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超映画雑食主義!
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引越し

本ブログは、引越し致しました。


Last updated 2012.02.11 18:31:06
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2012.01.19

地球が静止する日
[ 映画 ]  

この映画のタイトルにかこつけたわけではないが、今日で楽天ブログの執筆を“静止”することにした。ブログの機能が徐々に削がれたことで、訪問者数が減った。もっともフリーのサービスなのだから文句は言えない。巡回ソフトのユーザーはメリットを見いださなくなり、儀礼訪問もなくなったので純然の読者数が分かった形になるが、そのありがたいユーザーの足跡も追えないので御礼のしようもない。この場を借りて、ご愛顧に感謝する。人間、やはりつましい喜びが継続を支えるものだ。少しずつでもブログを読んで頂ける方が増えてゆくのが楽しみだった。そこでさらなる可能性を考えて、移転を決意した。数日の猶予を頂き、どこかで再オープンしたい。450日以上毎日更新してきた。今後はスローダウンするかもしれないが、またどこかでお会いしたい。

 最近、リメイク映画が増えた。傾向自体は、何も今に始まったことではなく、昔の作品だがその精神が現在でも通用するプロットを持った作品が、現代の解釈によって新しい息吹を吹き込まれている例が多くなってきているように思う。とりわけSFの世界は、映像技術の進歩と相俟って1980年代を境に、取り巻く環境や様相が一変した。つまり、映画的イディオムから言えば、SFXやキャラクターのディテールに凝った「スター・ウォーズ」のような作品の登場が全てを象徴しているとも云えるし、世間でも実際にスペース・シャトルが地球-宇宙を行き来するようになって、今までは空想の領域を出なかった事象が、次々と現実味を増してきて、公開当時は衝撃的だった古典的名作も今では色褪せて見えてしまうことが当たり前になってきた。しかし、描いた内容は、リストアするとか、より現代風の解釈を施すことによって甦るような作風はいくらでもあるため、慢性的ネタ不足と相俟ってその流れが加速したと思われる。トム・クルーズ主演の「宇宙戦争」などがいい例だろう。本作は、名匠ロバート・クローズが1951年に製作した同名作品のリメイクである。前作はSF映画の金字塔と呼ばれているが、今回は新しい視点を加え、最新技術で古典を甦らせている。クラトゥ役のキアヌ・リーブスやヘレン役のジェニファー・コネリーらも、手堅く演技をまとめていて興味深く鑑賞できた。

 ある日、地球に巨大な謎の球体が接近していることをキャッチしたアメリカ合衆国政府は、国務長官を司令官に、あらゆる先鋭の科学者たちが急遽召集した。演算から割り出されたインパクト・ポイントは、マンハッタンのセントラルパーク。宇宙生物学者のヘレンもその一人だった。物体は、ゆっくりと地上に降り立ち、そこから降りた宇宙からの使者は自らをクラトゥと名乗った。数十年前に地球に飛来した際に採取したDNAで、外見は地球人そのものだ。狙撃隊が放った弾丸を被弾したクラトゥは、政府の極秘施設に送り込まれオペを受ける。回復後、要人たちはクラトゥへ質問が相次いだ。何のためにこの星を訪れたのか。攻撃し征服するためなのか。クラトゥに拠れば、「地球を救いに来た」という。しかし一方で、巨大な「ゴート」なる戦闘マシーンを帯同し、軍隊が加える攻撃を逐一跳ね返す圧倒的なパワーを秘めている。彼のメッセージを解読するためヘレンらが奔走する中、クラトゥは彼ら異星人のインテリジェンスを理解したヘレンの手引きで施設を脱走し、やはり中国人に成りすまして先行して地球に潜んでいた同星人にコンタクトを取る。そう彼らは何十年も前から地球を観察し、この星を滅ぼそうとしているのは、マスター・レイスとして君臨する他ならぬ人間たちであることを見抜き、人類を撃ち滅ぼすか、チャンスを与えるかを決するために飛来してきたのだった。コンタクティの答えは、「人類は、救いようがない。しかし、彼らは自分以外の他人に愛情を注ぐ別の面を持っている。自分は彼らが好きだ」というものだった。また「私たちにもう一度チャンスを与えて」と懇願するヘレン考えるクラトゥへ、そして飛来した球体とゴートへ、彼ら人類は追跡と攻撃を止めない。そしてついに、異星人は攻撃を開始した。

