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読書日記 [全201件]
9月10日から約一年間、台湾に留学するため、当ブログの更新は一時中断します。留学先で日本語の本を読めばここに感想を載せるかもしれませんが、しばらくはそれもできそうにありません。
すなみまさみち /古山浩一 『万年筆クロニクル』 エイ出版 万年筆好き必携の年代記。 同じくエイ出版から出された古山浩一の『万年筆の達人』の続編のような一冊。 『万年筆の達人』は国内の万年筆職人にスポットを当てた本で大変充実した本だったが、私はまだ国内の手作り万年筆にまでは手を広げられずにいるので、自分のコレクションとは直結しないためそんなに関心をもてなかった。 この『万年筆クロニクル』は万年筆の歴史にスポットが当てられ、誕生から現代に至るまでの国内外の重大なできごとがイラスト入りで説明されており、大変興味深かった。アンティーク万年筆の蒐集家のみならず、海外有名ブランドの万年筆のコレクターや日本の手作り万年筆の愛用家にとっても、興味深い資料が盛りだくさん掲載されている。少々高い本ではあるが、万年筆好きならば、とりあえず買っておかねばならぬ万年筆本の一つである。
衛藤征士郎 /小枝義人 『検証・李登輝訪日 日本外交の転換点』 ビイング・ネット・プレス /星雲社 2001年の李登輝が心臓病治療のために来日した際の、日本側の政治的動きを紹介。貴重なインタビュー記録や、日台関係を考える上で重要な法律や条約などの資料も多数収録。 今年の李登輝訪日は多数の講演や靖国神社参拝、「おくのほそ道」の旅など大きな成果を収めたため、2001年や2004年の来日のことが大昔のことのように感じられるようになった。正直に付け加えると、その当時の私はまだ台湾に関心を持っていなかったのだが。 とはいえ、今年の訪日の意義を考える際に、かつての訪日のことは覚えていないではいささかまずい。そこで、2001年の李登輝訪日について学ぶために本書を読んだ。大体の流れは掴めたが、暴露話は特になく裏事情を垣間見るような面白さはあまりなかった。加えて、インタビューや参考資料はとても充実しており、期待して以上に参考になった。
『蒋介石総統偉績画伝』 中国出版公司 蒋介石を讃える画伝。多数の写真と語録を収録。 台湾の国立故宮博物院の所蔵品が初来日したとのことで、大阪市立美術館に「特別展 上海 −近代の美術−」に行ってきた。故宮博物館に行ったときには玉や工芸品にばかり目がいってしまい、書や絵画は見飛ばしていたが、今回はじっくりと書や篆刻を拝見してきた。 大阪市立美術館のショップで、おそらくこの特別展に因んでか『蒋介石総統偉績画伝』が売られているのを発見した。古書で、カバーには破れ等の傷みがあり、値段は800円。衝動買いで購入した。美術関連の古書がメインの古書店のようで、店員さんからも「めずらしく…」といわれてしまった。 この手のプロパガンダ臭が漂ういかにもな本は、あまり美術館では売れないのだろう。しかも、台湾では民主化・本土化がますます進み、本省人は蒋介石への嫌悪をますます露骨にあらわにするようになっている。東ドイツあたりではかつての独裁時代の文物を懐古趣味的にキッチュとして楽しむのが流行ったりしているそうだが、台湾の政治的ごたごたは複雑かつ現在進行形なのでそういうノリのトレンドになりそうにはない。 肝心の内容だが、出版当時の台湾国民政府の国威発揚がメインとなっているようなだ。もちろん、蒋介石の大陸での功績についてもしっかり宣伝されているが、台湾に来てからのことのほうが目立っていた。第二次大戦後の大陸での国共内戦についてはほんの少ししか扱っていないこと、台湾を中国を代表する正統な政府である国民党の大陸反攻のための基地としてとらえているということなど、出版当時(1969年)の台湾国民政府の主張が伝わってきて興味深い。 国民党は台湾を実効支配しているに過ぎないにもかかわらず、長年にわたって全中国を統治しているかのような政治体制を維持し続けようとしてきた。そんな台湾国民政府の政策は、現代の日本人にとって理屈はわかってもその雰囲気はなかなか理解し難いところがある。勿論この本は、蒋介石の主張に沿った一方的なものであり、動員戡乱時期臨時條款で締め付けられていた台湾住民の本音が聞こえてくるわけではない。しかし、台湾の一面、当時の表の顔を知り、台湾の理解していく上で、本書は貴重な一冊であろう。 ちなみに、私はこの本は800円で入手したが、改めてアマゾンで調べたところ、ユーズドで一万五千円近くの値が付いていた。これは、思っていた以上の掘り出し物だったのかもしれない。
