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Last Update : 2012/2/10
serch: Chaosparadise | Wondering Network +恋愛小説 ブラック・オベリスク+ [全983件]
王侯貴族が、自らの文書に真正の証として押す印章・・・ この国で最上の重みをもつ女王の印章が、ユベールの手中でほのかな輝きを放っている。 (レティシア様・・・なぜ、私にこれを・・・・!) 女王はティアナに命じて、剣に指輪を仕込ませたのだろう。 しかし自ら印章指輪を手放すとは、政治的決定権を放棄するようなものではないか。 ユベールが逡巡するうちに早くも宿場町に差し掛かり、馬替えのために停車する。 彼は咄嗟に剣の柄を元に戻し、指輪はロケットの内に隠した。 「手配の間、こちらでお待ちいただきましょう。」 監視役の教会兵が、ユベールを粗末な待合所に押し込める。 やはりマインツから派遣されたもう一名が、ユベールと騎兵隊員との間を遮断するように入り口に立ちはだかった。 本能的に異常を察し、ユベールは剣に手をかける。 「・・・お待ちを、ローレンツ大尉。」 教会兵は、片手でユベールの動きを制した。 「裏口に馬を用意してあります。貴公一人をご案内するのが、我らの役目。」 王都から西15マイル(約24km)ほどの場所に、周囲を原生するブナ林に覆われた岩地がある。 むき出しの山肌は白く、その険しさと裾野に広がる森の暗さに、地元の猟師以外は立ち入らない場所である。 しかし今日は、軍服に身を包んだ男たちや人足が下草を踏み分けて行きかい、開けた台地に天蓋を張っている。 せわしく動き回る人々の間を、不似合いな陽気さで歩く人物がいた。 イギリス公使、カムデンである。 「さぁ、ありたけの在庫を持参しましたよ。弾薬の置き場は慎重に・・・湿り気にやられては、台無しですからな。」 手にしたステッキで手早く指示を出しながら、嬉々としている。 そこへマスケット銃を手に走ってきた歩哨が、指令所であろう、中央の大天幕の前で声を張り上げる。 「・・・お戻りになりました!」 中から姿を現したのは、国政を預かるクロイツァー家の兄弟、ノルベルトとリヒャルト。 彼らの視界に、馬を駆る灰色のマント姿の男が映る。 帽子を取って出迎える両名の前で下馬した男に、後から到着したもう一騎が声をかける。 「マスターが馬に乗れたなんて、知りませんでしたよ。」 「・・・この地形では、ほかに手段もあるまい。」 マントを解いて歩き出すグストーに遅れまいと、レオンハルトは大股で続く。 「奴は、どうした。」 グストーの問いかけに、ノルベルト長官が答える。 「既に、到着されています。」 天幕の中へ踏み入ると、一人の青年将校が着席していた。 木綿の厚布を透過した淡い橙色の光に照らされ、炯々と鋭いまなざし。 青年は、ゆっくりと噛みしめるように彼の名を呼ぶ。 「グストー・イグレシアス・・・これは、何の真似です。」 「ローレンツ大尉。無事で何よりだ。」 「私はマインツへ向かう、そのはずだった。」 「その件なら、気にする必要はない。」 グストーは自分も軍用の簡易椅子に腰かけ、ユベールに向き合った。 「初めから、大司教の召喚状など存在しない。貴殿を城から出すための方便だ。」 「・・・な・・・っ!」 では、アルブレヒトの元に届けられたという召喚状は、まったくの偽物だったのか。 ユベールは深く吐息をついた。 考えてみれば、長く聖職界に身を置いたグストーにとって、大司教の文書を偽造することはそう難しくないのかも知れない。 だがアルブレヒトが大司教の召喚を受け入れることも、自分がレティシアの反対を押し切ってマインツ行きを志願することも、グストーの計算通りだったのだと思うと薄ら寒い。 「どうした。レティシアと涙の別れでも交わしてきたか。」 「そのような、ことは・・・」 思わず顔をそむけたユベールは、膝の上でこぶしを握った。 