 キアヌ・リーブスは嫌いではないが、彼の出るSFは少々食傷気味になっているので敬遠していたが、ふとしたきっかけで観ることになってしまった。何も地球が破滅する話を観るというのも辛気臭い感じがしたのだが、これがオリジナルの前作の流れをあまり変に捻じ曲げていないところが好感持てたし、タイムリーないい企画だと素直に思えた点がある。前作と変わらない視点は、宇宙の中の地球という視点が固定されているところだ。本作の元ネタが当時斬新だったのは、今まで宇宙からの訪問者はすべからく地球を食いものにする侵略者ばかりだったのに、警鐘を鳴らしに来る類もいるということを提示した点だった。逆に地球から飛び出していくヒーローも、地球に害を及ぼす連中を成敗しにいくのが大まかな内容だった。けれども、地球も宇宙の中のいち惑星であって、地球がおかしくなれば、バランスが崩れる。地球のマスター・レイスである人類がいつまでたっても争いを止めず、地球を数個分滅ぼせる核爆弾まで持つに至った時点で、「宇宙の調和を乱す元凶は、人類である。今すぐ、核爆弾を破棄せよ」というメッセージを送りに来たというのがオリジナル作品の大筋だった。その際、時の為政者は対話を拒否、侵入者を駆逐せよと相成った。進んだテクノロジーに勝てるわけがない。今回は、今も止まない戦争に加え、新たに環境問題が大きなウェートを占めている。マンハッタンに主体が飛来し、そのほかの地球各地に舞い降りた謎の球体が、あらゆる動植物を吸い上げるシーンがある。つまり、これ以上愚かな人類に任しておくと、人間同士の戦争の二次的被害を受けたり、自国の利益最優先で地球規模の問題を他人事のように捉えたり、一向に改善されない。このままでは、他の動植物が死に絶えてしまう。人類を先ずは滅ぼして、その後再び元に戻そうという発想で、まさにノアの箱舟である。どんどん汚染してゆく環境の問題の根源は、人類の存在そのものであり、人類が他の種族を根絶やしにする権利など持っていない。作品は、そう切り捨てる。良心派科学者が「人間は確かに傍若無人だが、失敗して切羽詰まってから、初めて罪の深さを知る。今回、それを知るいいチャンスだ。どうか我々にそのチャンスを与えてほしい」などと、異星人のクラトゥを説得するシーンがある。虫のよい話であって、宇宙人の慈悲にすがるような場面は、正直観ていてあまり良い感じはしなかった。しかし、メッセージはクリアに伝わってくるのが、このリメイク作品の手柄のひとつと言えるだろう。それは空恐ろしいことだが、もはや我々に自浄作用は利かないということだ。何も経済の繁栄だけが人の生活を豊かにするものではないし、ましてその犠牲として環境が汚されてもよいはずはない。日本のバブル経済が弾け、オリンピックを機にこれも崩壊するだろうといわれた中国のバブルも、いまやほぼ予言どおりに弾けたと断言してもいいだろう。リーマン・ショックでようやく事の重大さを知りつつあるアメリカ経済も然りだ。利害紛争は、相変わらず今も地球のどこかで続いて、毎日死者が少なからず出ている。既に前作が核爆弾の廃絶を訴えていたのに、50年以上たっても未だに核を巡る問題は山積している。しかも弱い者がいつも真っ先に被害を受ける構図だけは、相変わらずそのままだ。なぜ人間は、こうも失敗から学べないのだろうとつくづく思えてくる。SF映画の装置を使いながら、本作が幻燈する世界とは、実は近い将来の話ではなく現在の地球であることに着目しなければならない。昔のSFは、遠い未来の物語を展開する分、どこか夢の余白部分があった。今やこの分野は、現在進行形の仮説ドラマへと転じつつあるようだ。そちらのほうが、むしろ底冷えがした。タイトルは、地球破滅の日ではなく、あくまでも“静止”である。止まって、また動き出す希望が少なからずあるというところに、まだ若干の救いがあると解釈したい。



Last updated 2012.01.19 08:54:58
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2012.01.18

パピヨン
[ 映画 ]  

