物館平成館には15時頃に到着しましたが、平日の日中だというのに先日行った国立西洋美術館の「古代ローマ帝国の遺産-栄光の都ローマと悲劇の町ポンペイ」展の土曜日より混雑していたような気がします。

とはいっても、入場制限があるわけでもなく、入るのに並ばなくてはならないわけでもなく、人が多いなぁとは思いましたが展示を見るのに大きな支障があるほどではありません。

平日の日中だからか、伊藤若冲目当てからか、来場者に中年女性や年配者が多いのが印象的です。
この様子ですと土日は人が多くて大変かもしれません。


本展は11月12日で展示が総入れ替えになるそうで、個人的には2期の刀剣に一番期待しているものですから、若冲目当ての人が来なくなって2期はもう少し空いていてくれると嬉しいところです。
でも、入り口で見た限りでは1期、2期セットのチケットを持っている人が多かったので、同じくらいは混むと覚悟しておいた方がいいような気もします。


さて、今回の特別展には平成館の2階が全部あてられており、ゆっくり見たつもりなのですが、所要時間は1時間半から2時間と言ったところでした。

今回見てきた1期の展示内容は、近世絵画が半分、明治以降の美術工芸品が半分となっています。

まず、近世絵画のほうですが、2番目の結構大きな部屋が全て若冲というのはインパクトがありました。

ネットでも見る事のできる展示品の目録では「動植綵絵」として1点にカウントされているのですが、実際には30幅から成りますので、もう一点の若冲作品を含めると合計31幅あり、それが一室にまとめて展示されているのは壮観でした。
できることなら閑散とした状態のときに見てみたいものですが、そんなことは維持会員になって内覧会でも招待されない限り無理でしょうね。

さて、この「動植綵絵」、30幅で一組と言う事なので一幅は小さいと思っていたのですが普通の大きさなんですね。
私は他の若冲の絵は見たことが無い(あるかもしれないが記憶が無いだけかもしれませんが…)ので、若冲作品のなかでどの程度の位置を占めるのかを評する事はできませんが、一幅毎の絵としての完成度も高いものです。

また、教科書などにも載っているので有名な狩野栄徳・狩野常筆の「唐獅子図屏風」もパンフレットに載っている有名な右側だけではなく左側も並んで今回展示されているのですが、これも図録や写真などが実物の魅力のほとんどを伝える事ができない類の作品―ベラスケスとかギュスターブ・モローの「一角獣」とか―のひとつである事を実感させられました。
やはり、作品の大きさ、背景の金色の微妙な輝きなどは最良の印刷でもその魅力の半分も表現できないのではないかと思います。


これは今回展示されている近世絵画のほとんどについて言えることなのですが、表具がとても綺麗で、また保存状態も良好なものが多かった事も印象的でした。
このあたり流石は皇室収蔵品、というところでしょうね。


残る半分、明治以降の美術工芸品の方は、絵画に関しては近世絵画ほど魅力的ではなかった―近世絵画の方が良作を集めすぎているというのもあるのではないか―と思うのですが、工芸品の方は比較的単純で私のような素人にも見ればわかる綺麗さなので私のように日本美術史の知識がほとんど無い人でも単純に楽しめるのではないかと思いますが、やはり前半の近世絵画に比べると物足りなかったという印象があります。

一見してもわかるほど工芸品としての完成度が高いものが多いのですが、やはり制作年代や作者によるバイアスが作用しているのでしょうか?

この点に関しては審美眼のある方に伺ってみたいところです。


最終更新日  2009.10.12 02:24:18
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2009.10.09

安岡正隆『山下奉文正伝』 その3
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その3


 ◇ メ モ(摘 録)

 ・ 《 》 の内側は私見や所感です
 ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです
   内容の要約やあらすじにはなっていません


・ 現在までに出版された「山下奉文」に関する伝記の中で、もっとも信頼性ありとされている沖修二著『至誠通天 山下奉文』… p.13

・ 生前の山下は、きわめて身近な人々にさえ母方の実家森田家や生まれ故郷の事を口を緘して語っていない。義妹の永山勝子もそれを山下自身から聞いた記憶が全くないというp.14

・ 母方の実家森田家(高知県香北市白川)の由来p.14-

・ 《海南学校およびその校長吉田数馬に関する記述》p.60-67

・ 《明治33年9月1日 広島陸軍幼年学校に入校した4期生》50名のうち土佐出身者が17名、2年生では50名中10名、3年生が50名中15名。一方で長州出身者は全校で4名のみp.77
《確かに、著者の言うとおり土佐における軍人熱の高さがよくわかります。ただ、その原因についてまでは言及されていません。その一つは海南学校の存在もあるとは思われますが…。もしかすると長州は中央勤務の親が多い可能性がありますので広島ではなく中央幼年学校の方に多いのかもしれません》

・ 沢田茂(参謀次長)によると山下の幼年学校での成績はいつも10番以内。阿南惟幾は90番くらいだったp.81

・ 幼年学校での山下の同期、甘粕重太郎は甘粕正彦の親戚。大杉栄惨殺事件の際、甘粕重太郎は陸軍省軍事課にいた山下のもとへ度々相談に訪れ、山下は親身になって善後策を考えてやったp.99

・ 《永山元彦騎兵少将(山下の義父)の経歴やエピソード―主に永山勝子の証言による》p.111-116

・ 《山下奉文の兄の奉表に関する記述―16歳で医師試験に合格したが若すぎて医師免状がもらえず18歳になって免状が下付された。軍医として旅順港閉塞戦に参加し軍医としては初と思われる功五級金鵄勲章を下賜された、など》p.137-

・ 《津野田知重少佐(東條暗殺未遂事件の首謀者の一人)の親、津野田是重とその夫人に関する記述。津野田是重夫人は信州財閥小坂善太郎一門の出身で、山下の義妹永山峯子と児島高信の仲人。》p.159

・ 山下は《ウィーン駐在で》渡欧する前は痩せていたが、戻ってきたときには太っていたp.195

・ 《荒木陸相の秘書官だった有末精三から著者が直接聞いた、荒木陸相下での軍事課長への山下選任の理由とその評価》p.231,233

・ 《著者が沢田茂(参謀次長)から直接聞いた真崎の評価》p.234

・ 軍事課長時代の山下のあだ名は「散水車」。大量の汗をかくためp.235

・ 当時《時期の詳細な指定なし、戦前、位の意味か?》山内家では陸士在学中の土佐出身者の中で、特に卒業間近となった者を集めて激励する会が、毎年一回もよおされていた。主賓格はその年の卒業予定者で、招待されるのは陸士在学者と陸士卒業の在京土佐出身者。山下も在京中であれば出席していたp.240