「しかし、グストー殿。そうまでして、なぜ私を解放したのです。私の失態がなければ・・・陛下をすぐに王宮へお連れしていれば、こうも事態は悪化しなかったはず。」 「・・・まぁ、問題はその事だ。連中が女王を手中に収め発令している以上、女王派の諸侯の多くは黒獅子の騎士のもとに参じるだろう。」 グストーは走り書きされた紙片を卓上に置き、ユベールの前へ押しやった。 「現時点で協力を得た人間と兵数だ。このまま黒獅子と衝突すれば、到底勝ちは見込めん。だが敗北すれば、フライハルトはこの数年に成し遂げたことを手放し、再びまどろみの中で消失の時を待つのみ。」 「・・・私に、何をせよと。」 グストーの双眸に鋭い光が宿り、口角にじわりと笑みが浮かぶ。 「城を一つ、手に入れてもらいたい。」 「城を・・・」 グストーの物言うまなざしが、ユベールを見据える。 「そう・・・貴殿の故郷、ザンクトブルクの城だ。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▽ポチッと応援ありがとうございます★ ![]() にほんブログ村
1797年4月28日 午前9時―― フォルクマールほか数名の騎士たちの率いる一軍が、王都の街並みを目視できるほどまでに差し掛かった時、まさに都の城門から斥候兵が早馬を駆って飛び出してきた。 ぬかるんだ悪路に泥の飛沫をあげ、部隊の目前で斥候は馬を止める。 「フォルクマール様・・・!」 「何事か。」 「宰相が・・・王宮から姿を消しました・・・!」 守備隊の大半を失った都を防衛するため、いや、正確にはアルブレヒトに対抗するため、グストーやクロイツァー家が私兵を召集し始めたという情報はあった。 ところがグストーは都の守備を固めるどころか、昨夜のうちに姿を消したというのである。 「・・・クロイツァー家のノルベルトやリヒャルトは、どうした!」 「それが、ずっと見張りはついていたのですが・・・っ」 騎士たちは王宮に――グストーと、彼と気脈を通じ要職に就く者たちが忽然と消え、既に政治的空白地となった王宮に駆け込むと、宰相の執務室を目指した。 打ち破るまでもなく、施錠すらされないままの扉。 奥に続くグストーの私室も人気はない。 「しまった・・・王宮の出入りには、常に監視を付けたはずが。」 グストーの書き物机を拳で叩いたフォルクマールの足もとに、硝子のペーパーウェイトが落ちて転げた。 「・・・まさか。」 フォルクマールは今や無人の女王の寝所へ向かい、内扉に手をかけた。 黒獅子の騎士の居室と通じる、狭い回廊。 その中ほどの壁に彼は手を這わせた。 探し当てた小さな金具は、ごく最近使われたように埃が拭き取られている。 「ここから逃げたか・・・我々の動きを察して。」 フォルクマールは端正な口元を歪めて歯噛みした。 古びた壁の向こうには、王と騎士のみが存在を知る地下通路がある。 恐らくグストーたちは、既に王都から遠く離れた場所まで移動しているだろう。 だが、一体どこへ? 時を同じくして―― ユベールを乗せマインツへ向けて出立した馬車は、マイン川に沿って走り続けていた。 護送するのは大司教から遣わされた3名の伝令兵と、アルブレヒト配下の騎兵小隊である。 ここ数日の雨を受けて水量を増した川面が、陽を反射しながらしぶきをあげている。 ユベールは窓の外の景色から、膝に置いた剣へと視線を落とした。 かつて、シャルロットから託されたカイムの剣――捕えられた折に取り上げられたが、出立間際になって道中の守りにと彼の手元へ戻された。 恐らくレティシアの配慮であろう。 柄と鞘に施された象嵌を手でなぞると、意識が澄んでいくのが分かる・・・ 「ローレンツ大尉・・・ローレンツ様っ!」 聴き慣れた呼び声の後に、馬車が速度をゆるめて停止した。 「・・・ティアナ?」 扉を開けると、うっすらと額に汗したティアナが下馬して控えている。 「女王陛下からの・・・お言伝(ことづて)を預かって参りました。」 窓辺に飾られた花の合図に、ティアナは再び女王のもとを訪なった。 