第1章●Crooks●‐第1章‐ 信号機の表示が赤から緑に変わって、直立姿勢をとっていた枠の中の人間が歩き始めた。通行人たちがクロスしたゼブラゾーンを足早に渡っていく。 事務所の給湯室では、やかんの蒸気があがっていた。『サンカイジェネラルサービス』という文字が書かれたプラスチックの安っぽいプレートの付いたドアが開いた。 「おはよーございます」 鼻にかかった高い声。一人の女がドアを半分ほど開けた間から入ってきた。 南の窓を背にしたデスクに座っている男がパソコンから顔をあげた。 「今日からこちらで働くことになってました、大場はるかです」 「・・・ああ。オオバさんね」 彼女は長いまつげに縁取られた目を大きく見開いて笑った。男は少し戸惑いつつ答えたが、すぐに何かを思い出したようだった。 彼は、その大場はるかと名乗った女の格好を見た。金髪に染められた髪は、頭の上のほうで左右2つにくくられ肩まで垂れており、まだら模様の動物の毛でふわふわしたコートを着て、どこかのブランドのマークが取っ手の金具に付いたバッグを提げている。そして、こんな季節なのにひざより上までのピンクのスカートに、黒革のヒールの高いブーツ。よくこんな目立つ格好で来れたな、と白川は思った。 「そちらが、白川さん?」 大場はるかはパソコンの画面に隠れかけている男の顔をのぞき込むようにしていた。 「ああ」 「どうぞよろしくお願いしまーす」 はるかはグロスで光ったくちびるでにっと笑って首をかしげた。彼女の姿を白川はまんじりとしない顔で眺めた。 彼女はドアに一番近いところにあるデスクにバックを放り出し、コートをいすにかぶせた。デスクの上には筆記用具や書類がきれいに整頓されて置かれている。その机ははじめ、光沢の押さえられた金属系の文房具が織り成す落ち着きのあるモノトーンな色合いに統一されていた。だが、彼女のバックのはしからはみ出していた、携帯電話についているけばけばしいキーホルダーの群れがその上に転がったためすぐに赤やピンクや黄色のにぎやかな色彩に満ちた。 オオバハルカ。白川は一応その名前を頭の中で反すうした。忘れないためである。だがそれもただ、一時的で頼りにはならない作業なのだが。 「かけっぱなしですよー、白川さん」 給湯室に置かれているガスコンロに向かいながら、言葉尻のあがる声ではるかが言った。部屋の温度が上がるのをいいことに放ったままにしておいたのだった。湿気の増えすぎは機械によくないかも知れないなと白川は思ったが、すでに遅かった。 「ピューって鳴るやつにしたほうが絶対いいですよぉ」 パチンという音がして、どうやら火を切ったらしい。見れば、部屋の西側の窓ガラスが曇り始めていた。半ばぼんやりとしながら白川は、コーヒーの壜のふたを開けているはるかに言った。 「今日は・・・えらい変わりようだな」 言葉が口に出たあとになって、また言ってしまったと思ったが、結局彼女は案の定の返事を返した。 「何の話ですかぁ?」 間の抜けた声だった。白川は別になんでもないと手を振って、黒いノートパソコンの画面に目を戻した。彼の机は、部屋の中央で4台くっつけて置かれているのとは別に、南の小さな窓の近くに置かれている。立ち上がって窓のそばに行くと、外の冷気が湿っぽく伝わってきた。彼はコーヒーを入れているはるかを見た。毎度のことだが、全く慣れない。元々自分には慣れるという人間的な部分が欠けているのだろうとは思っていたが、このような場合はなおさらだ。腑に落ちない溜め息をはいて、机の上に置いてあった空のマグを取り給湯室に向かった。 「ここ、白川さん一人だけなんですかぁ?」 微妙なうなりを上げて発光している電気ストーブの前で手をかざしながらはるかが聞いた。 「正平なら今日は昼から来るそうですよ。テスト期間だから学校早く終わるって」 「ふーん」 はるかは少々不満そうな表情を返した。 顔をあげた白川の目に、ドアの上の時計が留まった。11時45分を指している。もう昼になるではないか。こんな時間になっているとは全く気づかなかった。ちらりとはるかのほうを見たが、彼女は何一つ気にしていることはないといった風である。彼女が来たのはつい先ほどだから、一般的に言えば完璧な遅刻である。注意くらいしておくべきところなのだが、ここでそんなことをする意味はあるのか? 