宮崎正弘 『出身地でわかる中国人』 PHP新書 「北京愛国」「上海出国」「広東売国」。広大な中国の差異に富んだお国柄を紹介。これを読めば、もう「中国は…」と一括りにできなくなる! 「同じ“中国語”だ」といっても、例えば上海語(呉方言に属する)と北京語(北方方言に属する)とでは全然別の言葉だというのはもはや常識であろう。それと同様に“中国人”と一括りにされている人々も出身地ごとに全然異なる性格を持っている。 中国好きも中国嫌いもしばしば「中国は…」と、中国を一つのモノであるかのように論じている。しかし、あの広大な多民族国家、多言語国家の中国をそのように捉えるのは大変危険なことである。一つの衝撃的な出来事だけを見て、中国の全体をイメージしては判断を誤りかねない。 麻生太郎も演説や著作で、重慶で反日暴動が起きている一方で別の場所では10万人の中国人が谷村新司のコンサートで昴を大合唱した、というエピソードを紹介している。あらゆることに当てはまることだが、特に広大で複雑な中国の場合、多角的に見なければ中国の実情はイメージできない。もっとも、中共の言論統制や日本のメディアの恣意的な報道も、中国をイメージし難くさせている一因となっているのだが。 本書は出身地ごとに“中国人”を見ていくことで、“中国人”という一つの人種があるかのような幻想から脱却するための画期的な本である。地方ごとのお国柄や住民の気質の違いは、もはや同じ国の国民とは思えない。“中国人”と一括りにいわれる人々も出身地別に見れば、ドイツ人、イギリス人、フランス人、スペイン人の違いにも匹敵する差異を見出すことが出来るのである。 これほどまでに地方によって考え方が違うならば、自分たちの事は自分たちで決めるという民主主義の原則を適用すると、中国は一つの国ではいれないだろう。その上、大体の“中国人”は孫文が散砂と例えたように個人主義的傾向を持っている。これらの人々を一つの国に纏め上げるには、上から厳しく締め付けるしかないのかもしれない。大中華帝国を夢見る中共の統治が独裁になるのは、やむを得ないことなのか。 問題は、これほど違う地方色を持つ人々を一つにまとめる意義が果たしてあるのかである。グローバル化で一つにまとまっていく一方で、エスニックグループごとのアイデンティティーを見直す流れもある。現状を見ると急に中国が地方ごとに分断されるとは思えない。しかし、台湾やチベットの今後次第では、ありえないと一笑に付すこともできないのではないだろうか。
中島らも 『永遠も半ばを過ぎて』 文春文庫 写植屋が無意識のうちに書き上げた謎の原稿。詐欺師がそれを出版社に持ち込んだことで…。中島らもの名作小説。 「リアル・デザイン」の2007年6月号の、「ジャケ買い本」についての特集を読み、『永遠も半ばを過ぎて』と出会った。 アートブックならいざ知らず、小説をジャケ買いするというのは邪道のようにも思える。しかしこの『永遠も半ばを過ぎて』の場合、表紙デザインが本の内容やストーリーと重要な繋がりがありある種の伏線的必然性を持っている。なので『永遠も半ばを過ぎて』は、ネタバレ気味のコピーにつられて読むよりも、ジャケ買いで読む出したほうが楽しめるかもしれない。 ハードカバーの方はもう売り切れているようなので文庫版の方にリンクを張ったが、古本を買ってでもハードカバーで読んだほうが楽しめるかと思う。
萩野貞樹 『旧かなづかひで書く日本語』 幻冬舎新書 これ読んで、ちよつと勉強しさへすれば、誰でも旧かなづかひを使ひこなせるやうになる。 前々から興味関心はあつたのだが、なかなか一歩を踏み出せずにゐた。たまたま書店で本書を見かけたので、早速読んでみた。読むのは古文に比べると簡単だが、書くのはやはり難しい。確かに、活用など文法を考へれば、確かに新かなづかひよりも旧仮名づかひのほうが理屈の上ではすつきりとして簡単である。しかし、例へば「い」「ひ」「ゐ」のどれを使へば良いのかなど、慣れるまでは大変だ。きつと、私のいま書いてゐる感想文にも、誤字があることだらう。とはいへ、書く練習をするのは面倒なので、旧仮名づかひで書かれた本を読んで慣れたいと思ふ。 本書で一番感心したところは、文語の短歌を新かなづかひで書かれると意味が解釈できなくなるといふ話しと、旧かなづかひで書かれた文学作品を新かなづかひに改変することの愚についてである。特に向日葵の譬へ話しは印象深かつた。現実問題として考へると、ただでさへ純文学が廃れてゐる今日、旧かなづかひで出版したのでは売れないといふ事情があるのだらう。とはいへ、作品が改竄されてゐるといふことにすら意識しない者が多いといふのはとても寂しいことである。