 逃げる姿が、様になった男。それがスティーブ・マックイーンである。数多い主演作の中でも、幾つかのエポック・メイキングな作品は、なぜか囚われの身で正義を賭けて逃亡するか、敵対する相手に追いかけられる役柄が多い。「大脱走」「ゲッタウェイ」そして極めつけが「パピヨン」である。生一本でアクティブ、けれども無軌道で妥協を知らない行動規範に加え、無口なために何かと誤解され易いキャラクターを演じたら、彼の右に出る者はいなかった。スクリーンでのマックイーンは、希望と正当化のために逃げていた。くどくど説明しない、いやできない男だ。自分が正しいことだけは、よく分かっている。また、それが社会通念では理解されないことも同時に感じている。しかし、最終的には彼の武器である澄んだブルーの瞳がすべての正義を物語っていて、いつの間にか観る者も彼のシンパになって、気持ちとしては逃亡協力者になっている。ナチスの設けた高い鉄条線バリケードをオートバイで超えようとする躍動感、犯罪者ながら最後に逃げおおせる姿になぜか感じる爽快感、そして殺人をしたわけでもないのに過分な重罪を課せられて13年間も投獄され、遂に逃亡不可能と言われる島から脱出して、自由を自ら手に入れるシーンの高揚感。これらは、いつでも真っ向勝負で困難に遭おうが不屈の男であるマックイーンのキャラクターが、公私共に漫然と一体化したゆえの魅力が表出している結果である。その集大成が、本作「パピヨン」で究められたといえる。

 アンリというフランス人が、金庫破りで捕まった。その男は、胸に蝶の刺青を入れていることから別名「パピヨン(蝶)」と呼ばれている。パピヨンは確かにまったくの無実ではなかったが、強盗の押し入った仲間たちの裏切りに遭い、身に覚えのない幾つもの罪も着せられて合算された結果、3週間足らずの審議の末になんとコソ泥しただけで終身労働刑の判決を受けてしまう。祖国フランスは、永久追放。その上に南米ギアナの悪魔島で死ぬまで過酷な強制労働が科せられる。パピヨンは、入獄と同時に脱獄を決意する。四方を海に囲まれた島から逃げるには、逃亡を見逃してくれる看守を買収し、逃亡のためのボートや食料を入手するための資金が必要になってくる。そこでパピヨンは、一見頼り無さそうだが、娑婆では大掛かりな国債偽造に加担して、大金を持っているドガという服役囚に近づく。偽札作りの天才という噂とひ弱なドガを狙って、囚人たちはドガを付け狙う。そこで、パピヨンはドガの用心棒を買って出る。当初は、逃亡のために取引するためのフックとしてしか考えていなかったが、やがて2人は奇妙な絆で結ばれてゆく。パピヨンは、何も大量殺人に手を染めたわけではない。ドガにしても、妻が大量の保釈金を払って、自分を請け出すはずだと信じて疑わなかった。ところが、妻はドガの蓄財を独占して、無視を決め込む。パピヨンとドガ、両者とも娑婆の人間にすれば、どこまでも邪魔な存在であり、できれば悪魔島に転封しておきたい存在に過ぎなかった。長い間隔離されて、罪人だけが閉じた世界に葬られる・・・そこは、何でもありの娑婆よりも数段過酷な世界でもあった。拷問、密告、飢餓・・・そんなあらゆる困難を支えたものは、罪は十分償ったはずだという気持ちと、解き放たれていいはずという自由への揺ぎ無い信念だった。まさにひらひらと空を舞うことができる蝶へ、夢を託すかのごとく、ドガも次第にパピヨンの脱獄に希望を託すようになっていたのだ。あまりに酷すぎた13年の年月を経て、パピヨンはついに自由を求め、遂に大海原へと漕ぎ出した。それを島から見守るドガが、まるで自分が解き放たれたように、パピヨンの行く末を見守っていた・・・。