少し迷っていたが、何も言うことなく、白川は自分の仕事に戻った。 はるかは自分の席で、水しぶきを立てて垂直跳びをしているイルカの姿が描かれたネイルを眺めていた。 正午を15分ほどまわった頃、威勢のいい挨拶とともに学ラン姿の少年が事務所に入ってきた。 「ちわ!あれ?どちらさま?」 「大場はるかさんだ。迷惑かけるなよ」 さっそく背中から学校指定のバッグを降ろそうとしている彼に白川が言った。 「こんにちは、正平くんだっけ?」 「そう、だよ?」 はるかはまた、白川のときと同じように自らのかわいらしさを強調した笑みを送った。 正平は、コンビニのミニ弁当をつつきはじめたはるかを一通りまじまじと眺めると、すぐに、窓際で観葉植物に水をやっている白川の所へ行き、耳打ちをした。 「あれさぁ、三瀬さんからのギャップありすぎじゃない?」 それを聞くと眉をひそめて白川が言った。これが共感というものか。 「だよな」 2人がそろって派手な女に目をやると、彼女はにっこり笑ってこちらを見ていた。 荷物を空いている机の上に放り出すと、正平はそばに転がっていた今日のスポーツ新聞を取り上げ、苦もなく一面に例の記事を見つけた。そこにはここ数日の常、プロサッカー選手・多賀城茂の記事が写真付きで載っていた。彼は、その文面を適当に読み上げていった。 「任意同行で職務質問を受けていた多賀城氏は証拠不十分で釈放。こうコメントしている。「僕が強盗をやるなんてありえないですよ。被害者であるはずの僕が警察に呼ばれるなんて驚きです。でも、僕に変装して強盗する人間がいたということに一番驚きましたね。世の中何が起こるか分りませんよ」写真:氏の釈放を待つ女性ファンが警察署前に詰めかけ、交通が一時混乱した。うへぇ」 正平は一人鼻で相づちを打っていたが、しばらくすると顔をあげてこう言った。 「まるでいつかのマイケル・ジャクソンだね」 白川は苦笑いして言った。 「いつの話だよ」 「さあ」 正平は肩をすくめるとその新聞を、もう興味はないとばかりに古新聞の積んであるラックに放った。マグからコーヒーをすすりながら、マイケル・ジャクソンが出てきたのが自宅だったのか警察署だったのか裁判所だったのか拘置所だったのかを考えていた白川は言った。 「ちょっと違うんじゃないか?」 「そうでもないって」 けろりとした顔で正平が言った。 そういうニュースはここ何年か真面目に読んでみたこともなかったということに白川は気づいた。その某有名人がどういう経緯でニュースになるような事態に至り、その後どういう経過をたどっていったのかなどということは、まったくもって彼の知識としてまともに存在していなかった。興味がないというわけではなく、ただ触れたくはない。理由はただそれだけなのだが、その理由がどんな原因から来ているのかを考えていくと、どうも面倒くさくなってしまう。しかしとにかく、違うのどうのということは自分にはまったく言えもしないことなのだった。だが、この中学生も分かって言ったのだろうか。何も知らない白川には彼の言葉が冗談にも皮肉にもなっていないような気がした。つまり納得がいかないのだが、勝手なイメージによる判断でマイケルがとばっちりを受けただけ、そういうことはあんな有名人にはよくあることなのだ、と思えば、納得などする必要はないように思えた。いや、それ以前に、こんなことを考える必要すらないのだろう。 そんなふうにぼんやりと、事務所の端にあるひょろ長い観葉植物―――椰子の木のようだと例えてもいいが、それほどしっかりとしてはいない、細く乾燥した一本の幹がいびつに上に向かって伸びて、その先に、赤で縁取りをされた細長い葉が交互に並んで10センチほどの幅の中に何枚もくっ付いている植物―――を眺めていた白川は、急にあることを思い出して、手鏡で化粧直しをしているはるかに言った。 「宮崎社長とは連絡取れ、ましたか?えーと・・・大場さん」 「はーい、三瀬さんからちゃんと連絡がありましたぁ。でも報告書まだもらってないんで持っていけないんですけどぉ。今日持って行くんですよねぇ、あれ」 「はいはい。出来てますから今からすぐコピーします」 白川は机の引き出しを開けて、パソコンとプリンターを接続するコードを探し始めた。しかし、はるかは青っぽいマスカラを付けながら言った。 「そーいえばぁ、インクなくなってましたよぉ?」 