「ティアナ。あなたに頼みがあります。」 女王は小さな絹の包みをティアナに握らせ、その上に自らの手を添えた。 レティシアの、白金色をした睫がかすかに震える。 「この城でユベールの味方になれるのは、あなただけ・・・ どうか、これを彼のもとへ。」 ティアナは深く息を吸って、呼吸を整える。 女王の言う通り、アルブレヒトに仕えるティアナは詮索なしに城を出ることができた。 彼女は懐から淡い蒼色の布包みを取り出し、それを兵士達の前で解いた。 中から現れたのは、純金製のロケット・ペンダントである。 蓋には聖マリア像が意匠されたそれは、レティシアが大聖堂で身に着けていたものに違いない。 ティアナが差し出したロケットを恭しく騎兵隊長が受け取り、ユベールに手渡す。 その短い間に、ロケットが空洞であることを隊長は確認していた。 この場で何か見つかれば、すぐさまアルブレヒトに伝令が行っただろう。 ティアナは心の中で幾度も復唱した文言を、忠実に再現する。 「エクレシアの葡萄樹に宿る真心の証は、災いからの護り。陛下の御心を託す、と。」 それが何を意味するのか、ティアナ自身も知りはしなかった。 エクレシアとは、教会の語源となった古代ギリシャ語である。 ユベールを護送する騎兵たちは、聖像を施したペンダントに、ユベールの無事を祈る女王の願いが込められていると・・・そう理解しただろう。 「では、私は城へ戻ります。ローレンツ様・・・どうぞ、ご無事で。」 「ティアナ・・・ありがとう。」 ティアナは長い敬礼の後に、深々と一礼して馬上の人となった。 出立の号令がかかり、ユベールも再び馬車に乗り込む。 ゆっくりと流れ始めた車窓の景観に視線をやりながら、ユベールは思いをはせる。 (エクレシアの葡萄樹・・・) レティシアが送って寄こした奇妙で婉曲的な文言は、およそ彼女らしくなかった。 (葡萄樹に宿る・・・真心の証・・・・) ふと視界に入った車内に、置かれていたのはカイムの剣。 (エクレシアの・・・葡萄樹・・・真心の・・・・まさか!) ユベールは剣を急ぎ手に取ると、手で触れて隅々まで確かめる。 かつてシャルロットが教会の葡萄樹の根元に埋め、ユベールの元へ渡るようレティシアに委ねたのだと聞いた。 柄を握ると、かすかな違和感が腕を伝う。 抜き身にして数度手首を返し、ユベールは柄の先端を解体する。 柄と刀身の間にできる空間から、絹で巻かれた小さな物体が転がり出た。 親指の先ほどの、小さく硬質な・・・ 布をほどいたユベールは、己の心臓が早鐘のように打つのが聴こえた。 陛下の、御心を託す――― ユベールの手の内に収まった、それは・・・黄金色のシグネット。 国主としての権能の証。 フライハルト王家の紋章が彫り込まれた、印章指輪であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▽ポチッと応援お願いいたします★ ![]() にほんブログ村
鞍を整えた馬たちが、従者に引かれて闊歩する音が続く。 ユベールの件が横やりに入ったものの、騎士たちは宰相追放のための一手を遅らせるつもりはなかった。 「フォルクマール。」 女王の侍女、イルゼは夫の出立準備を手伝いながら、思わず呟いた。 「本当に、これで良かったのでしょうか・・・貴方のおっしゃる通り、陛下のためとはいえ宰相の罪を偽証したりして。陛下は私を、疎(うと)み始めていらっしゃるようだわ。」 「君は十分よくやってくれたよ。おかげでグストーを追求する理由が増えた。ジークムントの謀叛を招いたことと合わせて、今度こそ追い込んでみせる。」 その事を考えるならユベールの召喚も、大司教の前でグストーの罪過を示し、排斥の承認を得る好機かも知れないと、彼の怜悧な思考は計算していた。 ユベールが女王の部屋に通されたとき、レティシアはソファに腰かけ、そのすぐ斜め背後にはアルブレヒトがいつもの直立の姿勢で控えていた。 「ユベール、側へ・・・。」 女王の招きに応じて、数歩の距離で跪く。 