 スティーブ・マックイーンという役者は、演技という点ではあまり器用に立ち回れる俳優ではなかった。言葉数も少なかった。けれども、それは下手ということではなく、あまり喋らずして存在感を最大限に発揮した名優であった。この演技という点では、本作「パピヨン」が白眉ではないだろうか。役者のタイプとしてはまさに水と油と言ってもよい、ダスティン・ホフマンが演じるドガを向こうに回して、マックイーンの演技は鬼気迫るものを感じさせ、演技派と呼ばれるホフマンに引けをとらない名演技を展開した。台詞回しの巧さだけが、演技のバロメーターというわけではないことを、このときのマックイーンは証明しのだ。懲罰で光の閉ざされた独房に入れられて、闇と飢餓と寂寥感に苛まれる極限の精神状態を表現するのに、生きるためなら何でもするというアクトを体現した。水がほしくて干からびた口を手でこするとか、食事として出される味も素っ気もないスープへ、蛋白源を補給するためにすり潰した虫を入れるとか、ドガが差し入れた食べ物に添えた手紙を看守に見つからないように食べてしまうとか、そこには栄光に包まれたアクション俳優の輝かしさは微塵も無い。自由を得るために、貪欲に、本能のままに生きる男の姿があるだけだ。こうしたガテン系演技の頂点を究めたマックイーンと、理屈系演技をひた走っていたホフマンは、それぞれがキャリアでも最高レベルの演技をぶつけ合い、その相性も思ったほど悪くなかった。達者ぶりが反って鼻につくホフマンのいけすかない演技だが、本作のドガ役には好感が持てる。実際に脱獄し、ベネズエラの市民権を獲得したというアンリ・シャリエールという人間の伝記が、ストーリーの元になっているのだが、映画で多少事実よりオーバーに描くことを割り引いても、マックイーンが示した本作での過剰といってもよいパピヨン役への入れ込みぶりは、ひょっとして史実を凌駕する瞬間が存在したのではないかとも思えてくる。

 自分が落ち込んでいるとき、この「パピヨン」を観ると重い腰が浮く。元気が出るというのではない。これが底だとすれば、まだまだ自分の境遇などはラクな方だと思えるからだ。まだどこかに変なプライドと見栄が残っていて、闘争本能を剥き出していないと自戒できるのである。恐らく、ここまでの演技体験としてマックイーンも極限まで行ったと思う。ここでの貯金が、後年大きかったと思えるのが、遺作「ハンター」における演技だ。マックイーンは、犯人を捕まえるまではどこまでも追いかけるバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)を演じている。今までと全く真逆のキャラクターを演じたわけだ。喰い付いたら離れない、どちらかというと粘着気質がないと務まらないキャラクターでも、ここに顕れた枯淡の境地と、そこはかとなく感じる清々しい余裕と貫禄は、もう一方のベクトルでマックスに振り切れるような成功体験を持ったマックイーンだけが下ろしえた貯金であったように思えてならない。この作品が、近々スペインとハリウッドの映画会社がリメイクするという話が出ている。カナリア諸島でロケーションを行うという。脱獄ストーリーの教科書のような映画を全面改訂できるような作品を作ろうとしたら、本作を前にしてそのハードルはかなり高いと見なければなるまい。



Last updated 2012.01.18 16:15:27
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2012.01.17

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
[ 映画 ]  

 21世紀は、未来のエネルギーともてはやされた原子力が改めて取沙汰される時代になってきたけれど、少なくとも20世紀は石油の時代だった。19世紀後半には、燃料としての用途はすでに確立されていた。だが原油を原料として製造された石油製品や石油化学製品が作られるようになると、その恩恵はさらに拡大した。20世紀には、エネルギー資源として世界中で様々な用途で使用されるに至った。現代文明を代表する重要な物質であるゆえに、膨大な量が消費されるに至ると、かつての石炭がそうであったように、いつかは枯渇するのではないかという推測がかえってその価値を高めたため、石油を巡って国家間で戦争も起きた。イランがホルムズ海峡を封鎖するぞと脅すと、アメリカがいきり立つ。中国がニコニコ顔で産油国に擦り寄っている。これらの現状は、石油が依然パワーの源泉であり、形は変えたが今も石油を巡る権力構造が継続されている証左に他ならない。石油を牛耳った者が、権力と富を握る。そして一度その味をしめた者は、権益を離さない。それを邪魔する者は、軍隊が成敗しに赴く。そんな時代になった。

 その石油が、権力の頂点を掴むことは誰もが分かっている。しかし、だからと言って、その採掘を真剣に試みようとする者はなかなかいない。何せ試掘段階で金がかかる。仮に地中に眠る石油の存在を認めても、その土地を所有していなければ、富を握ることはできない。まして科学が今ほど発達していなかった頃は、実地検証で幾つかの傍証を得て、かなりの確率でここら辺一帯に石油が眠っているだろうという勘を信じて掘り進むしかなかった。山師も多く出没したから、投資金だって集めるのに苦労したはずだ。よほどの執念がないと、モチベーションがまず続かない。かつて産油国であったアメリカでは、掘り当てさえすれば成金になれる、目に見えるアメリカン・ドリームのネタであったにも拘らず、実際の石油採掘へ着手する者は限られ、結局は一部の採掘者に富が集中して、石油コングロマリットが形成されていった。そんな石油ブームの黎明期、ダニエル・プレインビューという一人の鉱山労働者が、異常なまでの競争心と飽くなき野望を滾らせながら油井を掘り当て、独自の石油供給ルートも押さえて富を握るも、極度の人間不信から次第に人格崩壊を招き、栄光を血で染めていくことになる一生を描いた作品が、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」である。