半藤一利、中西輝政、福田和也、保阪正康、戸高一成、加藤陽子 『あの戦争になぜ負けたのか』 文春新書 「あの戦争」を多角的に眺め、敗因を探る。過ちを繰り返さないために。 8月15日は終戦記念日。あの戦争を振り返るのに最適の日である。毎年この時期になると、日本全体が戦争への反省一色に染まる。あの戦争は間違っていた、アジアにはご迷惑をおかけした、国民にも多大なる犠牲を強要した、謝罪しなければいけない、との大合唱が始まる。戦後日本において戦争への反省といえば、感情論による戦争否定のことであるかのように見られてきたのである。 しかし、特に失敗に学び将来に生かすという意味では、なぜ負けたのかをしっかり考えていくことが重要である。あの戦争をなぜ戦ったのか、あの戦争になぜ負けたのかをしっかり考えることこそ、戦後日本にとって一番必要な「戦争への反省」だろう。開戦責任や戦争遂行責任の追求も大切だが、敗戦責任の追求を忘れてもらっては困る。 本書では、支那事変がなぜ対米戦争に繋がったのか、ヒトラーとの同盟の意義、海軍と陸軍が持っていた組織としての欠点、大元帥と天皇の立場上の違い、戦争を盛り立てたメディアと国民の熱狂、現実と大義、特攻・玉砕・零戦・戦艦大和など、他方面からあの戦争を見つめなおす。どの項目についても、現代にも通じる問題を内包しており、いろいろ考えさせられる。 特に関心を持ったのは昭和初期に政党政治不信が高まった理由について。これまでも政党腐敗は目に余るものだったにもかかわらず、この時期に不信感がピークに達した理由の一つが、二大政党制が始まったことによって政党同士がスキャンダル合戦を始めたことにあるという。最近、政治家のスキャンダルや失言が大いに取りざたされ政治問題の本質的な部分が隠されてしまっているような気がしていた。政権交代に向け民主党が勢いを増しているということが、その背景にあるのだろう。 あの戦争の失敗に学び、同じ過ちを繰り返さないためには、次の二点に留意する必要があるだろう。一つ目は一つ前の戦争に備えているだけではだめだということで、二つ目は本質的な問題点はいつの時代でもそう変わらないということである。 大東亜戦争の敗因の一つに、第一次大戦から学ばなかったということが指摘されている。にもかかわらずいままた同じ過ちを犯そうとしている。「軍人は一つ前の戦争に備える」というが、60年も戦争を体験しなかった日本で戦争反対論者が反対しているのは二つも三つも前の戦争である。いつまでも、大東亜戦争を、せいぜいベトナム戦争くらいをイメージして、「過ちは繰り返しません」と言い続けているようでは困る。科学や社会が変われば戦争の在りかた変わる。戦争が起きないように、万が一起きても敗れないようにするためには、今考えられる脅威に備えなければいけない。 また一方で、敗戦自体に気を取られ、その背後にあった敗因を改める努力を怠ってきた。売り上げのためには何でもするメディアと時局に流され熱狂する民衆、組織内や組織同士の権力闘争に終始し問題の本質を見失ってしまいがちな省庁、場当たり的で長期的な視点をもてない外交。あの戦争の前の失敗を、戦後日本が克服したとは思えない。戦争を反省するのならば、この前の戦争で明らかになった社会の問題点を改めなければならない。このままでは、「敗戦」という同じ過ちを繰り返すことになりかねない。 何が過ちだったのか。どう改めていくのか。終戦記念日がこれからもずっと8月15日であり続けるためには、あの戦争になぜ負けたのかを問い続け、その反省を将来にどうつなげていくのかを考えていく必要があるだろう。
柯旗化 『台湾監獄島 繁栄の裏に隠された素顔』 イースト・プレス 白日の下にさらされた、台湾戦後史の暗部。 アジアの民主国家の優等生として名高い台湾。しかし、ほんの少し前までは、ファシズム政党である国民党によって、恐怖政治が行なわれていた。 台湾で民主化弾圧、台湾人への苛烈な締め付けといえば、あの2.28事件が有名。しかし、恐怖政治の一番の恐ろしさは、監視・密告・投獄・拷問・処刑が、毎日毎日、日常の隣に潜んでいることである。いつ何時、幸福な日常生活が壊され、いわれのない冤罪を被せられるかわからない。政治犯、思想犯が収容された緑島が国民党による恐怖政治を象徴しているが、緑島だけが監獄島だったのではなく、台湾全土が監獄島だったのである。 