「無かった?」 「ないない」 はるかの視線は相変わらず鏡の自分に落ちている。 「じゃあ――」 白川の声ははるかの方に向かったが、それを察知した彼女は切り返した。 「正平くん、買ってきて」 「おれ?何で?」 「ヒマそうにしてるからぁ」 正平ははるかの目の前の机でほおづえをついていた。天井を見て、それから目玉をくるっと一回転させると彼は言った。 「いーや、暇じゃありませんよ。大忙し。ねー、白川さんユキチどこにいるか知らない?」 「今日は見てないけど、そのへんにいるんじゃないか?」 白川が扉の外、階段のあるあたりの壁を指して言った。 「じゃ、探してきまーす」 そう言って机を立った正平は事務所のドアを開けかけたが、何か思い出したらしく給湯室へ戻っていった。白川の視線が正平からはるかに戻りかけた時、 「それじゃ、インク切らして気づかない白川さんが責任取るってことでぇ。いってらっしゃーい」 はるかが言った。 「何だそりゃ」 「行きましょうよぉ、白川さん。運動不足解消ですよぉ」 はるかは、目の周りに光る粉を付けていた。微妙な作業に集中しているはずなのに、話だけは通じているから不思議だ。もう言葉を返す余地はない、と2人の姿を見ていた白川は観念した。人間というものは関わりたくないことに対しては注意を自らシャットダウンすることができる。こちらにはあなたの意向は届きませんよという空気はすぐに分かってしまうのだから。しかし、そんなことは自分のただの思い込みだということだって十分に出来る。人が「感じる」ものなんて本当に確かなのかどうか分かりはしない。だがともかく、ここでどうのこうの言ったところで何が良いということもないだろう。 白川は机の上にコードを置くと、財布とコートを取って出口に向かった。一度ドアから出ようとしたが、一歩戻って聞いた。 「えっと、何色?」 「黒ちゃんでーす」 はるかは手を振りながら、一方では粉をまぶたの端に小指で押し広げていた。冷蔵庫から牛乳パックを取り出した正平は水切り棚にあった深めの皿を取ると、白川のわきを抜けて事務所の外に出て行った。それに続いて白川も、財布とコートを持って出て行った。 白川が黒のインクタンクの入ったビニール袋を提げて戻ってきたとき、正平はもう戻ってきていた。床の上にしゃがんだ彼の前には1匹の猫がいて、皿から黙々とミルクをなめていた。その横で、机に斜めにもたれかかったはるかがメールを打っていた。そして同時に、正平と話していた。 「へぇ、正平君、今日テストだったんだぁ」 「そう。国語と技術家庭。もう今日で終わり」 「ふーん」 「技術は余裕だったねー。製図が入ってたんだけど、木製の本棚の、幅が調整できるのも付いてないやつだもんな。すぐにできた」 「やるじゃんやるじゃん」 「やるよー。おれはやるときゃやる男なんだからー」 「なにそれぇ」 白川は机の上に広げてある図面の束を見た。これが例の“投石器”の設計図だ。 彼はその図面を眺めた。これは道具じゃないよ、作品だよ、などと作った本人が言っていたが、よく見ればそれも大げさではないのかもしれない。直線と曲線と記号が複雑に絡み合っていて、線の密度が場所によって違い、微妙なコントラストを生んでいる。抽象画と言ってしまうには、妙にリアルな感じもする。これがなにを示しているのかは書いた本人にしか分かりそうになかったが、ただ眺めるだけでも面白い、というよりも妙に気になってしまう代物だった。 「工作、好きなんだな」 「そうだよ?」 正平は三毛猫の横で白川を見上げた。 だが、その作品本体のほうはもう警察署に「寄付」されてしまったため二度と拝むことは出来ないのだ。彼は目の端で苦笑いすると、図面を縦に丸めて輪ゴムで止め、入り口から一番遠いデスクの横に立てかけた。 「放っとくなよ、ちゃんとどっかにのけとけ」 「気にしすぎだよ」 正平は猫の背中を撫ぜていた。 はるかが印刷機のインクを交換し、白川が宮崎商会の件についての報告書をいじっていたとき、唐突に正平が言った。 「白川さん、多賀城からサインとかもらってないの?」 間の抜けた声を出して顔をあげた白川は、手で四角形を作って「サイン色紙」をジェスチャーしている正平を見た。ややあって白川は答えた。 「もらうわけないだろ」 「なんでさー。あんな機会めっったに無いんだから、もらうでしょフツウ。