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テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:哲学・思想・文学・科学
ナチスは、精神分析を弾圧したことで知られる。 たしかに、その気持ち、分からないことはない。これは、たんなるナショナリズム分析ではない。世界と自分の問い直し=「反省」の形式から、戦後精神史を切りとろうとする、極めて刺激的な問題提起になっています。この切れ味は、たしかに凄い。 「嗤うナショナリスト」「感動をもとめる皮肉屋」「実存を求めるリアリスト」という姿。本来ならありえないこの矛盾は、どのように縫合されているのか。そこに筆者は、「再帰的近代」における、歴史的な「アイロニー」そのものの形態変化、構造変化をみようとします。 本書の議論を簡単にまとめておきたい。 1960年代、全共闘の鬼子、連合赤軍。 思想を奉じるインテリその人は、解放される側、プロレタリアートではない。その矛盾から生まれる「自己否定」は、その極北としての「総括」を産みおとしてしまう。そのキーは、「形式」=身体規律の前景化をもたらす「共産主義化論」にあったらしい。歴史法則主義とシニシズムに抗うはずの主体性論は、ここに変容してしまう。個人は、主体たれと不断に命じる主体主義に応答の責務をおい、容易に主体性を獲得できない。反省の準拠枠は不可視化され、不可能な「反省の連続」自体が思想となる。森恒夫・永田洋子は、不可能な地点=「死」を生きる究極の主体=ゾンビとして召喚された。ウーマン・リブとは、新左翼と「反省」の暴力性への絶望と、自己否定すべきものをもたぬ「女性であることの肯定」から立ちあがった、ラディカルな思想実践であったという。 70年代、「反省しない」反省様式、 「抵抗としての無反省」=消費社会的アイロニズムがせりだしてくる。 またの名は、「コピーライターの思想」という。 世界と自己のポジションが、何らかの「本質」で固定化させられる「暴力」に抗い、世界を記号の集積体として相対化する戦略。記号システムを相対化する動きは、記号の外部=身体に着目するものと、パロディという方法論に分岐してゆく。こうしたアイロニーは、リテラシーをもつ受け手を前提にするので、エリート主義的差異化による、タコツボ的な共同体の乱立にならざるをえない。左翼論理で捉えられないリアルを捉えるため、はたまた左翼的感覚の延命のための方法論は、「新人類」の過剰なメタ競争と、「オタク」にみられる共同体主義指向を準備する。 抵抗的無反省が解除された、80年代における消費社会的シニシズム。 そこでは、もはや啓蒙の言説は失効している。抵抗の対象の存在が否認され、主体であることはやりすごされる。「送り手」ではない、「受け手」主導の消費社会。つねに対象を「嗤う」=アイロニカルであることが命令され、「差異化のパラノイア」共同体が、マスメディアによって制度化されてゆく。無反省と形式的アイロニーの前面化は、その形式性ゆえに、ベタとかぎりなく近接してしまう。弁証法的歴史を駆動させた「人間」の条件――所与の環境を否定すること――は消え、物質的条件に安住する「動物」、形式的否定の洗練という日本的な「スノッブ」が形成されてゆく。 90年代以降のロマン主義的シニシズム。 80年代に前景化した「純粋テレビ」文化は、「笑い」からその場を移し、内輪空間へのコミット(愛)と、メディアへのシニシズム、すなわち「愛ゆえのシニシズム」を準備して、外部を疎外する「感動の全体主義」の外観をしめすようになる。社会における「目的合理性」「秩序の社会性」から「接続合理性」「繋がりの社会性」への転換とともに、「純粋テレビ」文化は、マスコミと視聴者の共犯関係から離脱した「2ちゃんねる」をみずからの延長線に生みおとす。自己目的化によって批判性を摩滅させた「形式主義」アイロニーの先に、ナイーブなまでの政治的ロマン主義――社会を超越的に捉えることを拒否し、偶然性・無根拠性を自覚する――が回帰する… それは反思想的思想、「思想なき思想」であり、形式化の極限にゾンビを産んだ【連合赤軍の再現前】である。「ナショナリズム」「反市民主義」は、アイロニカルの正当性が他者との接続可能性によってしか担保されないことからくる、接続ツールにすぎない。それは、ナショナリズムからアウラを奪う、不遜な実存主義なのだ… 「複雑な現象」にシニフィアンをあたえてゆくことの面白さ。 この紹介でどれだけ読者に伝わったか、いささか心もとないものがあります。つねにネットで、マスコミや政府を「ツッコミ」してきたプチ・ナショナリストたちが、どのように「ツッコミ」をいれられているのか。ぜひ、書店や図書館でお求めになって、その抜群の鋭さを確認してほしい。われわれは、「反省の終焉」=「歴史の終わり」のさらなる終焉をまえにして、いかにふるまうべきなのか。どこまでも、この書は刺激的な提起に満ちているといえるでしょう。 ただ、いくぶん不満がのこるのもたしかです。検討対象は、連合赤軍、糸井重里、田中康夫、フジテレビ、ナンシー関、2ちゃんねる。一見、そのスタイルは、つまみ食いにしか見えず、いささかもの足りない。それは、この30年間、それぞれの時代の「文化論」を論じた著作を通して、「反省」史を復元しようとする、手法の限界からくるものといえるものでしょう。この辺、宮台真司『サブカルチャー神話解体』のような、特定のジャンルを深く追跡したわけではないことが、惜しまれてなりません。 ほかにも、大メディアや2ちゃんねるは、他のメディアや、友人や教師、同僚らと比較して、情報判断・価値判断において、どれくらいウェートをしめているのかも、まったく分かりません。こうした様々な検証や反証は、モデルの精緻化の手助けにもなるでしょう。これからの個別研究が大いに期待されるところではないでしょうか。 むしろ評者は、ヘーゲル=コジェーヴ(by 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書)という問題系への対応に、筆者のとまどいを感じます。その問題系では、行論の都合上、スノッブ=「形式主義の洗練」という外傷が執拗に日本に回帰することは、避けようがありません。その「日本=スノッブ」の一般化を防ぐため、コジェーヴの「スノッブ」「動物」に関する議論を脱臼させるため、筆者は執拗な知的作業をおこなうのです。そこに評者は、たいへん微笑ましいものを感じてしまった。「性急な歴史主義」に陥って、日本に通底する通奏低音をとらえ損なっているのではないか。「形式」にとらわれることこそ、実は「自由」の条件のひとつではないのか。2つの「形式」主義のハザマ、あの繁栄に踊った70~80年代。その「特権的な位置」を語りがちな、ジャーナリズムなどの退嬰した議論を斥け、あくまでコジェーヴに依拠しながら、なおも歴史の展開過程として捉えることを捨てようとしない。 やや、甘い評価かもしれませんが、お勧めの一冊ではあります。 評価 ★★★★ 価格: ¥840 (税込) 人気ランキング順位 追伸 宮台真司『サブカルチャー神話解体』(PARCO出版 1993年)は、戦後におけるサブカルチャー追跡をおこなった、たいへん面白い研究書です。ところが、なぜか、あんまり高い評価はなされておりません。(のように見える) 『権力の予期理論』ばかり話題にのぼるのは何故なのでしょう… 評価 ★★★★ 価格: ¥2,548 (税込) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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