本書の著者、柯旗化さんも冤罪で緑島に投獄された1人。英語の教員として、英語参考書の著者として成功していた柯さんは、台独運動に関わっていたわけでも中共のスパイだったわけでもない。しかし、拷問に耐えかねた友人のでたらめな自白により、捕まり緑島に何年も閉じ込められてしまう。 民主化した現在、台湾の恐怖政治の真実が次々と明らかになってきている。実際に緑島に収容された著者によって明かされる、理不尽なエピソードの数々には、読んでいて恐怖と怒りを覚えさせられる。特に今年は台湾旅行もブームのようで、これからは台湾の歴史に関心を持つ人が増えていくだろう。恐怖政治時代の一端を伝える本書は、いまの民主的な台湾になるまでの歩みを知るための重要な一冊である。 ちなみに緑島は、現在観光名所になっているそうで、かつての監獄も見学できるそうだ。機会があればぜひ見学に行きたいと考えている。
福井晴敏 『Op.(オペレーション)ローズダスト』(上・下) 文藝春秋 『亡国のイージス』を凌ぐスケールのサスペンス・アクション。 例によって分厚い本なので怯んでしまい、なかなか読み始める気になれなかった。が、読み始めると、やはり面白いので一気に読み終えた。 この作品は、これまでの作品よりもメッセージ性が強くストーリーもよく構成されてはいるのだが、面白さでは『亡国のイージス』『終戦のローレライ』のほうが上かもしれない。ここでは、福井晴敏作品の売り物である、登場人物、メッセージ性、爆発、の三点について『Op.ローズダスト』の感想を記す。 まずは登場人物について。主役を張る男性陣は、これまでのように、冴えないロートルと凄腕だが人間性に乏しい若手のペア。物語に色香を添えるべきヒロインは、冒頭に登場するプロローグで登場した後、話しが本格的に始まる前に死んでしまう。しかし、その死んだヒロインを巡る想いが話を引っ張っていく構成になっているので、直接は暑苦しい男たちを描きながらも、話しが進むに連れてその女性の魅力が語られていく。また、サブヒロインとして主人公の娘が登場し、硬派な話に華やかさを与えている。 話のメッセージについては、「新しい言葉」の内容がいまいち明確ではないのが残念。まあ、それを模索する話なので仕方がないといえば仕方がないのだが、新しくて斬新な政治思想を紹介すればもっと話に深みが出てきただろう。対米従属一辺倒で主体性を欠いた戦後日本外交やセクショナリズムなどを批判するシーンは読み応えがあっただけに、なおさら残念だ。もっとも、「新しい言葉」を探すのはとても困難である。 以前このブログで紹介した『「昭和」をつくった男』は、昭和期の右翼を、「新しい言葉」を提唱した男たち=「新体制構築派」と、「古い言葉」を破壊したものの「新しい言葉」は発見できなかった男たち=「現状破壊派」に分けて見ていくという本だった。その分類でみると、『Op.ローズダスト』のテロリストたちは「現状破壊派」ということになる。次の小説の主人公達には新体制を構築してもらいたいものだ。 福井晴敏はいまも雑誌などで外交や政治問題についてコメントしたり対談したりしているが、福井晴敏独自の「新しい言葉」がもっと明確になれば、いま以上にコメントを求められること機会が増えるだろう。 最後になったが、爆発のシーンはこれまでの作品の中で一番凄かっただろう。これまでは沖縄の米軍基地しかり、イージス艦しかり、潜水艦然り、これまでの作品では爆発するのは特殊な場所に限られていた。しかし、今回は東京のど真ん中で何度も何度も爆発する。クライマックスでは、特殊な爆弾による波状攻撃でお台場が液状化をおこし沈み始める。有明清掃工場とダクトを使ったトリックは、かなり斬新でスリリングだった。 オウム真理教の地下鉄サリン事件を意識したテロ事件や9.11のテロについて何度も言及されている。我々はこれらのテロに、「小説や映画を越えた現実のテロ」の恐ろしさを見せ付けられてしまった。それゆえ21世紀を生きる我々を唸らせる小説には、9.11などの現実のテロを上回る規模と破壊力を持つ必要がある。かつ、あまりに大袈裟すぎても荒唐無稽なギャグになりかねないので、現実問題として認識できる範囲に収めなければならない。 この作品のテロシーンは、派手でありながらリアルに克明に描かれており、読者の期待にしっかり応えてくれている。爆発シーンに関しては、本作品が福井晴敏の作品の中で最高傑作だろう。まさに、自称「爆発小説作家」の面目躍如といった作品である。 |一覧| |
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