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文化的ルンペン、それは二重の意味を持つ。一つは文化的であるようなルンペンであり、片方は文化的にもルンペン(貧困)である。救いはないようだ。しかし文化的ルンペンは自由業だ。自由な思想に自由な行動。権威も権力もない代価に、文化的ルンペンは自由を手に入れる・・・はずである。そんな時代は来るのだろうか?
このHPは文化的ルンペンの一人である筆者の雑感や、少し「カジッタ」文章等を掲載したものです。ジャンルは統一されていません。政治・文化・思想・経済・福祉・環境問題等についての所感や、スポーツ・音楽・PC・喫茶等、趣味についての感想を思いついたまま掲載しています。当HPが訪問者の興に入れば幸いです。 当HPに関するご意見・ご質問はこちらまで blauzimmeres@yahoo.co.jp blauzimmer (C) 2004 |
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blauzimmerの日記 [全144件] この日記は何年かぶりの更新になるのでしょう。この2、3年の変化は自分史的には劇的でした。 気の病を得たり、新しいジャンルの活動に興奮したり、本当に文化的ルンペン・プロジェクトが発動され始めたり、なぜか社長と呼ばれ始めたり、学問的進路に対する姿勢が180度近く変わったり、まったく縁がないと思っていた会計のシゴトに関わって、むしろそっちの現実味がわいてきたり。ともかく、何かがある程度吹っ切れ、変わり始めたたことは確かです。 それは社会起業やソーシャルデザインなど、学術と一般的職業人の間をやれるような分野の台頭も関係しています。大学か、さもなくば市井の職業かではない、第三の道。それを共にやっていけそうな人々とのつながり。 ネット上の表現手段も、これを始めた頃と変わり、ツイッターやFacebook、ミクシィ、グーグル+など選ぶのに困るくらいになりました。匿名で書き綴ってきたブログとは違う表現や関係性の構築のあり方。だから、一度ここでこのブログの日記は一区切りつけたいと思います。また何か書くかもしれませんが、ひとまずしばしのお暇を。 新年を迎えようとする三三の冬に。
ご無沙汰しております。 最近はツィッターやらミクシィやら、ドネルモのサイトやら、書き込む場所がいっぱいで難儀しております。その中で、いかに表現をし、広められるかについて、色々と考えさせられました。 先ほどもきちんと社会的な活動をされている方から、僕のアプローチ・アピールの仕方について、懇々とご指導いただきました。それを聞いて「ああ、やっぱり自分には、実際の様々な人々との関係の中で、回路を作っていく視点も気概もないんだなあ」と痛感させられました。 人を自分の言説に振り向かせるためには、言葉だけではない色々な仕掛けや告知の仕方があるはずなのですが、そこを頑張ってやっている皆さんを近くで見る機会が増えるにつれ、それがどれだけ大変だったか少し分かったような気がします。なんか簡単に「分かった」と言っても怒られそうですが…。 そういう自分と人の間にある媒体(メディア)をどう構築すればいいのか、まだまだ考えないといけないなあ。でも大変だなあ。皆すごいなあ。…などとグルグルグルグル考えている今日この頃です。 では、またいずれ。
関連リンク先などを書いています。http://twitter.com/schuldigsein それにしても楽天ブログはひどい。18歳以下禁止を略すと、自動検閲にかかりました。こんなところにも規制が・・・。 先日から東京都議会で提出されている「青少年健全育成条例」の 改正案について、「反対」します。 この改正案がかなり広範な分野に影響する表現規制になりそうなの です。にももかかわらず、まだ一般メディアにほとんど取り上 げられておらず、反対の声も大きくなっていません。 一番問題になりそうなのが、「非実在青少年」という概念で 、マンガやアニメ・ゲームで設定上18歳以上でも、18歳未満と 判断された描写は規制の対象となります。さらに明瞭な行為 でなくても、曖昧に規定することで、青少年にとって「不健全」 と当局に判断されれば、規制の対象になります。 これは単に成年向け作品だけでなく、少年・少女誌や一般アニメ にも適用され、同人誌に対しても適用されるそうです。さらに 、条例案を審議した組織では、BL・やおい系も、不健全なもの とみなされ、批判されているそうです(条例案を審議した東京 都青少年問題協議会の議事録:http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/09_28ki_menu.html )。 これは東京だけの問題ではありません。東京には多くの出版 ・流通・放送会社が集まっているため、この条例が成立すれば 、国家レベルの法律と同様の規制になりかねません。また同人 誌市場にも何らかの規制がかかると言われています。 現在、マンガ家や雑誌・出版協会や大学のマンガ学部などが 反対声明を出しています。