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カテゴリ:政治
「国際関係論」は、学問として成立しているのか。 なんとなく、一読後、そんな疑念がぬぐえませんでした。 専門家。評論家。チンピラ・ジャーナリスト。市井の民。 外交を語る人は、いたって多い。たいてい、メディアで報道された事実から議論を披露します。 交渉事のシグナルは、たとえメディアに躍ろうと、関係者からのリークであろうと、自分に少しでも有利になるように、相手をコントロールするために発するものでしょう。発さないことも、そのコントロール方法のひとつ。外交史料館にいって、史料を読んで、文書とシグナルの違いを確認してみればいい。コメントを求められたならともかく、シグナルにわざわざ私見を披露する輩の神経を疑います。自分は、外交を知りません、とわざわざ言っているようにしかみえない。 この書は、さすがにそんなレベルからは一線を画しています。 ミドルパワー外交として、日本外交の選択を整理・合理化。これからも日本外交は、その先に展開されるべきではないか、という意欲的な提言がおこなわれます。日本は、グレートパワー(大国)を指向する戦前の外交観と、9条にみられる平和主義外交観、2つの政治勢力とそのアイデンティティーによって、引き裂かれ続けてきました。2つの分裂する自画像は、国内のみならず、国外に誤解させ、日本外交の足枷になりつづけたという。 ニクソン「米中和解」のような、大国間勢力均衡外交という伝統的権力政治の枠内に中ソをとらえ、戦略的なスイング・ポジションを取ろうとする試みなど、日本外交の選択肢にはない。左右のナショナリズムは、「9条と安保」という捩れを「従属」として攻撃したものの、そのたびに伝統的防衛観と単独外交を放棄する、吉田ドクトリンに回帰せざるをえなかった。岸の安保条約改定、佐藤の核武装構想しかり。村山内閣しかり。 現在も、その延長にあるのだと、筆者はいう。中曽根外交は、吉田ドクトリンの先に「対等な日米関係」をおくにすぎない。ガイドラインも防衛大綱も、吉田路線の捩れに由来する「日米安保の脆弱さ」への危機意識からきた、日米双方の再定義であるという。その隙間において、池田内閣の頃から展開された、大国間外交とは違った、経済協力を柱とする多彩な国際協調外交の数々。福田ドクトリン、人間の安全保障、国連PKO。これをミドルパワー外交として押し出す筆者。さらに、「自由と民主主義」に立脚した日・韓・ASEAN・オーストラリア「ミドルパワー」諸国との提携をおこない、等身大の実像を世界につたえ、「東アジア共同体」論にものぞむべきだ、とむすばれています。総じて、重厚なまとめとなっていて、適切そのものといえるでしょう。 ただ、「ミドルパワー」と「大国」の違いが、最後までさっぱり分かりません。 それは、「核兵器」「国家意思」と密接に絡むらしい。 国連常任理事国入りは、仏英をめざす姿勢としています。 たぶん、仏英はミドルパワーなのでしょう。ロシアと中国は大国みたい。 インドとブラジルは大国か?否か? たとえ、ミドルと大国の区別はつけたとしても、そもそも「国際協力=ミドルパワー」外交と「単独=大国外交」の区別はつくのでしょうか。現在中国の多国間協調外交も、大国外交なの? あまり意味がある概念とはおもえません。ミドルパワー外交も大国外交も、それぞれ「連続」してはいても、「対立」する概念ではないのではないか。意義の一つは、大国外交への欲望からくる、保守の「逆噴射改憲」をふせぐことにあるらしい。こんな定義で、欲望を断念する人はいるのでしょうか。おまけに、国防や安全保障に特化しない外交は、戦後60年、とくに経済の分野で盛んにやられているのに、何ひとつ触れられていない。これほど、ミドルパワー外交の現場に立たない、「ミドルパワー外交」論というのも、珍しいのではないか。 冒頭の深刻な疑念がよぎるとはいえ、一読に値する内容でしょう。とくに戦後平和主義勢力を自任される方々にはお奨めしたい。「非武装中立」という自主も、「世界民生大国」という護憲理念も、この先に再建するしかないのだから。 評価 ★★☆ 価格: ¥756 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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