主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるためである。(ルカ4:18,19)(イザヤ61:1)
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本でも映画でもダヴィンチ・コードが、話題に上っています。
キリスト教の知識がなくとも、楽しめる映画かどうかは私は、見ていないので、よく知りませんが、人から聞いた話しでは、イエスとマグダラのマリアとの間に子供がいたと言うことをカトリック教会が隠していた、そんなことが出てくるらしいですね。
レオナルド・ダヴィンチがそのメッセージを絵画の中に隠して描画しているらしい。
最近発見された「ユダの福音書」といいイエス・キリストが話題になっていますが、どちらも、紀元後1世紀以降に出てきたグノーシス主義というグループで、宗教公会議で異端として排斥された教理です。
イエスとは、どんな人物なのか、ということを知識で把握しようとするあまり、イエスの神として姿を重視しすぎたり、またイエスの人として姿を重視しすぎたりします。
人は物事を頭で考え理解しようとする、自分の力にのみ頼ろうとすると、どちらも誤った考え方に陥ってしまうのです。
頭のすぐれた人やお金の裕福な人や健康な人には、神の国に入ることが難しいのは、素直に単純に信じることができない。だからそれから起こる奇跡も経験できないのです。
今日の箇所は、イエスが、生まれ故郷ナザレの集会所でイザヤ書を読んだ部分です。
イザヤ書は、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれる三つの区分に分ける考えかたがありますが、その第三番目に来るところ、ここは、私たちのことを預言しているところですので、ぜひイザヤ書56章~66章を読んでみてください。
イエスは、今日の箇所を読んで「この言葉がきょう実現しました。」と言われたのです。
もう少し言えば、この主の恵の年が、今も続いていると言うことです。
この神の恵の年は、捕らわれている奴隷とされているひと、そこには、身分的なことばかりではなく、病人も、心の病や、考え方に囚われている人もはいります。
その人々を自由にすることができるときです。
目の見えない人が見えるようになるとは、心の目が見えるようになり、自分自身がわかるようになるときです。
この福音が、なぜ貧しい人たちに最初に伝えられるのでしょうか。
それは、もし救いがそこにあるのなら、救いを得たいという激しい熱意があるからです。
イエスの行われた奇跡は、失うものなどない、どうしても救ってほしいと願う切迫したものがなければ、得られないものなのです。
あなたが、もし本当に救いを願うなら、このことばのようにあなたの上にあなたを解放する奇跡が必ず起こります。
天の父なる神様。あなたの約束のとおり、わたしを自由にしてください。アーメン。
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