しかし議会では条例案を出した自 民・公明派に押され、このままでは可決しかねないそうです。 今、弁護士や表現文化に詳しい専門家が有志で反対活動をし ています。当面のヤマは、18日に開かれる議案審査で、それま でにできるだけカギとなる民主党議員を動かす必要があるそう です。ドネルモの皆様にも現在の状況をご理解いただき、関心 をもたれた方には、ぜひこの問題を各方面にお知らせいただけ れば、と思います。 さらに、詳しい情報や反対活動の方法などお知りになりたい 方は、こちらをご覧ください。直接的には態度を留保している 民主党の主に年長の議員への葉書やメールでの陳情、間接的に は新聞・テレビメディアへの要請、あるいはブログやツイッタ ーで取り上げていただけるだけでもありがたいです。 編集家・竹熊健太郎さんのブログ http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-847d.html 青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト http://mitb.bufsiz.jp/#opposition 全国同人誌即売会連絡会 http://sokubaikairenrakukai.com/news1003.html
皆さん、こんにちは。僕は今、福岡市の某ホテルにいます。え、なぜ、福岡市に住んでるのに、福岡市のホテルにいるのかって?伊達や酔狂じゃありません。やむにやまれぬ事情があるのです。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、ホテルに住んでいるのです。まあ、簡単にいえば追い出されたわけですが。そこで、なんだかイタリア語で「喜び」とかいう意味の名前がついた当ホテルに仮寓しておるわけです。 しかし、この追い出された理由というのが、なかなか深刻でして、それはこれまでの人生で僕が全力でうやむやにしてきた様々な問題に直面させるものなのです。そこで翻って思えば僕は20代に何もなしてこなかった、ということが啓示のように明らかになります。まさしく「失われた20年代」なのです。30も過ぎて、もう一回20代的なことをやりなおすというのは、なかなか辛くむなしいものです。しかし人は一挙に成長できるわけではないので、やはりひとつづつこなしていかねばなりません。ただの動物ではなく、社会的動物になるために。 世はまさにコミュニケーション時代全盛で、コミュニケーションできなければ人にあらずという風潮がはびこっています。せんだっても、僕はコミュニケーション能力の決定的な欠如のゆえに、甚だしく組織のメンバーの利害を損なってしまい、それがゆえに厳しく指弾されたのでした。それは確かに場をわきまえず、相手の立場も考えず、自分の言いたいことだけを延々と言い続けた僕が悪い。しかし、わかってくれとは言わないが、そんなに僕が悪いのか、これでもギザギザハートの持ち主なんだぞ、などと思っていたら、そんなに自分がかわいいなら、一人で部屋にこもっていなさい、とお説教されてしまい、「それもそうか」と納得してしまった僕は、本当にどうしようもない。ともすると、このコミュニケーションがすべてを支配する世間から、ひきこもって、まあ民主党政権に生命だけは保全してもらおうかなどと、もはやポジティブなんだかネガティブなんだか分からない思考に突き動かされそうになる自分が怖いです。 問題はそこなのです。この複雑怪奇なコミュニケーション社会の波にもまれるくらいなら、それを横目に見ながら、生きられるだけ細々と生き続けようと、危険な思想が持ち上がるのです。これはぬぐいがたい。そしてそうした一種の投げやり感が、敏感に人に悟られて、「おまえはこの社会でやっていく覚悟が足りない」とか、挙句に「人と向き合うことから逃げて、自分しかいない」とか指弾されるのです。ああ、まさにおっしゃるとおりです。しかし、どうすればよいのでしょう。僕は本当に人の気持ちが分からないのです。「分からないんだったら、傷つけないために離れよう」と思ってしまうのは、それほど良くないことなのでしょうか。人はみな、他人とつながるためにかくもあがき、かくもボロボロにならねばならないのでしょうか。僕にはそれが分からない。 まあ、そんなこんなでどうも人生の岐路にいるようです。コミュニケーション・ルンペンになるか、社会の波を華麗に乗りこなすコミュニケーション・ブルジョアになるか、のるかそるか、鬼が出るか蛇が出るか、ここが勝負の分かれ目よ、という感じです。それでは、皆さん、ごきげんよう。
