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前回、以下のように書いたきり、年も明けてしまいました。
この世界は分離しているように見えて、実は一体であることに 気付くことです。 たとえば、スクリーンに映し出された映像。 映像に様々な物・人が現れますが、実在しているものはスクリーンと 光だけですね? この三次元世界も、同様の3D立体映像だということに気付けば 良いのです。 では、どのようにして気付くことが出来るのか? それはまた次回に述べたいと思います。
よく臨死体験された方は不死を知ることによって、このように (この森羅万象が3D立体映像のように)見えているのでしょうが、 では臨死体験しないとムリなのかというと決してそんなことは ありません。
日本には「道」がつくもの-書道、茶道、華道、弓道、剣道、柔道- 等たくさんありますが、「○○道」と何でも「道」をつけてしまいます。 では「道」とは何か? 「大道無門」という言葉がありますが、「大きな道に門はない」と 言われる、この「大道」こそが「道」」なのです。
「禅」も然り。 座禅、立禅があるように、作業禅という掃除でも洗濯でも調理でも 禅になり得るのです。 「禅」は最近逆輸入という形で「マインドフルネス」という名で日本にも 入ってきた「瞑想」と同じものです。
そういう意味では、座禅も「座道」、茶道も「茶禅」と言い換えても 同じことでしょう。 ようするに、可能な限り覚醒し、全身全霊尽くすことによって 「今・ここ」にあることが「道」であり「禅」なのです。
「今・ここ」にあると、思考は不可能です。 なぜなら、思考と過去・未来はイコールだからです。 考えなければ、頭が無ければ過去も未来も存在しません。 そして、可能な限り覚醒し、その覚醒が深まれば深まるほどに 5感で知覚するこの物質界・3次元世界全体を距離を置いて 見つめることができるようになります。 見つめられるもの、観察されるものは自分ではなく、言うまでも なく観察者そのものが自分です。 自分の手、足、頭、口、胃腸、心臓、骨、すべて観察可能です。 自分の考え、思い、感情-怒り・苦しみ・悲しみ- すべて 観察可能です。 ただただ、見つめる者そのもの・・・ 判断、印象、感覚、そういった ものすべをただ認識している純粋な意識・・・ それが自分なの ですが、こうなるともはや「自分」と呼べるものではない感じがします。 ただ、ただ、深く見渡し、見守り、温かく、深遠な、無限の意識・・・ 観察者そのものに意識することが究極の瞑想であり禅であって、 まさにこれによって覚醒が高まると同時に幸せになり、健康に なってしまうのがこの宇宙というか<存在>の法則のようです。 それが、どんなに「良い」ような思い(信条や教義など)であっても それに囚われてしまうと、「今・ここ」にいなくなってしまうので 不幸・病気に見舞われてしまうようです。 チベット医学はお釈迦様の「無明である限り病はつきまとう」という 原理原則を基本としています。 無明、即ち今・ここにいないこと。覚醒せず、思いに囚われている 状態のことを言います。
ちょっと長くなってしまいましたが、この三次元世界が3D立体映像だと 気付くにはひたすら覚醒すべく、自分にあった手法で禅・瞑想する ことに尽きるのだと思います。 ただ、これはある程度人生経験を経た成熟した大人にいえること であって、子供や20代の若者には一概に言えることではないかも 知れません。 というのは、エゴは熟さなければ落ちないからです。 ゆえに、魂の奥底から湧き上がってくる、本当にやりたいことは 片っ端からやっていくに尽きます。
ヒンズー教ではこの3次元世界を「マーヤ」(幻)と言います。 すべてはいつかは消え失せるのですから、至極当然ですね。 せっかくこの最高に素晴らしい遊園地に肉体を授かってきたのですから 楽しまないテはないですね!! おまけに自分が創っていける世界なのですから尚更ですね!! 想像=創造。 このしくみについては、次回にまた述べてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.01.08 17:01:22
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