・ 昭和9年8月、山下は少将に進級。同時に陸軍省軍事課長から陸軍兵器本廠付となる。同期では9番目p.259

・ 《相沢事件について山下が永山勝子らに当日語った内容、並びに山下の永田軍務局長への評価》p.266


第4章 山下擁護論

・ 《沢田茂の所謂「山下狡猾論」に対する評価(否定的)。著者が直接聞き取ったもの》p.278

・ 《皇道派と山下の関係に関する有末精三の証言》p.279

・ 《清原康平元陸軍少尉から著者が得た証言―山下の「岡田を斬る」と言う発言に対する当時の青年将校側の実感》p.284

・ 《永山勝子の著者への証言―山下はとにかく財閥が嫌いで、三越では物を買うなと言っていた。財閥はつぶさねばならぬと考えていたようで、贈物なども金持ちの家には持っていかない反面、出入りの大工や職人は大切にした》p.285

・ 《二.二六事件当日朝の山下に関する永山勝子の証言》p.287,291

・ 事件の朝、山下の自宅に第一報を電話で知らせてきたのは陸相秘書官小松光彦少佐。少佐の養家は山下家に近かった関係で、かなり緊密に連絡を取りやすかったと推定され、川島陸相の意図を小松秘書官を通じて熟知することができたと思われるp.288

・ 《著者が直接、山下が青年将校に阿っていたと思うかと聞いた事に対する沢田茂の回答》p.295

・ 有末精三は山下が陸軍大臣告知の作成に関与していなかったと著者に語っている《山下の評伝を書いているから、山下を美化しようとしたのでしょうか?この点に関しては著者も疑義を抱いているようで、有末の証言はこういう点からも鵜呑みにはできないのではないかと思われます》p.303

・ 昭和63年5月23日、著者が池田俊彦元少尉に山下を狡猾な人物だと思うか尋ねた際の池田元少尉の回答
「あの二・二六事件は、私たち青年将校が憂国の気持ちから起したもので、山下さんがそそのかしたとか、そそのかされたとは全く考えていません。私は山下さんをずるい人間だとは思っておりません。そんな方ではないと思います。
《中略》当時は陸軍の首脳部の方々が、天皇陛下のご意志を明示することは、責任を天皇陛下に転嫁することになり、『禁句』であったのです。だから言いたくても言えないわけです。《中略》…『雪は汚れていた』の著作や、NHKの特集などで、実情を知らずに、「闇」という言葉を使ったりして、あたかも、陸軍上層部の将軍の陰謀などと推理を飛躍させ、三段論法的に書いておられますが、蹶起の事実を全く知らない、実にけしからぬことです。私の仲間の一人などは、これらの事件の取り扱いを、『羊頭を掲げて狗肉を売っている』といって、大変憤激していますよ」p.308

《松本清張に代表される作家たちやNHK特集の採る陸軍上層部陰謀説は、青年将校の側から見る限りでは事実に反しており同意できるものではない、と言う事はほぼ間違いないのではないかと思います。
これは発生後に事件を利用しようとした陸軍の将官が存在しなかった事の証明とはなりませんが…》


第5章 揺れる山下

・ 《二・二六事件後山下はクビになる覚悟をしていたという永山勝子の証言》p.354

・ 山下の妻の妹春子は朝日放送重役になった森本重武の妻p.362

・ 《有末精三の証言。何かのついでに龍山の山下(四十旅団長)へ立ち寄ったところ、陸軍省に帰ったら武藤章に『貴様まで疑われるぞ』と小言を言われた》p.375

・ 山下は歩兵第三聯隊長の頃から書の依頼が多くなったので書道をはじめ、雅号は最初は紫山、後に巨杉に変更。永山勝子によると雅号の変更は龍山以後。巨杉は高知県長岡郡大杉村大杉にある樹齢三千年の杉にちなんだものp.378

・ 山下の初陣は北京郊外南苑近くの黄村における戦闘《同戦闘に関する簡単な記述あるも典拠は不明》p.387

・ 《安藤正(陸士47期)『非凡なる戦術家、山下大将独創的な南苑攻略』(一方会会誌第十五号)に基づく南苑の戦闘における四十旅団に関する記述》p.388-

・ 《沢田茂の回想。旅団長時代の山下の言動から、第一線で死に場所を求めているとの印象を受けた、というもの》p.391

・ 《永山元彦元陸軍少将(山下の義父)が鎌倉の稲村ヶ崎に恩給を担保にして家を購入したが》その恩給の担保を山下は支那事変で得た功三級金鵄勲章の恩賜金で抜く代わりに家と敷地の名義を山下久子にした。これが後に問題を惹起するp.402

・ 昭和14年、板垣陸相が山下を駐蒙軍司令官に据えようとしたが昭和天皇が躊躇。理由は二・二六事件と天津租界封鎖。閑院宮が考課表をもとに説明したところ二・二六事件については納得されたが天津租界では疑念をもたれ奏上を取り下げp.404
《東條の山下嫌いについて明確な原因は定かでは無いようなのですが、狭量とか言う問題より、天皇に対する忠誠心から不興を買っている山下を中央から遠ざけただけのような気がしないでもありません。実際には予備役に入れようともしていませんし、重要な作戦には起用しています。戦場に出るのを貧乏籤と考える風潮は当時(少なくとも高級将校には)ほとんど無かったことは考慮すべきでしょう。戦後に作家の書いたものには戦場に出る=左遷という下士官兵や戦後の価値観で高級将校を論じているものが少なくありません。》

・ 《山下の航空総監就任人事に関する沢田茂の談話。東條が陸相になりそうになったので沢田が阿南と話し畑陸相の在任中に山下を中央に引っ張り出す工作をした。山下が東條の後任の航空総監となる事を阿南が東條に報告したところ怒鳴られた》p.414-

・ 山下が航空総監時代に住んでいた家は三番町にあった鈴木「味の素」社長宅の敷地内、入り口近くにあった鈴木社長の次男の家p.419

・ 山下は妻の妹永山哲子と兄奉表の長男真一とを結婚させてゆくゆくは山下家を継がせたいと考えていたようだが、真一がノモンハンで戦死したので実現せずp.424

・ 《沢田茂の直話―近衛内閣総辞職のとき、後任の陸相に山下がなることを東條は心配したらしい。参謀本部に直接連絡してきて満州防衛司令官の編制を急げと催促してきた。当時山下は青年将校に人気があった。東條は山下を生理的に嫌っていたとしか思えない(何か個別・具体的な理由や因縁があったというわけではないようだ、ということでしょうか)》p.436