うちにソファーが届きました。居間にやっと自分専用のスペースができました。それまで折りたたみ椅子に座っていたので、さぞかし快適になるだろうと思っていたら、案の定、いや案をはるかに超えて快適でした。なんで僕は、この数年間ソファーなしに過ごしてきたのだろう、と後悔するほどの素晴らしさです。 これでいつなんどきエンドレスなお話タイムが始まっても安心です。というのも、これまではちょっとお話に疲れて、休もうにも休めなかったからです。ちょっとくたびれて姿勢を崩したりしたら、不真面目・不誠実のそしりを受けて、激しく弾劾されたものです。しかし、このソファーがあればもう安心。どんな格好で聞いていても、ちゃんと返事をしている限り、まったく不誠実な態度にはなりません。さながら初期の精神分析のごとく、お互いがリラックスして心の内を開陳することができます。なんてすばらしいんだ、このソファーは。僕はまるでテレビに出会った50年前の子供のように、狂喜乱舞して、文字通りかじりついてしまいました。ソファー万歳、ジーク・ソファー。 しかしあまりにリラックスしすぎて、「僕はこんな風なら、(働かないで)一生このままで過ごしたい。こんな生活ならいつまでだって過ごしていい(僕の家じゃないけど)。実家の近くで一緒に過ごそう(僕は働かないけど)。子供もいていい(僕は面倒見ないけど)。」などと口走ってしまい、妻をひどい不信感に陥れてしまったことは、まああまり褒められたことではないようです。困ったものです(古泉クン的な口調で)。 でも、あえてもう一度言いますが、ソファーは大事です。ソファーのあるなしが、その人の(精神的な)生活のレベルを左右するといっても過言ではありません。おうちにソファーを置くスペースがあって、なおかつソファーを置いてないという人は、ぜひソファーを置きましょう。一家に一台、いや一人に一台、ソファーのある生活をあなたに。ビバ・ソファー。とはいえ、僕はニトリなどの回し者ではありませんので、あしからず。
前回の更新からまた半年が過ぎてしまいました。前回は雪が降ってもおかしくない季節でしたが、今はもう梅雨です。季節は半年の間、ちゃんと手順を踏んで着々と進んできたはずですが、ブログ上の僕の時間は何のプロセスもなく、いきなり半年を経過してしまったようです。まるでどこかに置き忘れたかのようです。あるいはそれは本当にどこかに置き忘れていったのかもしれません。こことは違う別の世界に。 これでピンときた方はすごいですが、ちょっと村上春樹の影響を受けた書き方をしてみました。それというのも、今巷で話題の『1Q84』を読んで、久しぶりに村上ワールドに浸ったからです(といっても読んだのはまだ半分だけですが)。批評サイト・ドネルモで近々これを題材に座談会が行われる予定らしく、そのためもあって勧められて読んだわけですが、なるほどこれは多くを語るだけの密度というか内容をもった力作だと感じた次第です。 今その個々の話題をあげることは省きますが、とりあえず一番印象的だったことを書きます。それは「ふかえり」と呼ばれる登場人物です。この女の子は、小説の新人賞の下読みをしている主人公が下読みをしていて目にとめた小説の一応の著者なのですが、とにかくしゃべり方が特徴的です。感情の起伏がなく抑揚のない声で、単文だけの短いセンテンスを極めて簡潔に話します。それがことさら僕の印象に残ったのは、この女の子の描写があるライトノベルの有名なキャラクターにとてもよく似ていたからです。ほかの方も言及されていますが、『涼宮ハルヒ』シリーズに出てくる長門有希です。このキャラクターもまた、言葉を節約しているかのように簡潔にしか喋りません。それは、普通のキャラクターのように会話から感情なり内面を窺い知ることを不可能にすることで、考えていることがよく分からない、いわゆる「不思議ちゃん」という印象を強くします。長門有希はかなり特徴的なキャラクターで一種独特の雰囲気をまとったキャラクターなのですが、これを彷彿とさせるキャラクターを小説の中にするっと入れてくるのは流石というしかありません。まさか村上春樹の小説にライトノベル的に特徴のあるキャラクターが、こうも如実な形で登場するとは思っていなかったので、かなり意表をつかれました。読む前にYさんから、「ふかえりはライトノベル的ですよ」と既に言われていましたが、ついに村上小説はライトノベルの世界までものにしてしまったのかと思う次第です。恐るべし、村上春樹。 しかし単にしゃべり方が似ているというだけでなく、この二人には面白い対比点もあります。ふかえりは小説の著者ということになっています(厳密にいえば著者ではないですが)が、実はディスレクシアという字を読むのが難しい障害を抱えていて、普段本は読みません。長門は自分で小説を書いたりはしませんが、いつも分厚いハードカバーを黙々と読んでいます。かたや字は読めないが小説を書く少女、かたや活字中毒だが小説は書かない少女。似たようなキャラ造型でありながら、字というものに対してこれほど鮮やかにスタンスが違うというのもなんだか滑稽な感じがします。まるで鏡に映った逆の姿を見ているかのような錯覚にとらわれます。ただ二人とも大変に頭がよく、何か常人の見ている世界とは別の世界と関わる特殊な存在であるという点から見れば、非常によく似たキャラクターになっています。 こういう相似と対照を念頭に置きながら二人の人物描写を読むのも、今回の読書における大きな楽しみの一つでした。 |一覧| |
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