三木清 幸福について
幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであると言われるかもしれない。健全な胃を持っている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないと言われるだろう。しかしながら今日の人間は果たして幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に満ちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむとも言われている。そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴づけている。 --三木清