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安岡正隆『山下奉文正伝』 その3… (読書・コミック)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
帝国陸軍好きの読書ノート
五年現役兵の読書ノートと日記

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2009.10.09 楽天プロフィール Add to Google XML

安岡正隆『山下奉文正伝』 その3 今日どんな本をよみましたか?(201496)」
[ 読書記録(戦史・戦記) ]    

安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その3


 ◇ メ モ(摘 録)

 ・ 《 》 の内側は私見や所感です
 ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです
   内容の要約やあらすじにはなっていません


・ 現在までに出版された「山下奉文」に関する伝記の中で、もっとも信頼性ありとされている沖修二著『至誠通天 山下奉文』… p.13

・ 生前の山下は、きわめて身近な人々にさえ母方の実家森田家や生まれ故郷の事を口を緘して語っていない。義妹の永山勝子もそれを山下自身から聞いた記憶が全くないというp.14

・ 母方の実家森田家(高知県香北市白川)の由来p.14-

・ 《海南学校およびその校長吉田数馬に関する記述》p.60-67

・ 《明治33年9月1日 広島陸軍幼年学校に入校した4期生》50名のうち土佐出身者が17名、2年生では50名中10名、3年生が50名中15名。一方で長州出身者は全校で4名のみp.77
《確かに、著者の言うとおり土佐における軍人熱の高さがよくわかります。ただ、その原因についてまでは言及されていません。その一つは海南学校の存在もあるとは思われますが…。もしかすると長州は中央勤務の親が多い可能性がありますので広島ではなく中央幼年学校の方に多いのかもしれません》

・ 沢田茂(参謀次長)によると山下の幼年学校での成績はいつも10番以内。阿南惟幾は90番くらいだったp.81

・ 幼年学校での山下の同期、甘粕重太郎は甘粕正彦の親戚。大杉栄惨殺事件の際、甘粕重太郎は陸軍省軍事課にいた山下のもとへ度々相談に訪れ、山下は親身になって善後策を考えてやったp.99

・ 《永山元彦騎兵少将(山下の義父)の経歴やエピソード―主に永山勝子の証言による》p.111-116

・ 《山下奉文の兄の奉表に関する記述―16歳で医師試験に合格したが若すぎて医師免状がもらえず18歳になって免状が下付された。軍医として旅順港閉塞戦に参加し軍医としては初と思われる功五級金鵄勲章を下賜された、など》p.137-

・ 《津野田知重少佐(東條暗殺未遂事件の首謀者の一人)の親、津野田是重とその夫人に関する記述。津野田是重夫人は信州財閥小坂善太郎一門の出身で、山下の義妹永山峯子と児島高信の仲人。》p.159

・ 山下は《ウィーン駐在で》渡欧する前は痩せていたが、戻ってきたときには太っていたp.195

・ 《荒木陸相の秘書官だった有末精三から著者が直接聞いた、荒木陸相下での軍事課長への山下選任の理由とその評価》p.231,233

・ 《著者が沢田茂(参謀次長)から直接聞いた真崎の評価》p.234

・ 軍事課長時代の山下のあだ名は「散水車」。大量の汗をかくためp.235

・ 当時《時期の詳細な指定なし、戦前、位の意味か?》山内家では陸士在学中の土佐出身者の中で、特に卒業間近となった者を集めて激励する会が、毎年一回もよおされていた。主賓格はその年の卒業予定者で、招待されるのは陸士在学者と陸士卒業の在京土佐出身者。山下も在京中であれば出席していたp.240

・ 昭和9年8月、山下は少将に進級。同時に陸軍省軍事課長から陸軍兵器本廠付となる。同期では9番目p.259

・ 《相沢事件について山下が永山勝子らに当日語った内容、並びに山下の永田軍務局長への評価》p.266


第4章 山下擁護論

・ 《沢田茂の所謂「山下狡猾論」に対する評価(否定的)。著者が直接聞き取ったもの》p.278

・ 《皇道派と山下の関係に関する有末精三の証言》p.279

・ 《清原康平元陸軍少尉から著者が得た証言―山下の「岡田を斬る」と言う発言に対する当時の青年将校側の実感》p.284

・ 《永山勝子の著者への証言―山下はとにかく財閥が嫌いで、三越では物を買うなと言っていた。財閥はつぶさねばならぬと考えていたようで、贈物なども金持ちの家には持っていかない反面、出入りの大工や職人は大切にした》p.285

・ 《二.二六事件当日朝の山下に関する永山勝子の証言》p.287,291

・ 事件の朝、山下の自宅に第一報を電話で知らせてきたのは陸相秘書官小松光彦少佐。少佐の養家は山下家に近かった関係で、かなり緊密に連絡を取りやすかったと推定され、川島陸相の意図を小松秘書官を通じて熟知することができたと思われるp.288

・ 《著者が直接、山下が青年将校に阿っていたと思うかと聞いた事に対する沢田茂の回答》p.295

・ 有末精三は山下が陸軍大臣告知の作成に関与していなかったと著者に語っている《山下の評伝を書いているから、山下を美化しようとしたのでしょうか?この点に関しては著者も疑義を抱いているようで、有末の証言はこういう点からも鵜呑みにはできないのではないかと思われます》p.303

