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カテゴリ:社会
いやあ、これは素晴らしい。 戦後の遺族運動がなぜあのような―――戦争責任に向かい合うことなく、靖国神社国家護持や恩給増額を声高に叫ぶ―――かたちをとってしまったのか(本書4頁) このような刺激的な問いをたてて、遺族たちの心情とその生活―――「銃後の社会」―――にせまる本書は、なかなかの出来映えを示しているといえるでしょう。やや高いものの、お勧めの一冊になっているのです。 簡単に要約しておきましょう。 ● 終戦間際まで続いていた、盛大な「赤紙の祭り」 最寄りの交通機関や駅での盛大な「見送り」や「壮行会」は、見送る側・見送られる側にとって相当な経済負担だった。そのため軍部は、自粛させようとしたものの、「士気」を維持するためにも認めざるを得なかったらしい。家族との面会は許されていたものの、軍は「情報漏れ」「スパイ」活動を気にして厳しい制限を加え(出征先の情報は家族を通じて、周囲に漏れまくっていたらしい)、別れを告げられないまま、南方へ出征して戦死したものが多かったという。 ● あくまで前線兵士の士気維持のためにおこなわれていた遺族政策 死ぬまではいい。ところが、いったん死んでしまうと、地域社会の出征家族を見る目は、急に冷たくなってしまう。夫や息子の死を受け入れる過程で、「見返り」をもとめる意識は強かった。太平洋戦争時、国民が黙っていないという理由で中国撤兵を拒否したのは、故のないことではないという。実際、「軍事扶助」は厚かったものの、働き手を失った家族が暮らしていけるレベルではなかった。また、戦前に生活扶助を受けることは、「選挙権」をとりあげられたりする「恥辱」に等しい意識もあって、<当然の権利>と<恥辱>の狭間にあって、貧窮に苦しんだものも多かったという。また遺族婦人の「性」を管理するため、方面委員(今の民生委員)が派遣されていたものの、戦死した夫の恩給を家長に横どりされたりしたケースもあったらしい。 ● 「名誉の遺族」という名の監視体制 ● 前線兵士向けに量産された、恵まれぬ遺児達が厚遇をうけたという美談 遺族にプライドをもたせるとともに、国への「権利意識」「特権意識」に転嫁させてはならない。「あるべき遺族」として国民を飼い慣らすため、政府は皇族・侍従を遺族視察のため各地に訪問させ、「聖恩」のありがたさを知らしめるとともに、遺族の不満を吸い上げていったという。そのハイライトは、天皇制を内面化させてゆく教育装置としての、遺児たちの靖国参拝。遺児たちの書き残した作文で浮きあがってくる「靖国での父との再会」は、不気味なまでの迫力に満ち満ちています。「靖国での父との再会」に喜ぶ遺児たちに注がれていた、「父なし子」という偏見―――戦死した父の名誉をつぐべきにもかかわらず、父親がいないので人の道を踏み外すおそれがある、だから監視しなければならない―――は、戦後、就職差別という形であらわれたという。 ● 銃後社会全体が遺族の栄誉を称揚していた、 <奪われた過去>を取り戻す“正しい”運動としての遺族運動 戦後、周囲の遺族に対する嫉妬・好奇の眼差しは、厳しかったという。生活保護は屈辱をあたえ、軍人恩給をもらうことにさえ、風あたりは強かった。そのため遺族は、肉親の死を「平和日本建設の<礎>」として正当化することになって、なぜ遺族が英霊なのか―――不正義の侵略戦争ではないのか?―――という観点は後退してしまったという。次代の兵士を動員させる必要がなくなると、「肉親が死んだ場所」「最後の様子」「遺骨」を伝える<戦死の体系>は崩壊した。死ぬ場所も教えられず、「空の遺骨」を渡される、そんなぞんざいな扱いを受けた遺族たちの怒り。肉親の死が信じられず、はてしなき「遺骨収集の旅」をおこなう姿は、涙なしには読めません。 豆知識もなかなか。戦時中、政府は遺族会結成を阻止しようとしていたという。また、召集令状は葉書でくることはないのに、「一銭五厘の葉書で…」と言われているのは、「戦死第一報」の通知が葉書でくることと混同されたのではないか?という指摘も面白い。 国家社会の恩恵が不当にも奪われ、戦争犯罪人のように扱われたことへの怒りにつき動かされた、戦後の遺族運動。「戦争責任」論者は、遺族運動を批判することで、彼らに「戦争責任」をおしつけて「事たれり」としてきたのではないか?という批判は、鋭いものがあります。激励した社会の責任は、どうなるのか? いくら愛国心を内面化しても、結局、戦時中でさえ国は決して応えてくれているとはいえないことを語り、警鐘を鳴らす筆者の姿勢には、とても好感がもてるものがあります。 とはいえ、本当の問題は、その先にあるのではないか。国家に裏切られるか否かが、問題なのか?。ナショナリズムのかかえる問題は、国家は期待に応えてくれるはずだ、応えなければならない、と「あえて騙されてみる」次元にこそ、核心があることを見落としているのではないか。国家は、戦前戦後を通して「慈愛に満ちた眼差し」で包摂することに成功してきたという。しかし、ナショナリズムとは、古今東西、制度面における生の包摂を期待して唱えられたことがあっただろうか?。 その意味では、本書の内容がナショナリストたちにどこまで伝わるのか、いささか心許ないように思えるものの、一読の価値のある素晴らしい書物であることは疑いありません。冬の寒い日のお供に、ぜひご覧になってみてはいかがでしょうか。 評価 ★★★☆ 価格: ¥1,785 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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