・ 《有末精三の談話。参謀本部第二部長時代、近江の柳川平助に何かのことで電話したところ盗聴されていた》p.438

・ 《山下の日誌における辛らつな辻正信評》「この男矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上、注意すべき男なり。小才物多く、がっちりしたる人物に乏しきに至りたるは、また教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面的端正なる者を用いて小才を愛す故に、年と共にこの種の男、増加するは困りものなり―」p.513

・ 《杉田一次二十五軍参謀の証言。英軍が簡単に降伏するとは考えていなかったので降伏条件を書いた文書は慎重に書いたものではない。当時無条件降伏ということは考えていなかった。誰かが大本営に「無条件降伏」という電報を打ったのだが、事後に調査したが誰がやったのかは判明しなかった》P.575-

・ 昭和53年7月8日付高知新聞に、山本春一陸軍少佐が書いた記事が掲載されている。山下の「イエスかノーか」は通訳の菱刈氏《菱刈隆文大将の子息》に言ったものである旨のものp.579

・ 著者による山下の短歌への評価。「…やや古臭い感じがする。いわば古今集的ともいえる。言葉も生硬であり、おせじにも洗練された秀作とはいえない。」p.630-




最終更新日  2009.10.09 23:30:41
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2009.10.06

安岡正隆『山下奉文正伝』 その2
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その2


 ◇ 内容と雑感


本書は、軍事的な面での関心から読み始めた方は途中で投げ出してしまうのではないかと心配になるほど、山下奉文の幼少期、両親、当時の出生地近辺の環境に関する描写が冒頭からかなりの紙数を費やして語られています。

この部分で最も興味深いのは、「父は田舎医師で、母は豪農の生まれであった」、と山下自身が語っていたのに対して、著者が古老に聞き取りを行ったところでは母方の実家は「元」豪農の家であって、母が結婚する時点では既に没落しており、飯米を借りかんざしを親戚に借りて嫁に行った(25頁)、というような状況だったそうです。

また、父親についても医師と言っても昭和の感覚で言う医師とは全く異なり、田舎で農業をやりながら片手間に煎じ薬などを少し飲ます程度という当時に関する証言を取り上げており(96,132頁)「父は田舎医師で、母は豪農の生まれであった」と言えば聞こえはいいのですが、山間の僻地でもありかなり貧しい生活だったと思われる事が詳細に語られています。

山下にしてみれば、妻の実家が後に経済的に破綻したとはいえ裕福な家だったので、上記のような言い方で生家の貧しさを隠そうとしていたのではなかったとも思えます。

とにかく、このあたりの生家や幼少期に関する記述は、他の顕彰的に書かれた伝記と異なり古老の証言などを元に当時の様相を詳細に描いており、とてもよくできていると思います。


その後は、妻の実家(永山元彦騎兵少将 佐賀県出身)がまさに士族の商法のような感じで商売に手を出して失敗し困窮におちいるまでの様子、その中で生じた義妹永山勝子との不倫関係についての記述など山下の家庭生活など私生活の面に紙数の多くが割かれています。

そういうわけで、軍人若しくは軍官僚としての山下の事績を追いかけたい方には勧めるのはちょっと気が引けるのですが、前述したように幼少期とその当時の出生地近辺の環境、並びに私生活という面に関しては、ともに貴重な証言を直接当事者から得る事により書かれていますので、まさに労作であり、今後ともこの点において本書を凌駕するものが現れる可能性はほぼ無いと言っていいでしょう。

ありきたりな焼き直しの評伝ではない、というところは高く評価すべきかと思います。

ちょっと勿体無いのは、著者が専門のノンフィクション作家でもなくジャーナリスト経験も無い人なので、取材をした時期、経緯、著者のした質問などをすっ飛ばしてその結果得た証言だけを書いている箇所が多く見られるので、その証言の信憑性の検証が難しいと言うところです。



軍人としての山下の事績に関する記述では、二.二六事件への関与に関する部分とシンガポール戦に関する記述が目立つ程度で、例えば山下が宇垣軍縮の際に軍制改革調査委員会の主任幹事としてその草案を作成する業務の中心的人物として携わったところの記述(207頁等)を見てもわかるように、著者は山下が仕事にどのように取り組んだかという面や周囲による山下への評価というところに焦点があてられており、具体的に何を決めたのか、どういう調整や裁定を行ったのかに関してはほとんど語られていません。


二.二六事件に関しては、山下が事件発生前に青年将校に話したと言われる軽率な言葉や、事件発生後の不作為、青年将校に同情的な外見を示したことなどを理由に、松本清張『昭和史発掘』を代表とする多くの作家から青年将校を利用した狡猾な人物として批判を浴びている点について、第4章(273頁以下)で反論を行っているのですが、この点に関しては松本清張らの主張よりは著者の主張の方が山下に関しては真実に近いのではないかという印象を受けました。

その反論のポイントは概ね次のようなもので
・ 青年将校を唆したというが、「斬る」などという発言は今日から見ると不穏当だが当時の軍人では私的な場ではよくあったことで、磯辺をはじめとし青年将校側も決起賛同とは受け取っていないし、事後に裏切られたとも言っていない。

・ そもそも陸軍省の人間なので参謀本部には容喙できない

・ 大臣告示の読み上げを行い、青年将校から出た質問に答えなかったのは任務外だったから。むしろ勝手に答えたらその方が無責任。

・ そもそも山下は面倒見が良い人間であり、特に自身も貧家の出なので青年将校に対して同情しており、また単純に軍紀違反だから討伐しろと言えるような人間ではなく、それがそのまま行動に出た

と言うもので、私が読んだ本の中では大谷敬二郎『二・二六事件の謎』(柏書房,1975)に近い立場と思われるものです。

ちなみに、著者は山下の義妹永山勝子へ直接の取材を行っており、その中で不倫関係を打ち明けてもらうまでの信頼を得ていたようですので、義父永山少将を経由しての佐賀閥の荒木、真崎らと山下の関係についてなにか貴重な証言などは出てこないかと少し期待もしたのですが(私の見落としかも知れませんが)、そういうものも特にありませんでした。



一方、本書で気に入らなかったのが、背景説明の部分において通俗的な誤った説明を書いてしまっている点がいくつか見られる事です。この点については著者が速成教育の予備士官学校出身で、戦場経験は無い、という点を考慮してもちょっといただけないかな、と思います。以下にそのいくつかを取り上げます。

86頁以下では、帝国陸軍のドイツ傾斜、三国同盟に陸軍が積極的であった、陸軍の英米軽視等、良く言われていますが概ね間違っていることが平然と書いてありますし、軍人崇拝の風潮についても江戸時代からの尚武の精神はむしろ大正デモクラシーに向けて衰退に向かい、昭和に入ってのち盛り返したというような点を全く理解していない内容を書いています。