ちゃんと会ったんでしょ?」 サインをもらうなどということはまるっきり考えもしなかった。確かに彼は有名人だが、単に有名人として接することが出来るわけがない。あの男は、あの計画の依頼人を探してきた人間と親しい間柄なのだ。サッカー選手と言っておきながら、実のところ一体何をしているのか分からない。 「会ったけど、もらいたいとは思わない」 白川は少々なげやりな口調で言った。 「なんでー!超、超、超、超、超~人気選手じゃん。もらわないなんておかしいよ!」 正平は大げさな動きで頭を抱えた。 「本人に会ってないからから言えるんだよ」 「なんか、怪しい表現だね、それ」 「怪しいも怪しくないもない」 「でもさ、本物がどんなのでも、多賀城のサインに価値があることには変わりはない、だろ?」 「知らんぞー、彼のサインのすべてを本人が書いたのかどうか」 「またまたー。そんなこと言って白川さん、多賀城のことあんまり好きじゃないんでしょー?」 にやにやしながらそう言っている正平を後ろに、白川は印刷機の前にいるはるかに言った。 「背丈が一緒だからってだけであの人選はないだろ、マサ・・・」 すると白川が言葉を続ける前に正平が割り込んできた。 「大場ですぅ。白川さんがあまりにも多賀城と似てなかったもんだからぁ、三瀬さんがムッチャクチャ怒ってましたよぉ?」 「それわたし?何マネしてんのよぉ!」 はるかは正平のモノマネに激怒していた。正平はさらに、にやけながらはるかのまねを続けていた。 割り切るのが上手い奴だな。正平のナイスフォロー過ぎるフォローを見て、白川は思った。俺は、もうすこしこいつを見習ってみるべきなのかもしれない。白川はコートのポケット手を入れて窓の外を見た。窓は雨粒の形になったほこりで曇っていて、そこから見下ろせるスクランブル交差点に立っている人間の輪郭さえ分からないくらいだった。やわらかい景色に比べて、寒さだけは驚くほど直接的に体にひびいてくる。 だから睨んでたのか、あのとき。 宮崎商会の会長室を思い出した。秘書だった彼女と会長室で目が合ったときに感じた殺気を思い出した。白川は苦笑した。 「頭の中までその人物になりきるんです。そうすればあなたはその人物そのものなのだから、いくら疑われたとしても何一つ恐れることはありません」 計画をたてる途中で聞いた彼女の言葉は、まるで怪しい占い師の言葉のようだった。なりきる。ある人物になりきる。それは、自分をその本人なのだと信じ込ませる、といったことなのだろう。そうすれば偽っていることに気づく人間はいないし、それに、自分自身もその偽りを感じることはない。そういう簡単の話なのだ。だが、それでも結局、自分には出来なかった。はじめは完璧に、姿かたちから雰囲気、気分も、頭の中さえもその人間になりきれていたとしても、ほんの少しのほころびがどこかにできると、そこから徐々に亀裂が走り、自分を覆っていたものがどんどん崩れ去っていく。そう、感じた。はたから見て決してそのようには見えなかったとしても―――あの場合はたぶん、そうだったのだろうが―――それをやっている本人にはその崩壊は、いくら目を覆おうとも迫ってきて、決して止められない。するととたん、自分の顔がまるで粘土ででもできているようで、どんな表情を作っているのかさえ分からなくなってくるのだ。などとえらそうに考えてみるが、ただ情けない奴だということに相違ない。 信号がまた青に変わった。曇った窓ガラスはあいかわらず曇ったままだった。 とどのつまり、月にスッポンをあてがうなんてのは無理な話なのだ。 三瀬りつこはコインロッカーに荷物を詰め込み、鍵を閉めた。 朝の通勤ラッシュ時でも昼どきでも帰宅時間でもないこの時間帯、駅に人影はまばらになっている。とはいっても、券売機のそばやみやげ物を売る店がある入り口付近には待ち合わせをしていると思われる人々が何人も立っていた。 りつこは彼らの間を通り抜け、角ばった体型をした2人の人間がつないだ手を大きく空に掲げている銅像が真ん中に立てられた市営バスのロータリーを横目に歩いていった。商店街のある方向とは反対へしばらく歩くと風景がすこし灰色がかってくる。明るく目立つ色の看板が多く付いているものの、その色の組み合わせの狭間には暗さがいやおうなしに現れている。「歓楽街」という名で呼べるような町に入る手前で、りつこは右手に曲がった。 