「もう知らせは聞いたかしら。マインツの大司教が、あなたに召喚状を送って寄こした。」 「・・・はい。先ほど、テオドール殿から。」 「ユベール、私はあなたを・・・・」 「陛下、」 ユベールはレティシアの言葉を遮り、彼女の顔を見上げた。 抑えてはいるが、苦しげな呼吸はこの短い会話でも彼女の体力を奪っているように見える。 「私は、マインツに参りたいと思います。行って、己の行動の真意を大司教様に訴えてまいります。」 「ユベール・・・!」 レティシアの声に動揺が混ざる一方、この展開を予想していたのか黒獅子の騎士は微動だにしない。 「確かに私は教会で発砲しましたが、それは実際に血が流されることを阻止し、聖堂が陛下への陰謀の場所になることを防ぐため・・・言葉を尽くして申し述べれば、大司教様とて耳を傾けて下さるでしょう。」 「今度の召喚は、ゲイラー司教の訴え。あの者は私や貴方に恨みを持っているのですよ。司教は、あの裁判の真似事の席にも同席して・・・」 ユベールはゆっくりと首を振った。 「司教殿の訴えなら、なおのこと。陛下に火の粉が及ばぬよう誰かが行って止めなければ。」 それまで黙していたアルブレヒトが、レティシアの肩に視線をやって口を開く。 「マインツ駐在の折、副官の一人であった者を同行させます。大司教様にもお目通りしているゆえ、話は通しやすいでしょう。」 「でも・・・ユベールの身は。」 「私なら、大丈夫。イタリアの戦場も生き抜いたのですよ。多少の拷問にかけられたって、簡単に音を上げたりしやしません。」 「・・・そのような、馬鹿なことを。」 その時、窓から差し込む屈折した陽光がユベールの頬に差し込んだ。 うっすらと、その端正な口元に笑みが浮かんでいる。 「陛下・・・人の性根というのは、変えられないものですね。」 無為に城に留まるよりマインツへ行く方が、己の意志で動ける機会が巡ってくると思った。 だが、そう望む理由は、それだけではないらしい。 「初めてお会いした時、陛下は深い悲嘆の中におられた・・・私は貴女を救いたいと、願ったのです。それが分不相応な望みであっても、せめて私なりの忠義を貫かせていただけませんか。」 そう言って主君の言葉を待つユベールの頬を、レティシアの手が撫でた。 彼の元へ歩み寄ったレティシアが、ユベールの体を抱きしめていた。 互いの額を合わせると、かつて慣れ親しんだ仕草で唇を重ねる。 「・・・レティ・・・・」 再び交わした深い口づけに、刹那ユベールは陶然としていたが、やがてレティシアの耳元に唇を寄せて、囁いた。 「グストーが、危ない。アルブレヒト殿を止めねば・・・」 彼にはレティシアの表情は見えないが、彼女の背に緊張が走るのが伝わった。 返答はなかったが、無言のままユベールを抱擁するその指先に、万感の想いが込められているように感じられた。 やがてレティシアはユベールから体を離し、黒獅子の騎士へと向き直る。 「ユベールをマインツへ護送するよう、手配して頂戴。腕の立つ弁護人を同行させて。」 「御意・・・。」 アルブレヒトに促され退出するユベールと、再び視線を交わす。 頷くユベールに、微笑を返す。 これが長い別れにならぬよう祈りながら、彼女は部屋に飾られたアイリスの花を一輪とって窓辺に置き、カーテンを閉めた。 それは、とある人物への合図であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *作者のつぶやき* 今年度の仕事のヤマを越えましたー! ということで、久々の更新です。 次の更新も日を置かずできると・・・自分に期待。 書き溜めて定期的にアップというのが出来ない性分なので、常に不定期ですが、どうぞよろしくお願いいたします。^-^;