88頁には、陸軍では全て卒業席次で決まり柔軟性が無い等とか書いていますが、自身が本書で山下より成績が劣った阿南が陸相になっている事実も記述しているのですから自己矛盾もいいところでしょう。陸軍は基本的に演習で勝てる者が残り、勝てない者は予備役行き。席次でポストが決まるのは海軍です。

214頁以下の第五十九議会における幣原首相代理の失言に関する部分は、実際には中島知久平の追及により、条約は天皇陛下により批准されたのだからそれで防備は充分だと言う事になる、という旨の事を言った為に国務大臣の輔弼責任の意味を理解していない(君主無答責にも反するので違憲)として発言の取り消しに追い込まれたものであり、本書で著者が書いている通俗的な「統帥権」とは全く関係ない議論です。
これについては議会記録などを見ればわかる事ですが、以前に本ブログで評を書いた渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997)の264及び272頁を読めば本書のこの部分の本書の記述が根本から間違っている事がわかるかと思います。

では、著者は何故こんな間違いを書いたのか、と言うのは興味深い点です。
私は、当時の正当派による法理論上の統帥権解釈からかけ離れた、鳩山一郎が私利私欲の為に行ったのとほぼ同一の統帥権の無茶苦茶な解釈―ここでは仮にこれを俗流統帥権と呼びます―を軍の教育課程で教えこまれたのではないか、と考えています。

海軍で使用されていたテキストを復元した『海軍航空教範』(光人社,2001)を読んだ際にその教範の統帥権に関する部分が俗流統帥権そのままの記述で驚いた記憶があります。
これについて、知人の研究者に聞いてみたところ教育総監を真崎がやったころから、教範類に俗流統帥権に従った記述がされるようになったらしく、これがこの時期以後に青年将校の異常な行動が頻発する一因でもあるのではないかと思われます。



最終更新日  2009.10.06 21:55:18
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2009.10.03

安岡正隆『山下奉文正伝』 その1
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その1


総合評価 ★★★☆☆


同郷の歌人によって戦後に書かれた山下奉文の評伝です。
著者は歴史家でもノンフィクション作家でもなく元高校の校長で歌人とのことで、予備士官学校出身という軍歴はあるのですが、本職の軍人と言うわけではありません。

本書は著者が死去したために未完となっており、山下奉文の祖先や出生に関する記述から始まるのは良いのですが、最後は満州での軍司令官としての勤務のところで途切れたように終わってしまい、ルソン戦や戦後の戦犯裁判が一切扱われていないのが残念なところです。

しかし、逆に言えば生い立ちから満州での軍司令官勤務までだけで文庫本約650ページという分量は類書と比べても圧倒的かと思います。

特に、著者は山下奉文の出生地の近隣に居住しているということを活かして、近隣の古老に対して山下の両親、幼少期、その当時の近辺の様子などについて丁寧な聞き取り行っており、山下の幼少期と育った環境を理解する、という点において本書は最も優れた評伝ではないかと思われ、これが本書の最大の特徴となっています。

この点に関しては、山下が自身の実家や幼少期に関して周囲の人間に多くを語らなかったという事もあるために、他の評伝では幼少期に関する記述が多くないということもあり、本書は価値があるものかと思われます。


本書においては山下の軍人としての事績よりも、私生活を記述することを通じて人物像や人となりを描き出すことに重点が置かれており、特に山下の義妹本人から著者が得た証言をもとにした山下奉文とその義妹の不倫関係に関する記述には多くの分量が割かれているのですが、この両者間で山下の海外駐在中にやり取りされた手紙、とりわけその中に書かれた短歌についての解釈や評などは著者が歌人ならではのものと思われ、この点に関しては今後本書を越える書籍が出ることはまず無いと思われます。


その結果、軍事的な事績に関する記述はやや薄く、宇垣軍縮、支那事変初期の四十旅団長時代、北支方面軍参謀長としての活動などについてはごく表面的な記述にとどまります。

例外的に紙数が割かれているのは二・二六事件とマレー作戦で、特に前者については松本清張等作家の多くが主張する山下陰謀説に対し批判的な主張を行っており、この点に関しては自身による当事者への直接取材の成果を生かして、事件への山下の関与や陰謀説を否定する説得力のある議論を展開していると私は評価しています。

なお、本書ではこの部分には限らないのですが、沢田茂や有末精三(本書ではこの2人からの聞き取りが最も出てくる頻度が高い)その他の各級軍人や親族への独自の聞き取りの結果が随所にちりばめられており、ありきたりな焼き直しや二番煎じの評伝ではないという事は高く評価されるべきかと思います。



 ◇ 著者について

大正14年4月2日、高知県香美郡香北町橋川野出身
平成12年2月13日没

自宅が山下奉文の生家と川を挟んだ反対側であった為に興味を持ち、近隣の古老などにも取材して本書を書き上げたそうですが、歴史家ではなく、また歴史小説家などでもなく歌人とのこと。予備士官学校を出ており陸軍での軍歴はあるとの事です。

聞き取りの範囲は地元の古老、山下の身内、旧軍人(有名なところでは沢田茂や有末精三等)にまで及んでいるのは著者が高校の校長だったというので地元では信頼があったからかと思われます。


 ◇ 本書について

文庫で約650ページ。平成12年に『人間将軍山下奉文―「マレーの虎」と畏怖された男の愛と孤独』と題して同じ光人社から単行本として出版されたものの改題文庫版です。

改題前のタイトルの方が内容をより正確に表しているのではないかと思います。

まえがき、あとがきなどはありませんが、本書の編集者である高城肇氏(『信濃!』の翻訳者)による付記が巻末に付されており、そこに本書の出版に至るまでの経緯の概要が説明されています。
また、文庫版のあとがきなどはなく特段の記載はありませんが、著者は既に平成12年に死去されているとの事ですので単行本から改変は行われていないものと思われます。

この巻末の付記によると、高城氏は坂井三郎氏の紹介で著者と知り合い、著者が書いた草稿を見た高城氏が雑誌『丸』エキストラ版への連載を勧め、連載時の編集作業にも高城氏自身が携わったとのことで、1981年12月号から1988年6月号まで合計38回にわたって連載され、更にそれを単行本化することとなったが完成前に著者が死去した為、最終的には残された著者による確認済の校正刷りを元に出版されたのが単行本、ということです。
(連載するための編集の際に当初原稿用紙2500枚あったものが1200枚まで削られているようです。)




最終更新日  2009.10.04 01:42:47
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2009.09.25