その路地の奥には小さな公園があった。ビルに3方を囲まれて、遊具も滑り台と地面に半分埋まったタイヤしかないので、子どもの姿は見られない。 そこで、宮崎正巳は待っていた。いつも通りに黒ぶちのメガネにスーツ、それに今日は外出用の黒いコートを着ている。その顔には学生時代からの親友に会ったような笑みが浮かんでいた。そして、その姿は、こころなしか以前見たときよりも大きく見えた。 正巳は笑顔のまま、公園の入り口にやってきたりつこを迎えた。 「よく似てらっしゃるから、知っていてもつい驚いてしまいますよ」 「ありがとうございます」 りつこはほとんど変化しない表情で笑ってみせた。三瀬りつこがよくする顔だった。彼女はさっそく、わきに抱えていた茶封筒を差し出した。 「審査結果です。読み方などは同封したマニュアルに書いてありますので」 「どうも」 正巳はそれを受け取って中身を確認した。中にあった文書の一部に目を通しながら、うちの警備は甘々だったんだなぁと苦笑いしてつぶやいていた。 「三瀬君はちゃんと見つかりましたよ。言われたとおりの場所に。でも彼女全然事情を知らなかったから、落ち着くまでは辞職するのどうのって大変でしたよ。責任感が強いひとだから。でも大丈夫です。彼女には何の非もありませんからね。それだけはしっかり言っておきましたよ。ああ、心配しないで。あなた方に関することは一言もしゃべっていませんから」 正巳はしゃべりながら、むき出しになった公園の黄色い土の上を歩いていた。 「沢田さんも尾形さんも大丈夫ですよ。何の問題もありません。多少文句を言われましたが」 正巳はそう言ってにっと笑った。 りつこはその笑顔にわずかに反応して、軽くまばたきを繰り返した。しかしすぐに元のような顔に戻って次の話しに入った。 「想定外の破壊についての弁償は本当にかまわないのですか?上司も心配しておりましたが」 巨大な窓ガラスを割った小型爆弾はそのガラスだけでなく周囲の壁や柱にもダメージを与えており、正平が使ったEMP・電磁パルス手榴弾によってビルのコンピュータに入っていた情報も一部失われてしまった。警察が蜂の巣にあけた壁の穴はそのままになっていたし、それに、外部に送った予告状―――あの後宮崎商会は、カメラとマイクを持った300人超の人間たちに攻め込まれたも同然だった。 しかし、正巳は落ち着いた調子で返した。 「ええ、結構です。あなたたちは十分にやってくれましたから、この先は我々のほうで処理します」 彼はそう言うと、錆びで塗装がほとんど剥げ落ちている滑り台のそばへ行き、その階段の手すりの部分に手を触れた。なんだか急に日が暮れてきたようにりつこは感じた。しばらく黙って滑り台を眺めていた正巳は、顔をあげると言った。 「あの絵、なんなら盗んでもらってもかまわなかったんですよ?」 当惑したのか、りつこは首をかしげて答えた。 「いえ、あの絵を盗み出すのが私どもの仕事の目的ではありませんでしたから」 すると正巳は皮肉っぽい笑みを浮かべて視線を落とした。その靴の先で、貧弱に生えた葉の細い雑草をつついていた。 りつこが彼の意を量りかねていると、彼はつぶやいた。 「あれはボクには必要ない」 近くの路地で、車がクラクションを鳴らしたのが聞こえた。 黙っていたりつこが何か言おうとしかけたとき、宮崎正巳は自分の言ったことに驚いたかのような、はにかんだ表情を浮かべた。 「いえ。とにかく、ご苦労様でした。これ、参考にさせていただきます」 正巳は茶封筒を手で振った。 「では宮崎さん。この先、あなたとわたくしどもの間で連絡は取れないことになっています。よろしいですね」 りつこは淡々とした表情に戻ると、今までで最も事務的な口調で言った。 「ええ。もちろんです。それでは」 宮崎正巳はりつこの前を過ぎて、出口に向かって歩き始めた。ほんとうに辺りは夕暮れの色に沈みかけていた。 「そうだ・・・」 彼は立ち止まって言った。 「あの坊やにも、よろしく伝えといてください」 宮崎正巳はぎこちなく会釈をすると、公園の前の道を歩いていった。 りつこは、そのうしろ姿が角を曲がって消えるまで眺めていた。そして、ふと目の前をよぎった疑問を頭の奥にしまいながら、彼女もまたそこを去っていった。 ‐第1章‐ 完 ‐第2章‐へ続く ●小説●にもどる HOMEにもどる |