「引き渡し要請だと・・・大司教様から?!」 二階の小ホールを会議所にして集う騎士たちから、戸惑いの声が漏れる。 マインツ大司教といえば、ドイツ地方を治める三人の大司教の首座、つまりドイツ・カトリック界の頂点に位置する人物である。 「ゲイラー司教は、ジークムント公爵と共に拘束したはずでは。」 そう言って副官の顔を仰ぐのは、赤毛のテオドール。 「拘束直前に、隙を見て大司教に連絡をやったのでしょうか。」 フォルクマールは手にした召喚状を黒獅子の騎士に手渡す。 豪奢な独特の筆致も、そこに押された印章も、マインツに長く滞在して防衛にあたったアルブレヒトにとっては見覚えのあるものであった。 「ローレンツ大尉は聖堂内で発砲したとか。背教的行為に問われれば、罪は重い・・・どうします、アルブレヒト。引き渡しますか。」 フォルクマールのさりげない問いかけに、テオドールはぞくりと体が震えた。 フォルクマールはユベールの身を案じているのではない。 そもそも引き渡しを拒否すれば、レティシアが教会との摩擦のツケを負うことになる。 彼が意図しているのは、ユベールが大司教の前で余計なこと――この一件への女王の関与を口走ってしまわぬよう、引き渡し前に処断してしまおうという事なのだ。 小ホールから退出してきた一団に、軍装のティアナが駆け寄る。 「テオドール様、ローレンツ大尉の処遇は・・・」 「マインツへ護送する。大丈夫、素直に罪を認めれば、死をたまわる程の刑罰にはならないさ。」 「そんな・・・!」 死を免れるとしても、教会への冒涜、特に聖堂を穢すことは重罪である。 発砲という戦闘に準じる行為を司教から訴えられれば、ユベールは侯爵位の相続権を剥奪され、国外追放の憂き目に合うかもしれない。 フライハルトのため命を賭して戦ってきた彼を、皆は見捨てようというのか? 「ローレンツ様・・・っ」 やはり自分の責任なのだと、ティアナは思った。 ユベールとの間に信頼があれば、アルブレヒトは彼のために助力を惜しまなかっただろう。 しかし引き渡しを受諾するというのは、彼の処遇を教会に委ねるということだ。 (・・・どうすればいい?) このような時に限って、アドルフはいない。 ロイも、竜騎兵隊の仲間たちも・・・エルヴィンも。 そこまで考えた時、はたと彼女は思い当った。 いつの間にか、彼女が頼みに思う相手は戦場を共にした者たちになっていた。 フライハルトの騎士たちではなく・・・ そして、その中心で彼女の居場所を与えてくれたのは、ユベールだったのだ。 「・・・よし!」 にじんだ涙を手でぬぐい、ティアナは持ち前の大胆さで自分を奮い立たせた。 「陛下、お薬の時間ですよ。」 女主人の半身を起してやりながら、イルゼが言う。 女王の状態は幾分安定してきたものの、いまだ僅かな動作も苦痛であった。 「・・・飲みたくない。」 「陛下。」 聞き分けのない子をたしなめるような口調のイルゼから、レティシアは視線をそらした。 自分のためを思ってとはいえ、あの弾劾裁判でグストーに罪を着せる偽証をしたことに、しこりを感じていたのだ。 それに、薬を飲むと全身が重くなり思考が鈍ってしまう。 「・・・いやよ。こんな所で何日も寝ていられない。私は・・・」 思わず声を荒げたレティシアに、もう一人の侍女が歩み寄る。 「陛下、表にアルブレヒト様の従者という者が。至急の用件だと申しておりますが・・・」 女王が頷くと、間もなくして部屋に通されてきたのはティアナだった。 しばらくして、招聘に応じたアルブレヒトが女王の居室に足を運ぶと、彼女は寝着から着替えて髪を結い、窓辺に立っていた。 片手を窓枠に添えているものの、自ら一人で体を支え、いつもの凛とした佇(たたず)まいを取り戻したようにも見える。 部屋には二人のほか、誰もいない。 「陛下・・・ご無理をなさっては」 「なぜなの、アルブレヒト。」 その声に怒りと拒絶を感じ取って、アルブレヒトの唇が引き結ばれる。 「私は、ユベールがこの城にいることすら知らなかった。なのに私の裁定を仰がず、彼を大司教に差し出そうなど・・・!」 「陛下・・・」 呼吸が苦しいのか、浅い息で喘ぐレティシアを気づかうアルブレヒトを、彼女は制する。 「私はあなたに、そこまでの権限など与えていない。」 