石井直方『究極のトレーニング―最新スポーツ生理学と効率的カラダづくり』
[ 読書記録(それ以外) ]    

石井直方『究極のトレーニング―最新スポーツ生理学と効率的カラダづくり』(講談社,2007)


総合評価 ★★★★☆


本書はトレーニングメソッドについて書かれた本ではなく、筋肉、運動、トレーニング、ダイエットなど健康と身体に関係する広い範囲を対象として、研究者の立場から最新の知見―本書執筆時点でどこまでわかっているのか、という事―を紹介する教養書、もしくは啓蒙書とでも言うべき本です。

そういう意味では、タイトルよりもサブタイトルのほうがより正確に本書の内容を表していると言うことができるでしょう。

本書では、例えば

「ダンベルの上げ下げ、どちらがトレーニング効果が高い?」
「有酸素運動とレジスタンストレーニング、どっちを先にやったほうが良い?」
「プロテインの摂取はどのタイミングで行うと効率が良い?」
「環境温度とトレーニング効果の関係は?」

というような問題に対して、解答だけを示すのではなく、誰がどのような実験を行い、どのような結果が出て、どのような知見が得られているか、という研究の現状が簡潔に平易な言葉で説明されています。

また、単に実験ではこうだ、というだけではなく、その実験が動物実験なのか人間での実験によるものなのか、という事もなるべく明示するように書かれており、自分が採用しようとしている方法論がどの程度まで検証されたものなのかを知ることができる、というのが理屈っぽい私のような人間にとっては嬉しいところです。


本書が対象としている範囲は、クレアチンの効果など所謂サプリメントに関するものから、遺伝や体質、トレーニングの効果、筋肉の仕組み、ダイエット法など多岐にわたっているのですが、そうした幅広い分野に関して海外も含めて最新の研究成果を確認し、平易に説明している、という意味でよくできた啓蒙書だと思います。

実際に自分の身体を鍛える上で直接利用できる知識ばかりではないのですが、健康管理の上で知っておいたほうが良いような知識がいろいろと書かれており、タイトルから見るとトレーニングやスポーツをする人向けのように見えますが、健康に興味がある人ならそれなりに面白いと感じるのではないかと思います。



 ◇ 著者について

『スロトレ』の著書(共著)で有名な、東大大学院教授、理学博士にしてボディビルダーという異色の研究者です。
有名な方なので細かい説明は省略します。


 ◇ 本書について

著者自身による前書きにもありますように、プロテインなどのメーカーである健康体力研究所が出している『健康体力ニュース』という冊子に1993年から隔月で掲載してきた80以上の記事から66編を選びテーマごとにまとめたもの、とのことです。

記事執筆後に修正する必要が生じた個所などには注意書き等がなされています。

なお、その一部は健康体力研究所のブログ上のカテゴリー「スポーツ生理学」に逐次掲載が進んでいるようです。

http://www.kentai.co.jp/blog/cat10/


 ◇ 内容と雑感

遺伝や体質によって太りやすい人がいる、と漠然と知ってはいても、実際に太った人の傍にいると不快感を感じるし、ちょっと軽蔑するような気持ちにもなってしまうのですが、本書の次のような記述を読んでそうした感情がかなり湧きにくくなったような気がします(280頁以下)。

・ ベータ3アドレナリン受容体とUCP-1について見ると、双方が正常型の人に比べると、日本人のうち8.2%の(両方とも異常な)人は安静時の代謝が少なくとも300Kcal/日低い

・ 体重60キロの人で1日5キロのジョギング相当

・ 1年で見ると体脂肪換算で14キログラム相当

このハンデは洒落にならないでしょう…

普通の人と同じ物を食べて、同じように生活しても、1年で脂肪14キロ分のカロリーのビハインドがある人が8.2%もいるそうです。

食べる量を減らそうとすると脂肪1キロが約7000Kcalですから、基礎代謝2200Kcalとしても1年に40日くらいは断食しないといけないわけですか…

しかもこれが毎年累積するわけですから、そりゃ太りますよね。
これで普通の体型を維持できてるとしたら本当に凄いと思います。

こういうのが知識によって他人に寛容になる、というものの典型でしょう。
直接役には立ちませんが、いい勉強をしたと思います。

しかし、この遺伝により基礎代謝が低いと言うのは、飢餓に晒されるような状況下では圧倒的に生存に有利な特質ですよね。
たまたま、ここ200年位の一部の経済的に恵まれた国においては肥満になりやすくて色々と不利なのですが、それ以外の人類の歴史上のほとんどの期間と場所においては有利な遺伝的特質だったはずです。
それがこの因子の保有者が他の異常に比べて比較的多く存在する理由なのではないかと思います。


また、コラーゲンの摂取って、肌にいいとか関節障害に有効とか言われていますが、あくまで経験則であってその効力発生のメカニズムも今のところ推測するしかなく、動物実験でも統計的に十分ものが言えるデータは無いとのこと。

だからと言って無意味だとか、インチキだという事が証明されているわけでも無く、効果や効果発現のメカニズムが確認されていないだけなのですが…

ドラッグストアならどこでも置いているくらいサプリメントとして有名だからと言っても、その効果が科学的に証明されているものばかりではない、ということです。


ちなみに、どういうわけか本書には加圧式トレーニングに関する記述はあるのですが、所謂スロートレーニングに関する記述がほとんどありません。
他の著作で扱っているので重複を避けたのかも知れませんが、ちょっと残念です。



最終更新日  2009.09.26 12:43:36
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2009.09.24

佐々木春隆『B29基地を占領せよ』 その3
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その3


第五章 桂林攻略戦(その2)

・ 大森茂著『鯨波』《著者は宣伝班に勤務していた作家。四十師団戦記》
・ 《同書による渡河命令発信に至る経緯》
・ 《著者による同書の記述に関する不自然な部分の指摘》p.251

・ 《公刊史による渡河命令までの経緯の概要》p.254

・ 《著者は渡河に関して予令を受けた記憶は無いとしているが、それを佐方師団参謀長に戦後確認したら早くから予令していたと思うと回答されたとのこと》p.257

・ 渡河支援火力の概算は、75ミリ山砲26門、70ミリ大隊砲6門、37ミリ速射砲3門、重機36挺、擲弾筒72筒。対する河面の銃眼は25余りで数は不足していないと思われたp.261
《火力の中心が山砲である事、並びに山砲が集中運用された事がわかります。確かにこれだけ火力があれば、対銃眼だけを考えるなら著者の言うように夜間の奇襲渡河より払暁・薄暮の強襲渡河の方がよいと思います。問題は敵の重砲かと思いますが…》


