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文豪匠の日記 [全1424件]
11 久しぶりに佐久の兆輔が訪ねて来た。今日は見知らぬ男を連れて来た。その男は俺を見るなり土下座をする。そして「是非弟子にして下さい」と依頼する。 「俺はまだ弟子を取るような身分じゃないよ」と俺は拒否する。こういうことははっきりと拒否しておかないといけない。 「いえいえ、そんなことはないです」と男はあくまでも土下座を崩さない。 「先生のお仲間に入るには名前を自分でつけなければならないと聞きましたが」 「そんなの別につけなくてもいいよ」と俺は冷たく言い放つ。 「ぼく、つけて来たのです。聞いていただけないでしょうか?」 「聞くだけなら聞いてもいいが」と俺は少し折れる。 「はい、それでは発表いたします。ぼくの通り名は『富の市』です」 「何だね、それは?」 「財産の富に、市場の市です」 「ほう、きみは金持ちになりたいのかね? 金持ちになりたいのなら、もっといい商売があるだろう」 「いえ、金持ちになりたい訳じゃないのです。名前がよくなかったですか? もっといい名前を考えましょう。う~ん」
俺は新たに小説に挑んでいる。クラクラクラとめまいがする。小説を書く時はよくそんな頭になる。そして知らぬ間に小説は始まり、知らぬ間に終わる。 俺は本当に小説を必要とする人間なのだ。たとえ下手だと言われてもいい。一生こうして小説を書き続けたい。小説が書けなくなる時が俺の死ぬ時だ。 森が出て来る。鳥が飛ぶ。蛇が這い回ってリスが跳ねる。俺の目の前にあるのはめくるめく楽しい世界だ。俺はその世界にどっぷりと浸かる。 俺は飛ぶ、飛ぶ、空を飛ぶ。パソコンのキーを叩きながら空を飛ぶ。 俺はもう万能だ。誰も俺の邪魔は出来ない。俺の目の前には長くて幅の広い道がある。そしてその道は全て俺のものなのだ。 そんな具合に楽しく小説を書いているうちに眠くなって来た。小説を書く快感が睡眠欲を掻き立てたのだ。 パソコンを終了させて俺はその場に横になる。そして楽しい夢を見る。夢の中でも俺は空を飛んでいる。 美奈代の映像が頭いっぱいに浮かぶ。俺にもやっと運が向いて来た。長い苦しい道のりだった。俺もやっと一人前になった。もっと頑張ろう。そうして盤石な地位を築こう。そう思いながら俺は大きな声で寝言を言って、それに驚いて目が覚めた。
最初に出した毛仙先生の本は順調に売れている。かなりの印税収入が見込まれる。 有名とお金、それは切っても切れない関係だ。俺は今、有名になることを拒否してお金持ちになることを望んでいるが、実はそれは無理な話なのだ。 最初からそのことは分かっていた。物書きは有名にならないと、金が儲からない。俺は矛盾したことを望んでいた。有名にならずに金持ちになるという物書きを。 何事も中間が一番いい。ところがその中間の地位にいつまでも居続けるのは思いの外難しいのだ。 『何の変哲もない』を維持すること。それはある意味で達人技かも知れない。俺はその達人技に挑もうとしている。『何の変哲もない』になってそれを維持する。男一生の仕事としてはやりがいのある仕事だ。 俺はテーブルに向かってノートパソコンのスイッチを入れる。機械音がする。俺のどこかでその機械音に反応するものがある。「よし、やるぞ」と何かが叫んでいる。
「俺は人から好かれもしないし嫌われもしない。まさしく何の変哲もない人間だな」と言って俺は笑う。 美術館を出て一緒に食事をして、また今度と言って別れる。そして俺は今自分の部屋に帰っている。そしてテーブルの上に乗っている何の変哲もないマグカップを眺めている。 俺は小さい時からよく人に「お前は変わってるなあ」と言われた。俺には自覚症状はなかった。俺は他の人と同じように生きているだけだった。 なのに俺は「変わってる」と言われ続けて来た。気をつけないといけない。しまいに俺は人間の世界から追放されるかも知れない。 出る杭は打たれるという言葉がある。「変わってる」という評価は「お前は出る杭だぞ」と言われているようなものだ。 俺もテレビに出てしばらく有名になったが、もう有名にはなりたくない。有名になるよりお金が欲しい。美奈代とともに暮らせるだけのお金が欲しい。 今度毛仙先生の本を出す時には、俺の名は伏せてもらおう。そして原稿料をたくさん貰おう。
10 俺は美奈代と美術館に行った。全然有名じゃない画家の絵がたくさん飾ってある。まさしく何の変哲もない美術館だ。 これから『何の変哲もない』を名乗るのには相応しい場所だと考えた。 しかし美奈代という女性は、何の変哲もない女性ではない。立派な女性だ。さすが毛仙先生の娘だけはある。 人間というのは、しゃべっている言葉そのもので人を判断しているのではないらしい。もっと雰囲気的なもので人を判断しているのだ。だから何故かいつも正しいことばかり言うのに嫌われる人とか、特別何もしていないのに妙に人に好かれる人というのが現われる。 美奈代は明らかに後者だ。 そのことを美奈代に言うと「そうでもないのよ」と釘を刺されてしまった。「わたしのことを憎む人も結構いるみたいよ」 俺はただ「へえ~」と感心する外ない。美奈代のように何でも兼ね備えているような人は、逆に人から憎まれる。ありそうなことだと思った。
「お前に収入がないとわしが困る。娘の美奈代はお前のことが好きみたいだからな」 「俺だって好きですよ。だからしがないのはしがないけれど、一生懸命稼いで行きます。それに毛仙先生の人生のことなら、まだ書くことはたくさんあるでしょう? 俺は先生の全てを書きますよ。その意欲があります」 「小説はお書きにならないんですか? わたし、あなたの書いた『エロスの神秘』を読んだんですけど、とても面白かったですわ。そういう能力も生かさないと勿体ないですわ」 「『エロスの神秘』! あれが面白かったですか。何ともお恥ずかしい限りです」 「自分の書いた作品を恥じる必要はありません。あなたが恥じる気持ちが全然分かりません。わたしは驚嘆したのですから」 「はあ、そうですか」とやっぱり俺はすっかり恥じ入ってしまう。『エロスの神秘』というのはとてもエッチな小説なのだ。男性に云々されるのは別に構わないが、女性が話題にするのは恥ずかしい。 「さて、中華料理でもとりましょうか?」と俺は強引に話題を変える。
「はい、そうです」と俺は答える。そしてさらにこう続ける。「俺はもう有名になりたいという夢を叶えたので、通り名を変えようと思っているのです。その通り名とは『何の変哲もない』です」 「おお、それは素晴らしい。何の変哲もないというのは、きみにぴったりの名前じゃないか」と毛仙が言うと、美奈代が、 「あなたはもうこれ以上有名になりたいとは思わないのですか?」と訊ねる。 「うん、もう思わない。これ以上有名になると、いつか後ろ指さされそうな気がするんだ。有名になるとはそういうことだろう? 喝采もされるけれど罵倒もされる。それも面と向かってだ。今のところそんな被害にはあってはいないが、いつかそういうことになると思うんだ。だから俺は名前を変えようと思う。『何の変哲もない』に」 「せっかく増えて来た収入が減るぞ~」と毛仙が脅かす。 「収入が減るのは仕方がないです。元のしがないフリーライターで食べて行きますよ」 |一覧| |