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ouioiuの日記 [全9件]
・九死に一生を得た兵士はこう告白した。 「肉体は助かったが、オレの魂は永遠に救われない」と 猿回しの猿が、エイヤエイヤのかけ声につれて、なかなか上手に芝居する。 感動した観客が、思わず知らずミカンを投げた。 ところが大変サルたちは、教え込まれたことなど吹きとんで、われ先にミカンに殺到。取り合い噛み合い、芝居が台無しになったという。 名誉欲も利益欲も「自分さえよければ」の利己心である。 名聞利養のミカンが投げ込まれると、“知った、覚えた、分かった”の倫理も教養も吹きとんで、むき出しになるのは本性だ。 合点のコップの水くらいでは、名利の猛火は消されない。 太平洋戦争末期、護衛なき航海を余儀なくされた日本の輸送船が、 魚雷攻撃で撃沈された時それはおきたという。 大海に放り出された何千もの兵士たちが、わずかの救命ボートめがけて殺到する。 ボートはもう限界だった。一人でも収容すれば沈没する。 だが救助を求める必死の手が、まわり中にかかってくる。 その手をボートの兵士たちが、銃剣かざし片っ端から斬り落とす。 手首を斬られた兵士たちは、かつての戦友をにらみつけ、鮮血の海に消えたという。 「肉体は助かったが、オレの魂は永遠に救われない」 九死に一生を得て帰還した、兵士の告白である。 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の小説は、 我利我利亡者の本性を、まざまざと浮き彫りにする。 「他人はどうなってもよい、わが身さえ助かれば、というカンダタの無慈悲な心が、 またしても地獄へ堕としたか、助ける縁のない奴よ……」 釈尊の、深いため息が伝わってくるようだ。 助ける縁のない奴とサジを投げられたのは、カンダタだけのことではなかろう。 カンダタは確実に、私たちの心の奥に棲みついている。
黄金の雨がふっても満足できない 大会社の部長を務める長男と、同居する八十すぎの男性がいる。 近ごろ体調をこわし精密検査の結果、肝臓ガンと診断された。 どうせ長い命はなかろうと、手術を勧め入院させた長男は、 同時に死亡通知先の名簿をととのえる。 息子が息子なら嫁も嫁、義父の定期預金を無断解約し、 入院手術の経費にあてる始末。ところが術後の経過は良好で無事退院。 息子も嫁も“案外じゃったのう”のガッカリ顔には、微塵の罪悪感も見当たらない。 親よりも金が大事な、利益欲の非情さであろう。 まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、 わが身には一つも、相添うことあるべからず。されば、死出の山路の末・三塗の大河をば、ただ一人こそ行きなんずれ(『御文章』) 「かねてから頼りにし、力にしている妻子や財宝も、死んでゆくときには、何ひとつ頼りにならぬ。みんな剥ぎ取られて、一人でこの世を去らねばならない」 長く生きても百年足らず、死んでゆくときは何も持ってゆけない。蓮如上人の教訓に、反論の余地はさらさらないのだが、ほしい、ほしい、もっと欲しいの利益欲からは離れ切れない。黄金の雨がふっても満足できぬ強欲だけが、よく見える。 「不幸のほとんどは、金でかたづけられる」と言ってのけた菊池寛(近代の作家)の信者は、昔も今も多数をしめる。金のためならなんでもする、金色夜叉の百鬼夜行だ。 平成十二年七月、奈良市の四十三歳の看護婦が、腹を痛めた十五歳の長女に毒茶を飲ませ、殺害しようとした疑いで逮捕された。長女には三千万円の保険金がかけられていた。この白衣の母親は、三年前にも、当時十五歳の長男と九歳の次女を同じ手口で殺し、二千万円の保険金を受け取っていた容疑もかけられているという。 ノミはノミの糞をし、象は象の糞をする。どれだけの高位高官、大臣、総理経験者までが、ワイロで獄舎につながれ、恥辱の一生で終わったことか。営々と築き上げてきたものが、利益欲の大山に押しつぶされ、悲嘆に暮れる人がなんと多いことだろう。 己を映す鏡に、事欠かない。 他人の利益にはブタのように鈍感だが、自分に損得がからんでくると、とたんに全神経を逆立たせる。己の欲をさまたげる者は肉親であれ恩人であれ、恥も外聞もなく押し倒し突き殺す、無慈悲な魔の手はのびてゆく。 こんな教訓的な話がある。 三人の泥棒が大金を盗んで山頂まで逃げる。山分けしようとしたとき、 一人が欲をおこす。 「腹ごしらえしてからにしようじゃないか。オレは食べ物をさがしてくるからな」 と町へでかけた。空腹にあえいでいた二人に異論はない。町へ行って満腹した泥棒は、残りのまんじゅうに毒薬を注入。我欲のためには仲間も殺す魂胆だ。 山に残った二人も悪相談ができていた。 「アイツをかたづけて、二分しよう」 町から帰った泥棒は、 「オレは、食べてきたよ」 と毒まんじゅうをそこに置き、崖の上から気持ちよさそうに放尿しはじめた。チャンスとばかりに二人の泥棒は、足音しのばせ近づき谷底へと突き落とす。 「これで安心、食べてから分けよう」 二人は枕を並べてあの世ゆきだ。山頂に残ったのは盗んだ大金だけだったという。 「おちてゆく 奈落の底を のぞき見ん いかほど深き 欲の穴ぞと」 名声がほしい、財宝がほしい、あれもこれも、もっともっと……。きりのない名誉と利益を求めて苦しみ、すべてを置いてこの世を去る。人間の愚かな末路を象徴する話のように思われる。