・ 公刊史477頁下段には、七星巌攻撃の間に師団は歩兵二百三十六聯隊に渡河準備を指導し、着々と準備が進められた旨の記述があるが、著者の記憶ではそのような事実は無いp.263

・ 実は衡陽戦のとき、全滅に瀕した戸田連隊は軍旗を後退させて最寄りの第百十六師団司令部に安全を托したことがあり、これが災いして感状の選に漏れたという噂が立ったことがある。p.277
《軍旗を失ったら責任問題、かといって他部隊に預けるとこういう面でペナルティがあるので簡単には下げれない。実際にこうしたペナルティがあったのかどうかは不明ですが、そうだと思われていた、というのは事実のようですね》


・ 《桂江対岸(西岸)の水際障害物の状況に関する記述。著者の記憶と中国側の記録では増水により無力化されていたとのことだが、部隊下士官の回想では山砲で砲撃して破壊したとのことで食い違う》p.290

・ 《公刊史480頁下段の宮川師団長による野戦重砲の砲撃に関する回想と、それに対する著者の批判的な意見―敵の砲撃に対してまったく言及がないことの指摘。著者は在支6年間で受けたもっとも激しい砲撃だったと言います》p.311

・ 落下する柄付き手榴弾は下方にむかって45度の角度で破裂する《下士官の回想。本当でしょうか?》p.337

・ 《占領後に見た河岸の掩蓋の様子》撃ち殼薬莢の中に二人の中国兵がぶら下がった格好で死んでおり、手は鎖で水冷式重機の脚に、両脚は針金で杭に縛り付けてある。横には水筒と細長い干し飯袋…(略)…銃眼は縦10センチ、横20センチと小さく乗船点の船着場しか撃てないようになっており、《壁の》厚さは二メートルほどもあった。これでは山砲をいくら撃っても制圧できなかったはずであるp.350
《逆に言えば、弾が飛んできているところに行きさえしなければこちらも当たらないわけですが…。この特定の角度でしか撃てないようにしてあるのが、夜間の渡河攻撃を想定して標定しているのか、兵士を信頼していないからなのかは不明。先述の中正橋爆破など一部の中国兵には勇敢な行為も見られますので…》


・ 夜間に街路の両側に小隊を並列して攻撃前進させた某中隊で、互いを敵と誤認して撃ち合いになり多大の損害を出したという話を聞いた。異常な損害と腑に落ちぬ報告、戦場心理を考え合わせれば噂は本当かもしれない
《こういう事故については同じ連隊内の人間に対しても隠蔽されるようですね。そうなると知っている人は本当に限られるのでしょう。ましてや郷土連隊で近所や顔見知りもいるわけですから、戦後になってもそう簡単に真相が語られるとは思えません》p.359




最終更新日  2009.09.24 23:39:52
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2009.09.23

スーツを注文してきました
[ 日記など(要するにボヤキ) ]    

今日は連休最終日と言うこともあるし、10月にはいると混みそうなので冬物のスーツを買いに出かけました。

たまに安い既製のスーツも(汚れたりしそうなときに着るために)買うのですが、基本的には昔からちょっと細かめに指定ができるパターンオーダーで作っています。

社会人になってしばらくしてから2着ほど百貨店でイージーオーダーで作ったのですが、生地や縫製の割に高く感じたので、以後はそのときに探して見つけた専門店でお願いしており、今回は5着目をお願いしてきました。

ちなみに、必ずズボンは2本作ってもらい、夏冬各3着を持つようにしていますのでズボンは6本あり、週に1回以下しか使わずに済みます。
こうする事で同じスーツを5年以上、生地が丈夫なものなら10年近くも使うことができていますので、仕立てるときには一時的にお金がかかりますがトータルコストはそんなに高くないと考えています。

デザイン、生地、裏地、ボタンを色々店員さんと話しながら選べるのも良いところなのですが、替えズボン付、襟のあるベスト付、ベルト通しなし、ブレイシーズ(サスペンダー)用ボタン付、なんて言う(私がいつもお願いする)付帯条件をつけると紳士服量販店のパターンオーダーでも実は結構な値段になるようなので、どうせならいい生地で好き勝手に、と言うのが私の考えだったりします。


さて、前回は2006年秋頃に冬物をロロ・ピアーナのZELANDER PRESTIGEという生地を使って襟のあるベスト付きで作ってもらいましたので、これを着て行ってサイズの変化を見てもらおうかと思ったのですが、結構暑かったので2006年の春にロロ・ピアーナのSuper120で作ってもらった夏用のスーツ(これも襟のあるベストつき…)を着て行く事にしました。

で、今回もまた生地はロロ・ピアーナにしようとは思っていたのですが、店員さんのお勧めで安くしてもいただけると言うことなので今まで使ったことの無いシルク20%混のELEGANZAと言う生地でお願いしました。

手触りはZELANDER PRESTIGEやWINTER TASMANIANなどの以前に使ったことのあるものと同等かそれ以上に滑らかなのですが、シルクが入っているのですごく光沢があり、自分に着こなせるかどうかがちょっと心配だったりします。

ちなみに、このメーカーの生地はとても肌触りが良く柔らかいので着心地が良い一方、ズボンにすぐに穿き皺が―しかも結構深めに―付くという印象があるので気になったので聞いてみたのですが、確かにZELANDER PRESTIGEやWINTER TASMANIANに比べると素材として弱いけど、着用は週に1回以下という私のような穿き方なら問題ないだろう、とのことです。

出来上がりは未定ですが10月中旬以降と言うことで愉しみです。



余談ですが、連休最終日と言うことでお店も空いていましたので、じっくり30分以上かけて採寸しなおしてもらえたのですが、また胸囲が4センチも増えてついに100センチを超えていました。

最近2006年に作ったスーツのベストの胸がちょっときついかな、とは思っていたのですが…

おととしあたりから、ダンベルを買って自宅でノンロックスロー法によるトレーニングをしてきたのですが、腕・脚・腹筋・背筋と違って大胸筋は見てくれだけであまり役に立たないのでトレーニングも少な目にしていたのですけれども、それでもかなり大きくなってしまっていたようです。

2006年頃から体重はほぼ変化していないんですがね…

しかし、2年前どころか10年近く前に作ったスーツのサイズを記録したシートが残っていて、それを見ることができる、と言うのも同じお店にお願いしているからこそできること。

こうなってしまうと、もう少し良さそうな店があってもなかなか乗り換える気にはなれませんね。




最終更新日  2009.09.24 01:02:46
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2009.09.22

佐々木春隆『B29基地を占領せよ』 その2
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その2


 ◇ メ モ(摘 録)

 ・ 《 》 の内側は私見や所感です
 ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです
   内容の要約やあらすじにはなっていません


