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8章.動き始める世界 後編

  天空の黒 大地の白
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1793年 秋

夢見が悪かった。
時計を見ると、朝の5時。イルゼ達が起こしに来るまで、あと1時間はある。
隣でユベールが、安らかな寝息をたてていた。
鼻先をつついても反応がない。
上掛けの中に手を差し入れて、そっと彼の肌に触れてみる。
男性とは思えない、なめらかな肌。
まだ若い。
19の誕生日を祝ったのは、つい二週間前だったか。
首筋から胸へ、背中へと手を滑らせると、もぞもぞ体を動かして小さく鳴いたので、つい笑ってしまった。
・・・・・
夢見が悪かったのは、きっとクロイツァー宰相のせいだろう。
いつも温和な人なのに、昨日はただ一言「お世継ぎを」と言われた。
クロイツァーの要求は当然だ。
むしろ、よく今まで待ってくれた。
エグモントは子をくれなかったのだから・・・。
もちろん、王位継承者の父親にふさわしい人物との結婚が先になる。
できれば大国の諸侯、オーストリアかプロイセン・・・スペインもいい。
・ ・・・・
・ ・・・・・・
ユベールは、だめだ。
ユベールでは、だめだ。
どんなに愛していても。


目が覚めると、隣でレティシアが背中を向けていた。
後ろから抱きしめて、やわらかい頬にキスしようとすると、彼女の涙がひやりと触れた。
こんな朝から、一体何が悲しいのだろう。
気持ちが落ち着くようにと背中や顔をなでてあげたら、余計に泣かれて困ってしまった。
こんな時、アルブレヒトなら上手に慰められるのだろうか。
レティシアの感情、孤独、苦悩・・・・
「理解したい」欲求と「理解していない」現実の深い溝を少しでも埋めて、彼女の力になりたい。
なのに彼女は、自分に優しくするなと言う。
もう、よいのだと。



「レティシア様・・・・」
ユベールが抱き寄せようとするのを、レティシアは拒絶した。
「そうやって、ご自分から壁を作って・・・っ」
力ずくでレティシアの顔を正面に向かせ、ユベールは強引に唇を奪う。
彼女の抵抗が、ユベールの加える愛撫に緩んでいく。
「ユベール・・・っ」
レティシアの声が、細くかすれた。
吸い寄せられように彼の首筋に口づけすると、わずかに汗の味がした。
昨夜の余韻が残る体は、何もかも忘れてこの陶酔に身を任せたがっている。
もし、この篤実な人に生涯日陰の身に甘んじてくれと頼むなら、きっと頷いてくれるだろう。
だが、これほど純粋に慕ってくれる相手に、自分はそれを望むのか・・・?

ノックの音が、きっかり5回、廊下側でなく、内通路の扉から響いた。
黒獅子の部屋と通じる、緊急用の扉。
許可を待たず、アルブレヒトが足早に入り、ベッドから離れた位置でレティシアに目くばせする。
名残惜しそうにユベールから体を引き離した彼女が、ガウンを羽織って移動すると、アルブレヒトの口が彼女の耳元に限りなく近寄り、何かを囁いた。
レティシアの表情が一変し、顔色を失ったので、ユベールは彼女が倒れるのではないかと思った。
彼女は、本当に?と幾度も聞き返し、なぜ今になって、と吐き捨てた。
何かに駆り立てられたように落ちつきをなくしたレティシアは、アルブレヒトと小声で言葉を交わしている。
珍しく二人は言い争っているようだった。
所在なく、ユベールがシャツのボタンをはめていた時、彼の手は止まった。
「会ってはならない!!」
吼えるような男の怒声が部屋に鳴り響いた。
叫んだのは、アルブレヒトだ。
黒獅子の騎士は、仕えるべき女王の両腕を血が通わなくなるほど強く掴み、怒りに見開かれた眼で「会うな」と叫んだのだ。
一瞬、レティシアはたじろいで、17年自分を支えてきた男の顔を打たれたように見つめた。
だが彼女はその手を振りほどき、侍女達を呼んで入浴と着替えを手伝わせる。
アルブレヒトは、その間もまだレティシアに言葉をかけたが、彼女が耳を貸す様子はない。
しばらく女主人を遠目から見つめた後、アルブレヒトはユベールを一瞥し、廊下へ通じる扉に消えた。

アルブレヒトの引きとめる手を、レティシアは振り払った。

その時、すべてが決していたのだと、
ユベールが思い知るのに、そう時間は必要なかった。


予想通り、女王はあの礼拝所を密会の場所に指定してきた。
すべてが動き始めた場所、そして、時間が止まった場所。
今度の身分は、オーストリア大使の随行員。
どのみち女王は、対面を避けられはしない。
あの小賢しい番犬がどれだけ吠えようと、無駄なことだ。


男は、薄汚れ、すその破れた灰色の長衣の上にマントをはおり、手に持った錫杖で、礼拝所へ続く小道に繁茂した緑をうち払った。



              第一部 了


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