・「ウソくらべ 死にたがる婆 とめる嫁」 遺伝子の構造を解明して、ノーベル賞を受けたワトソンは、その著『二重らせん』で、 周囲をあざむき情報を盗み見たり、ライバルには成果を隠したりした姑息な手段を、生々しく自白した。 「鳴かず飛ばずの大学教授で終わるより、有名になった自分を想像したほうが、楽しいに決まっている」と語るワトソンは、 決して自分の言動は風変わりなものではないだろう、と書いている。 近代科学の創始者ニュートンは「微分積分学」発見の功名争いで、ライプニッツと長期間、醜い暗闘にしのぎを削った。 清潔なイメージの科学の世界でも、名誉欲が渦巻いている。 この大山に押しつぶされて、無惨に果てる人がいかに多いか。 二十世紀最後の十一月。別の遺跡から出た石器を自分で埋めて、 「六十万年前の石器発見」と事実を捏造していた遺跡調査団長が発覚。十年来の考古学研究がゆらいでいるというのだ。 次々と「日本最古」をぬりかえる成果を発表、「神の手」などと呼ばれて脚光を浴びていた人物だったという。 かっこよく最期を飾ろうとする死の美学といわれるものも、名誉欲の演出にほかならない。 かりそめのやすらぎを守るために、どれだけ自分をあざむき、他人をだまし通していることか。 他人のことは、ほめているようでバカにし、自分のことは、卑下しているようで上げている。 「ウソくらべ 死にたがる婆 とめる嫁」といわれるように、よく見られるためには平然とウソを言い、言葉を飾り善人をよそおう。 姑には、サラサラ死ぬ気はないのだが、嫁の態度が気に入らないので、おどすつもりで「死にたい」と言う。嫁も嫁でしたたかだ。 “いい加減に……”と心で殺しておきながら、孝行嫁を演じてみせる。 「お母さんはこの家の柱です。いつまでも元気でいてくださらないと困ります」 ともに真っ赤なウソなのだが、さて、どちらが本当らしく聞こえるか、と皮肉ったものだろう。 心と口とは、おのおの異なり、 言っていることと、念っていることに、まことがない(『大無量寿経』) 仏教のお経は数多いが 真実を説かれたのは大無量寿経だけである。 人間のうそ偽りの虚仮不実を、すっぱ抜かれた釈尊の言葉である。 つまらぬ人のつまらぬ讃辞にも舞い上がるが、 子供にバカにされても気が沈む。名誉欲の奴隷の悲しさを、つくづく思い知らされる。
宮本武蔵の父・無二斎は、武蔵の技量をねたんで、つけねらったといわれるが、 名誉欲は、親子の間でも火花を散らす。友人、師弟ならばなおさらだろう。 学校でのいじめは、優るをねたむ心からおこっているケースも多い。 成績のよい子、かわいい子が、「ムカツク」ターゲットにされるという。 高校時代、英語の得意な親友がいて、文系の彼に、理系の私はどうしても勝てない。 それが一回だけあったのだ。彼が急性肺炎でテストを受けられなかったときである。 普段は笑いながらワイワイやっていた仲なのに、彼の病気をよろこぶとは、 思い出すと心が痛む。友人の名声をねたみ、親友を裏切って平気な心。 それでいて信頼されたい一杯。どこどこまでも図々しい。 ノーベル文学賞に輝いたB・ラッセルが数学を教えていたとき、 後にハイデガーと並んで二十世紀最大の哲学者とよばれる、 ウィトゲンシュタインが受講をはじめた。 それからわずか一、二年のうちにラッセルは、彼から鋭い批判を浴びせられるようになった。 教え子からの屈辱は、よほど耐えがたかったのだろう。 ラッセルはそれから、ウィトゲンシュタインを口汚くののしり、著作の一部から彼の名前を削除したと言われる。 ライバルは、自己をみがいてくれる恩人なのに、憎んで傷つけ、引きずりおろそうとするのも、名誉欲の仕業だろう。
「邪魔者は消せ」心底にうごめく“名利の冷血獣” 若さの美貌に命をかける、美容整形に大金を投じる女性は、 無人島にいたら、どんなに気楽なことだろうに 悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して(『教行信証』) 「愛欲の広海」につづき、「名利の大山」に迷うとは、どんなことであろうか。 「名」とは名誉欲のこと。よく思われたい、有能だ、カッコいい、かわいい、綺麗な人だとほめられたい。嫌われたくない、悪口言われるとおもしろくない心だ。 「利」は利益欲で、一円でもたくさんお金や物が欲しい心である。 「大きな山ほどの名利の欲望に、朝から晩までふりまわれて、感謝もなければ懺悔もない。