第一章 衡陽西郊の決戦
昭和19年7月中旬~ 衡陽西方での敵解囲部隊との戦闘

・ “今次作戦の敵は、二次にわたった長沙作戦当時の敵に比べて戦力、戦意とも格段に劣る。敵も弱ったもんだ”と感じていたから、敵の真っ只中に突っ込んでいると知りながら別に危険を覚えなかった…p.19
《このあたりの感覚は実際に作戦に従事した人にしかわからないのですが、長沙作戦以降の後退の途上で国民党軍もかなり人的な損害を受けていたのではないかと思われます》

・ 《ここから別段の記述があるまで「公刊史」として頁数の指定があれば戦史叢書『一号作戦(2) 湖南の会戦』を指すと思われます》p.20

・ このころ、インパール作戦の失敗やマリアナの失陥が口コミで伝わる…p.42

・ 同じ目的のために二組の斥候を派遣するのは当時の常識でもあった
・ 実戦で斥候を派遣する決心は、決して容易ではない。…一年有余にわたったこの作戦で斥候を派遣したのはこれが初めてで最後であったp.43
《 意外な感があります。聯隊としての斥候派遣はそうなのかもしれませんが、大隊以下でも出していないのでしょうか…》

・ 《公刊史446頁の師団が軍に報告した衡陽攻略作戦発起以来の損耗について》p.67-
・ この記録は腑に落ちない。…我が連隊については計算が合わないし、間違っている。第一、第三大隊の損耗が一五%と五%であるのに、連隊が二〇~二五%(七二〇~九〇〇名)であるということは、第二大隊や直轄隊の損耗が高率であった事になるが、その事実は無い。将校の損害は二〇%(二五~二六名)とあるが戦死五名だけ。大、中隊長三名戦死とあるのは大きな誤りで、後送されたのは第三中隊長のみ。

・ 戦闘損耗は少なかったが、炎天下の機動作戦が続いたために意外に戦病患者が多い。でも損耗合計は一〇%未満、幹部の損害は少なかった、と言うのが当時の筆者の認識


第二章 洪橋会戦

・ 公刊史501頁に連隊の洪橋進出が9月3日とあるが間違い《2日夜》p.109


第三章 大追撃戦

・ 公刊史520頁に9月7日の第四十師団の東安東北方の戦闘の戦果として遺棄死体600以上、迫撃砲1門鹵獲とあるが、遺体600は多すぎ、逆に鹵獲兵器数は過少(実際には中迫6門、重機6、他)p.126

・ 山砲の側方よりの支援砲撃は当たらない。見る方向が違うので目標の授受が大変だし取り違えが多いp.142

・ 衡陽以降15日間の追撃戦において戦闘消耗は少なかったが、険峻な山岳地帯で道も悪く、且つ昼夜ぶっ通しの強行軍だったので、衡陽付近で内地から到着した補充兵《35歳前後と比較的高齢》の損害が酷かったp.146

・ 《連隊副官の久米滋三大尉(当時)が書いた『南国土佐を後にして―鯨第六八八四部隊の記録』(昭和35年刊)と言う本があるとのこと》p.146

・ 《聯隊レベルから見た洪橋会戦の統帥に関する問題点の指摘。戦略的な最終到達目標地点を示さず、小刻みに次の目標を示す所謂統制前進により結果的に強行軍が続き損耗が増加。このような小刻みな目標指示になったのは総軍が兵站準備不充分であるのを懸念して軍の突進を掣肘した為というのが著者の見解。確かに著者の指摘するとおりかと思われる。長距離の突進になるとわかっていればそもそも損耗の集中した補充兵はまとめて後方警備等に残した可能性もあるわけで、この点機密保持と作戦上の便宜を勘案してどこまで下級部隊に企図を示すのか、などという点も作戦計画そのものと同じくらい重要という事か。》p.148

・ 《ここから公刊史といえば特記の無い限り戦史叢書『一号作戦(3) 広西の会戦』になると思われます》p.149


第四章 桂林攻略戦(その1)

・ 各隊は捕虜などを荷物や病弱者の装具運搬、食料探しや炊事などの雑役夫に転用して重宝がっており、彼らも懐いて不眠不休の追撃や湘西山地越えの苦労を共にして来たのだが、ほとんどが省境を越える前後に無断で、一部が広西に入った日に断って、別れを惜しみながら湖南に帰ったそうである。理由を尋ねると、広西省人は排他心が強く、他省人は皆殺しにされる、と言ったという。p.151
《 日本軍よりも隣省人のほうが恐ろしいと言うのは現代の中国にも通じるものがあると思うのですが、流石に殺されると言うのは極端のように思えます。ただ広西省というのは国民党との間で争っていましたのでありえないとも限りません。》

・ 《公刊史の記述、桂林作戦における四十師団への任務明示による士気向上、に対する事実との相違の指摘》p.170

・ 《著者が記憶している桂林北門への突入命令と、公刊史の記述の相違の指摘―四十師団司令部より北門攻略の命令を受けたが、これは功を焦った宮川師団長の独断によるもので、公刊史作成の際に受けたインタビューに対しては虚偽の回答をしているものと思われる―》p.193-

・ 《四十師団が市内に突入したと言う誤報が流れ、三十日と一日の午前1時の2度ほど別の部隊が北門から入城しようとして猛烈な銃砲撃を受け撃退されたが、公刊史はこの件に触れていない》p.201

・ 公刊史460頁に引用されている中国政府史政処編『抗戦簡史』の日本軍が数度にわたり桂林北側を猛攻したが、莫大な損害を受け陣地占領できなかった旨の記述はこの2回の誤報による突入を指すものと思われるp.208

・ 《聯隊の桂江西岸から東岸への再渡河に関する公刊史の説明、並びにその不自然な部分に関する著者の見解》p.210

・ 《桂江東岸の》七星巌は1930年に蒋介石が広西軍を討伐したとき、ついに奪取できずに和を講じた要害として知られていたp.212

・ 公刊史399頁から400頁に堀内大佐の回想として載っている七星巌攻撃計画は、二百三十六連隊福井大隊が攻撃したC岩を右大隊が攻撃した事になっていたり、蔵重大隊が担当した月牙山の攻撃に触れていないなどおかしな点が多いp.215

・ 駿河久雄・真鍋茂共著『桂林攻略戦』(昭和48年、土佐鯨会刊)《当時軍曹、第十一中隊、第十二中隊の指揮班員―渡河を行った大隊の指揮班の下士官なので桂林攻略戦の渡河部隊に関しては最も詳細な様相を伝えているのではないかと思われます。以後、本書の中でも引用多し》p.226