「・・・・」 自分のもとへ飛び込んできた、一人の騎士見習い―― ティアナは人払いをさせ、ユベールを救ってほしいと訴え出たのだ。 長年、無上の信頼と忠誠を寄せてきた黒獅子の騎士への裏切りとなることを承知の上で。 「・・・陛下のお心を、これ以上痛めたくなかったのです。大司教の出方を見て、陛下にお知らせしようと」 「弁明はいい。ユベールを、ここへ連れてきなさい。今すぐに。」 レティシアの内面は、この混乱した状況に適応しようと必死に試みていた。 彼の拘束は知らされていたが、それを今問い詰めるのは恐らく得策ではない。 常と変らず、感情の起伏に乏しいアルブレヒトの灰色の瞳からは、いかなる決意が宿っているかは読み取れなかった。 これまでにも彼が女王の決定を非難し、拒んだことはあった。 だが彼女の手を離れて、己の判断で周囲を動かそうということは一度もなかったのだ。 「・・・分かりました。ただし、お体に障(さわ)る。長くはなりません。」 アルブレヒトが手を差し伸べ、レティシアをソファへと導く。 彼女はその手を取らず助けを拒んだが、数歩進んで足もとが崩れ、アルブレヒトに救い上げられなければ倒れ込んでしまうところであった。 彼は女王を腰かけさせ、乱れた髪を整えてやる。 触れた肌から伝わるアルブレヒトの抑制された力に、思わず背がこわばる。 額に落とされた口づけを、レティシアは無言のまま受けた。
(俺としたことが見誤ったか。あの男に、女王に背くだけの度胸があったとはな。) グストーは窓ガラスに当たってしたたり落ちる雨の水滴を凝視している。 既に王都を守る正規兵はわずかとなり、非軍属のクロイツァー家などが招集した私兵が残るのみである。 皮肉なことに、グストーが進めてきた軍政改革――軍の中枢を貴族たちの私兵と傭兵から、徴兵による王家直属の部隊へ移行させること――によって、アルブレヒトはグストーに対抗する強大な統帥権を手中に収めたのだった。 「ご指示通り、可動式砲門は残させました。連中、やけにすんなりと受け入れましたが。」 上着に付いた雫を手袋で払いながら入室したのは、財務を預かるノルベルト・クロイツァー長官である。 「この大雨が幸いしたな。」 いまだ未整備な箇所の多いフライハルトの街道、しかも雨にぬかるんだ道で、砲門を移動させるのは大変骨の折れる仕事だ。 「ところで宰相閣下、例の客人が外でお待ちのようですが。」 グストーは興の乗らない視線を廊下に投げかけると、下男に客を通すよう合図した。 やがて、最近入り用になったステッキで右足をかばいながら現れた紳士・・・そのぎこちない歩き方さえ愛嬌に見せてしまう男は、英国公使カムデンである。 「ようやっとお目通り叶いましたな、宰相殿。この度の一件、私どもでお役に立てることもあろうかと存じまして。」 相変わらず鷹揚で優美な笑みをたたえながら、彼は好機に聡(さと)い。 「ご用命があれば、お望みの部隊を用立ていたしましょう。むろん有能な指揮官付きで。」 「カムデン殿。」 グストーは公使を制する。 「貴公のお手を煩わせるほどもない。英国兵が海峡を渡るより早く、事態は収まります。既にジークムント公も、加担した主だった諸侯も捕えた。」 「はぐらかされます、か。真の敵は公爵ではないでしょうに。」 カムデンはグストーに身を寄せ、ノルベルトに背を向けた格好で声をひそめて言う。 「宰相殿・・・アルブレヒト殿は、ただの貴族ではない。黒獅子の騎士はフライハルト建国以前より、神聖なる権威の象徴そのものです。女王陛下に忠誠を誓う者は貴族であれ市民であれ、同時にアルブレヒト殿の超越性をも認めている。それは、貴殿を取り巻くお歴々も同じことですよ。」 それから半刻ほど後、グストーは明かりを落とした薄暗い私室で、上下に開くガラス窓を押し上げた。 風音と共に雨が吹き込むのも気にせず、使い慣れた呼子を唇に当てる。 間もなくマントをぐっしょりと濡らしてやってきたのは、ゴーチェであった。 「至急、北へ向かってほしい。人目につかぬよう、移送したい人間がいる。」 