なんと情けない親鸞だなぁ」 まことに悲痛な懺悔である。 人間を根本的に動かしているのは、 「優越を求める心」だとアドラー(個人心理学の祖)は言う。 生まれつき、優った人間になりたいと思っている。 周囲も、他人に勝つとほめるが、負けると見くだす。 生存競争の激しい今日は、学歴競争、出世競争はエスカレートするばかり。 「お受験」ブームで、勝ち負けの世界は幼稚園にまで入り込むようになった。 なんとか上に立って威張りたい、見おろされたくないと汲々とする。 財力を誇り、知力、腕力を見せつける。自分に優れたものがなければ、 お国自慢や子供自慢まで始める。前科の回数ですら刑務所内では優越意識の材料になるという。 いかに名誉欲に迷惑しているか。少し古いがテレビが普及し始めたころ。 ある団地で、アンテナが立っていたので、集金に行ってみるとテレビがない。 事情を聞くと、“隣近所はみな持っているが、家では買えない。 偽装せずにおれなかった”と打ちあけたという。見下げられたくない苦労である。 女性は、若さと美貌に命をかける。綺麗になるためになら、危険を冒し、苦痛にも耐える。 美容整形に大金を投じても、少しも惜しくはないようだ。無人島にいたらどんなに気楽なことだろうに。 仏教には人間の本性が映し出されている
「昨晩、神サマが私の床に入ってこられたので、 思わず頭をなぐったが、罰が当たったらどうしよう」 本居宣長は晩年、生き神サマと尊敬されたそうだが、 使われていた女性が書生に、「家の先生は、本当に神サマですか」と 真剣な面持ちでたずねるので、「みんなが言っているのだから、間違いないよ」と 答えると、とたんに泣きだした。 驚いて理由をたずねると、「昨晩、神サマが私の床に入ってこられたので、 思わず頭をなぐったが、罰が当たったらどうしよう」と言ったという話を読んで、 身の縮まる思いがした。 「理性」と聞けば、近代哲学の父・デカルトが思い浮かぶが、 彼もお手伝いの女性に子供を産ませ、未婚の母にしている。 泳ぎ切れない愛欲の広海に溺れているのは、私たちの実相ではなかろうか。 仏教の真髄を明らかにされた親鸞聖人はおっしゃる 無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峯岳山にことならず(『正像末和讃』) (ここで「無明」といわれているのは、阿弥陀仏の救いに遇ったときに、なくなる無明の 闇ではなく、欲や怒りの煩悩のことである) 「体一杯、欲や怒りの毒炎を吹いている親鸞。自分にしたがう者は愛して近づけるが、 反する者は憎んで遠ざける。そんな心は高く大きく、高峯岳山と変わらない」 煩悩の強さ、罪障の重さを見きわめられた深刻な自覚であり、懺悔である。愛欲の広海に沈没しているのは、聖人だけではなかろう。
あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、 卑猥な行為を思いのままにしている。 我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって煩悶の絶えたことなく、 愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない 地獄は 死んだら の話ではない 仏教に説かれている刀葉林地獄といわれるものは、 人間のこの愛欲の広海を描かれたものであろう。 この地獄へ堕ちた男がふと見ると、天を摩すような大樹がある。 葉は刃のごとく鋭く、焔を吹いている。 樹上には好みの女が、満面媚を浮かべて、自分を招いているではないか。 罪人のかつての恋人である。男は恋しさのあまり、居ても立ってもおれず、 前後を忘れて木に登ってゆく。 すると刀葉が降ってきて、男の肉を割き、骨を刺し、全身血だるまになるが、 愛欲はいっそう激しさを増す。 ヤットの思いで近づいて、満身の力で抱こうとすると、女は忽然と消えうせて、 今度は樹の下から声がする。 「あなたを慕うてここまできたわ。なぜ早く来て抱いてくださらないの」 とやさしく誘う。 たかが一人の女のために、火を吐く思いで登ってきた純情さが、いじらしく泣けてくるが、愛恋の情はますます燃えさかり、機を下りようとすると、地上に落下した刀葉が、今度は逆に、上に向かって焔を吐き、寸々分々に肉を徹し、骨を削る。言語に絶する苦痛である。 ようやく地上に下りると、恋人の姿はそこにはなく、 樹上からまた身悶えしながら彼をよぶ。愛欲の広海は果てしなく、限りなく登り下りをくり返し、苦しみつづける地獄であると説かれている。 別れては恋しく、会えば敵同士となって傷つけあう。満たされなければ渇き、 満たせば二倍の度を増して渇く。愛欲の実態をあらわして余すところがない。 |一覧|Recommend Item |
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