・ 当時は桂林でも日本時間を使っていたp.233

・ 第十中隊戦誌『追憶…征旅・幾千里』(昭和62年6月刊行)
・ 《同書における中正橋東側への進出と、中国軍による同橋爆破の経緯。どうやら爆薬をあらかじめ仕掛けてはいなかった模様で、爆薬を背負った兵によって爆破を試みており、銃撃を受けない夜になってからやっと爆破に成功しています。七星巌の防御を過信していたので手配していなかったのでしょうか。》p.243


最終更新日  2009.09.23 01:07:39
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2009.09.21

佐々木春隆『B29基地を占領せよ』 その1
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その1


総合評価 ★★★★★

前著『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』(光人社NF文庫,2007)と時間的に連続しており、その続編にあたる作品です。

『華中作戦』が衡陽攻略作戦の途中までで終わっているのに対し、本書は衡陽攻略作戦終期(昭和19年7月頃)から桂林攻略(同年11月)までを、当時第四十師団歩兵二百三十六聯隊作戦主任であった自身の立場からの回顧録として描いています。

対象としている期間が前著に比べかなり短いのですが、その理由は、著者の所属した歩兵二百三十六聯隊が、衡陽攻略作戦では側面援護が任務であったのに対し、桂林攻略作戦においては桂江の敵前渡河による城内突入を実施した所謂一番乗りの部隊であり、その準備や軍司令部との桂林城突入に関する経緯が詳述されている事によります。

その結果、本書においては全363頁中200頁以上が桂林攻略作戦に関する記述に充てられており、中でも100頁ほどが桂江を敵前渡河しての桂林城内への突入に関する記述となっています。
特にこの部分においては、実施部隊側で渡河攻撃の計画を立案したという著者の立場からする公刊戦史の記述の誤りの指摘が多くなされており価値があるものではないかと思われます。

一方、本書はあくまで歩兵二百三十六聯隊作戦主任の視点から描かれており、桂林作戦や桂林城攻防戦に関しての全般的な記述や解説と言う点には力点は置かれていません。
基本的には個人、若しくは実施部隊の視点からの戦記ということができるかと思います。


 ◇ 著者について

熊本県出身、陸軍士官学校卒業(54期)後、第四十師団歩兵二百三十六聯隊に配属。そのまま第四十師団に属し支那で終戦まで転戦していたようです。
旧軍での最終階級は大尉で、戦後は自衛隊に入り陸将補まで昇進、防衛大学教授にもなったとのこと。
図書出版社から『華中作戦』などの著者自身の従軍経験に基づくと思われる一連の戦記を出している他、朝鮮戦争に関する大部の著作もあるようです。


 ◇ 本書について

文庫で363頁。平成元年に図書出版社から単行本として刊行されたものの文庫版とのことです。
はしがき、あとがきともに著者自身による単行本刊行時のものとなっておりますので、単行本と同一のものと思われます。

著者はしがきによると、衡陽攻略作戦終期(昭和19年7月)から桂林攻略(同年11月)迄を、当時第四十師団歩兵二百三十六聯隊作戦主任であった自身の立場からの回顧録として『軍事研究』という雑誌に連載したものをまとめ補筆訂正を加えたものである、とのことです。

前著である『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』(光人社NF文庫,2007)と時間的に継続しており、実際のところ続編と言っていいものではないかと思われます。


 ◇ 内容と雑感


戦史叢書と言うのもかなりいい加減なものなのだなぁ、と言うのが本書を読んで一番強く感じたことです。

著者が別の本で、戦史叢書の自分が参加した作戦に関する記述を読むほど腹立たしいことは無いと言われている、というようなことを書いていたという記憶があるのですが、本書を読んでみてその理由が理解できたような気がします。

それくらい、本書においては著者の一連の戦記の中でも戦史叢書における記述の誤りの指摘が最も多く記されているのではないかと思います。

その理由は単純で、著者が作戦主任を務めていた歩兵二百三十六聯隊が桂林攻略作戦において桂江を東側から渡河して城内に突入するという作戦の一番スポットライトが当たる部分を担当したので、それだけ戦史叢書で取り上げられることが多かった、と言うものに過ぎません。

これだけ公刊史と部隊側の記録や著者の記憶との食い違いを示されると、単純に戦史叢書を信じられなくなりそうです。
やはり、個々の作戦について調べる際には部隊記録や戦記などもきちんと調べる必要があるという事でしょう。特に戦史叢書の高級将校の証言の部分には信頼できないところが多々あるようです。

しかしながら、戦史叢書と戦記や自身の記憶の差を細かく指摘した著作と言うのは実際には多くないので、そういう意味では、戦史叢書がどういうバイアスを持ち、どの程度誤っている可能性があるのか、と言うのを知ることができる一例として本書は有意義なのではないかと思います。


・ 桂江渡河による城内突入に関して聯隊作戦主任であった著者は予令を受けた覚えが無いと主張しているが、戦後に著者が確認したところ佐方師団参謀長は予令したはずだと主張、戦史叢書の記述もそれに沿っている

・ 著者は桂林北門攻撃命令を受けたと主張しているが、公刊史ではその記述が無い(どうやら師団長が功を焦って、北門は他師団の割り当てなのに命令したのではないか、と著者は疑念を抱いている模様)

・ 砲兵の渡河支援砲撃とそれに対する敵の砲撃に関する師団長の回想と実施部隊側の回想の大きな食い違い

など、主観的な砲撃の激しさなどという点だけではなく、どのような命令が下されたのか、という点についてすら記述が食い違っているのですから驚きます。


次に考えさせられたのが、衡陽攻略作戦終了後、洪橋会戦に始まる一連の作戦で、兵站(補給)能力を心配した総軍が軍に干渉した事により、最終的な目標が桂林である事を部隊に示さず、逐次次の作戦目標を示す形をとった事で逆に実施部隊に強行軍を強いてしまう結果となり、運悪くその直前に部隊に到着した(比較的)高齢の補充兵が大量に落伍し損耗した、という著者(並びに他の士官)の指摘です。

確かに、長距離の行軍だとあらかじめわかっているなら補充兵をまとめて警備に残しておくとか、別の集団にしてゆっくり輜重の警備も兼ねて追及させるなど方策はあったでしょうから、無駄な犠牲を生んだと言う事で総軍は批判されるべきでしょう。

帝国陸軍については、独断専行による歩兵の突進に対して批判がなされる事が多いのですが、このような逐次の前進は敵に打撃を与える機会を逃しやすく、また足で行軍する部隊側としても大きな目標地点だけを示される場合に比べ計画が立てにくいという問題がある、と言うのを、私としてははじめて意識させられたように思います。




最終更新日  2009.09.22 00:02:54
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