・ 昭和63年5月23日、著者が池田俊彦元少尉に山下を狡猾な人物だと思うか尋ねた際の池田元少尉の回答
「あの二・二六事件は、私たち青年将校が憂国の気持ちから起したもので、山下さんがそそのかしたとか、そそのかされたとは全く考えていません。私は山下さんをずるい人間だとは思っておりません。そんな方ではないと思います。
《中略》当時は陸軍の首脳部の方々が、天皇陛下のご意志を明示することは、責任を天皇陛下に転嫁することになり、『禁句』であったのです。だから言いたくても言えないわけです。《中略》…『雪は汚れていた』の著作や、NHKの特集などで、実情を知らずに、「闇」という言葉を使ったりして、あたかも、陸軍上層部の将軍の陰謀などと推理を飛躍させ、三段論法的に書いておられますが、蹶起の事実を全く知らない、実にけしからぬことです。私の仲間の一人などは、これらの事件の取り扱いを、『羊頭を掲げて狗肉を売っている』といって、大変憤激していますよ」p.308

《松本清張に代表される作家たちやNHK特集の採る陸軍上層部陰謀説は、青年将校の側から見る限りでは事実に反しており同意できるものではない、と言う事はほぼ間違いないのではないかと思います。
これは発生後に事件を利用しようとした陸軍の将官が存在しなかった事の証明とはなりませんが…》


第5章 揺れる山下

・ 《二・二六事件後山下はクビになる覚悟をしていたという永山勝子の証言》p.354

・ 山下の妻の妹春子は朝日放送重役になった森本重武の妻p.362

・ 《有末精三の証言。何かのついでに龍山の山下(四十旅団長)へ立ち寄ったところ、陸軍省に帰ったら武藤章に『貴様まで疑われるぞ』と小言を言われた》p.375

・ 山下は歩兵第三聯隊長の頃から書の依頼が多くなったので書道をはじめ、雅号は最初は紫山、後に巨杉に変更。永山勝子によると雅号の変更は龍山以後。巨杉は高知県長岡郡大杉村大杉にある樹齢三千年の杉にちなんだものp.378

・ 山下の初陣は北京郊外南苑近くの黄村における戦闘《同戦闘に関する簡単な記述あるも典拠は不明》p.387

・ 《安藤正(陸士47期)『非凡なる戦術家、山下大将独創的な南苑攻略』(一方会会誌第十五号)に基づく南苑の戦闘における四十旅団に関する記述》p.388-

・ 《沢田茂の回想。旅団長時代の山下の言動から、第一線で死に場所を求めているとの印象を受けた、というもの》p.391

・ 《永山元彦元陸軍少将(山下の義父)が鎌倉の稲村ヶ崎に恩給を担保にして家を購入したが》その恩給の担保を山下は支那事変で得た功三級金鵄勲章の恩賜金で抜く代わりに家と敷地の名義を山下久子にした。これが後に問題を惹起するp.402

・ 昭和14年、板垣陸相が山下を駐蒙軍司令官に据えようとしたが昭和天皇が躊躇。理由は二・二六事件と天津租界封鎖。閑院宮が考課表をもとに説明したところ二・二六事件については納得されたが天津租界では疑念をもたれ奏上を取り下げp.404
《東條の山下嫌いについて明確な原因は定かでは無いようなのですが、狭量とか言う問題より、天皇に対する忠誠心から不興を買っている山下を中央から遠ざけただけのような気がしないでもありません。実際には予備役に入れようともしていませんし、重要な作戦には起用しています。戦場に出るのを貧乏籤と考える風潮は当時(少なくとも高級将校には)ほとんど無かったことは考慮すべきでしょう。戦後に作家の書いたものには戦場に出る=左遷という下士官兵や戦後の価値観で高級将校を論じているものが少なくありません。》

・ 《山下の航空総監就任人事に関する沢田茂の談話。東條が陸相になりそうになったので沢田が阿南と話し畑陸相の在任中に山下を中央に引っ張り出す工作をした。山下が東條の後任の航空総監となる事を阿南が東條に報告したところ怒鳴られた》p.414-

・ 山下が航空総監時代に住んでいた家は三番町にあった鈴木「味の素」社長宅の敷地内、入り口近くにあった鈴木社長の次男の家p.419

・ 山下は妻の妹永山哲子と兄奉表の長男真一とを結婚させてゆくゆくは山下家を継がせたいと考えていたようだが、真一がノモンハンで戦死したので実現せずp.424

・ 《沢田茂の直話―近衛内閣総辞職のとき、後任の陸相に山下がなることを東條は心配したらしい。参謀本部に直接連絡してきて満州防衛司令官の編制を急げと催促してきた。当時山下は青年将校に人気があった。東條は山下を生理的に嫌っていたとしか思えない(何か個別・具体的な理由や因縁があったというわけではないようだ、ということでしょうか)》p.436

・ 《有末精三の談話。参謀本部第二部長時代、近江の柳川平助に何かのことで電話したところ盗聴されていた》p.438

・ 《山下の日誌における辛らつな辻正信評》「この男矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上、注意すべき男なり。小才物多く、がっちりしたる人物に乏しきに至りたるは、また教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面的端正なる者を用いて小才を愛す故に、年と共にこの種の男、増加するは困りものなり―」p.513

・ 《杉田一次二十五軍参謀の証言。英軍が簡単に降伏するとは考えていなかったので降伏条件を書いた文書は慎重に書いたものではない。当時無条件降伏ということは考えていなかった。誰かが大本営に「無条件降伏」という電報を打ったのだが、事後に調査したが誰がやったのかは判明しなかった》P.575-

・ 昭和53年7月8日付高知新聞に、山本春一陸軍少佐が書いた記事が掲載されている。山下の「イエスかノーか」は通訳の菱刈氏《菱刈隆文大将の子息》に言ったものである旨のものp.579

・ 著者による山下の短歌への評価。「…やや古臭い感じがする。いわば古今集的ともいえる。言葉も生硬であり、おせじにも洗練された秀作とはいえない。」p.630-





最終更新日  2009.10.09 23:30:41
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