グストーがその人物の名を告げると、男はいぶかしげに眉をひそめた。 「そいつだけですか?公爵は放っといていいんですかい。」 「奴には今、さしたる使い道はない。俺の言うとおり動けばいい。急げ。」 ゴーチェは顎に散った無精ひげをゴシゴシと撫でると、大きく頷いて再び雨中に消えた。 その数日後――女王を擁するアルブレヒトの城は、外周は王都から参集した兵で賑わい、武器や糧秣がひっきりなしに運び込まれている。 一方、内では騎士たちが議場に集い、宰相に退任を迫る手はずを粛々と進めていた。 そのような中、ティアナは石造りの床をひとり、落ち着かぬ様子で歩き回っている。 見上げた階段の先には、レティシアの居室がある。 この城に入ったばかりの頃は侍女が居なかったため、彼女が女王の身の回りを世話した。 その後お役御免となったティアナは、レティシアの姿を見る機会もない。 いや、アルブレヒト以外、この城のほとんどの者たちが女王を目にしていない。 にも係らず、この城は女王命令で臨時の座所としての機能を着々と整え、軍備を固め、ユベールの軟禁は続いていた。 女王は、ユベールの拘束を知らないはずだ。 (やっぱり・・・私が不用意な事を言ったばかりに、ローレンツ様は・・・) あれはもう数週間前。 私に聞かせてほしい。彼の思考、感情、望みについて、知りえたことを。忠実に―― アルブレヒトと再会を果たしたティアナは、ユベールがイタリアでグストーに救われたことを報告してしまった。 ユベールがグストーに与(くみ)したわけではない。 だが盲目の指導者マンツォーニ神父や、かつての逃亡奴隷ガナール達との邂逅を伝える中で、以前とは違うユベールとグストーの近さ――異質でありながら、互いの間に生じる共鳴に似たもの――を、アルブレヒトは正確に嗅ぎ取ってしまった。 ユベールへの警戒と対立を生むと分かっていたからこそ、ティアナはありのままの事実を報告することに躊躇していた・・・そのはずが、自分は洗いざらい話してしまったのだ。 直前までの葛藤など、どこかに置き忘れたように易々と・・・まるで魔法でもかけられたかのように。 (魔法・・・そう、私は・・・) ティアナ、取引をしてもいい―― マインツへ向かう途中、足止めされた塔から自分を逃がした少年がいた。 あの時のことを思い返そうとすると、いつも脳裏に青い火花が散って、それ以上考えられなくなる・・・だが、この中世風の城に来てから少年の声がくっきりと聞こえる気がするのは、あの時の塔に少し似通っているからだろうか? ティアナは、ざらついた石壁に両手と額を押し当てて目を閉じる。 この塔から、君を出してあげる。その代わり―― その代わり その代わり その代わり―― 「・・・っ!」 ティアナは壁から身を離し、乱れた呼吸を整えようと空を仰いだ。 やはり明確なことは思い出せそうにない。 だが少年との取引が、一種の暗示のように働いた気がするのは単なる思い過ごしだろうか。 目的は分からない・・・しかし、アルブレヒトとユベールの衝突を望んだ者が・・・今のこの状況を望んだ者が、どこかにいるのではないか・・・・。 「伝令!伝令――っ!」 ティアナの思考は、突然の呼び声と喇叭の音に遮られた。 「神聖なるローマ・カトリック教会とマインツ大司教フリードリッヒ・カール・ヨーゼフフォン・エルタールの名のもと、フライハルトの女王に告ぐ!」 声は城壁の外から聞こえる・・・ティアナが外郭から身を乗り出して見下ろすと、二重の堀にかかる跳ね橋の手前で、胸に十字の縫い取りをした三騎の兵士が喇叭を手にしている。 「即刻、フーベルト・ローレンツ大尉の引き渡しに応じられよ!大尉は教会への冒涜の罪にて召喚を受けた。これはゲイラー司教による、正式な申し立てである!」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *作者のつぶやき* 作者も忘れそうなくらい、古い話が出てまいりました。<ティアナの件 次回は近日中にアップの予定です。 |一覧| |