 20世紀初頭のカリフォルニアでは、スタンダード石油が油井を掘り当ててから、“黒いダイヤ”石油を求めて、マイナーたちが集結していた。一介の鉱山労働者だったダニエル・プレインビューも、金鉱の採掘から次第に石油採掘に方向を切り替え、小さな油井やぐらを2,3持つ身になっていた。その異様なまでの欲望で富と権力を手にしたダニエルだが、それだけでは納まらなかった。採掘場で父が亡くなったため孤児になった赤ん坊を養子にもした。H・Wと名付け、自分の息子として周囲に紹介した。自分が持っていない家族を、H・Wの存在で補おうとしたのだ。交渉の場に小さな子供がいると、自分を「家庭人で信用できる人間」と思わせることができたからだ。ある日、ポール・サンデーという青年から、「故郷の広大なサンデー牧場の下に、石油が眠っている」という情報を買って欲しいとの申し出を受ける。ダニエルは、パートナーのフレッチャー、息子のH・Wと共に米西部の小さな町、リトル・ボストンに赴く。地震が作った断層からすでに石油が地表に出ていることを確かめた親子は、早速安い土地を買占め、油井を掘り当てる。リトル・ボストンは不毛の地で、村の人々はポールの弟でカリスマ的な神父イーライ・サンデーが主宰する教会の信徒ばかりだった。幸運にも油田を掘り当てたダニエルは、ただでさえ旺盛な野心と強烈な独占欲をもっているに、その事業規模が大きくなればなるほど他人の力を借りなければならない矛盾に、欲望と欺瞞に満ちたダニエルの心へ、次第に闘争心を掻き立ててしまう。輸送パイプラインを敷こうとすれば、必ずイーライの教会信者の土地を通らねばならない。後にイーライの教会で円滑なビジネスのために、洗礼までさせられる。何かといえば、イーライが神の名の下、ダニエルに立ちはだかるのだった。さらには油井やぐらが火事になり、幼いH・Wは爆破ショックで聴力を失う。全ての事象が、自分の事業欲を満たす小道具に過ぎないダニエルは、聴力がなくなったジレンマから精神に混乱を来した息子を、因果を含めた聾唖教師に委ね、用済みとばかりに遠くの土地へと追いやってしまう。さらに、若き日に故郷を捨てたダニエルへ、その故郷から異母弟を名乗る男が現れ、やがてH・Wに代わる肉親としてダニエルの片腕となって働き出すが、その男が偽者で実際の弟は自分に会う前に肺結核で死んだことを知ると、拳銃で射殺して埋めてしまう。宣教のため全米各地へ旅立ったイーライの不在で、牽制する者がいなくなったダニエルは、他人への猜疑心をますます強め、手のつけられない孤高の男となっていく。それから幾年も時は流れ、大富豪になりながらも人はどんどん去っていくダニエルのもとに、金策に困ったイーライがある日ひょっこり訪ねてくる。今まで正反対の生き方をしてきた両者に、互いの人生で最後の対峙の時が迫っていた・・・。

 本作を現代の「市民ケーン」と評する向きもある。それはけっして大袈裟ではない。役者の潜在能力を最大限に引き出すポール・トーマス・アンダーソン監督と、デ・ニーロ・アプローチと双璧と称される役作りの鬼ダニエル・デイ・ルイスの邂逅。人間としては最低のクソ野郎の人生を、正反対の人生を歩む宣教師の人生や商売敵との凌ぎ合いで彩りながら、下手に否定することなくストレートに描いたこと。この2つの要素が、作品を成功に導いたような気がする。ダニエル・デイ・ルイスは、変幻自在の個性を演じることができるから、きっと繊細な心の持ち主ではないかと思うのだが、ここでは厚かましく、尊大で冷徹な男の図太さを事も無げに創り上げ、監督もほとんど演出ではなく方向性を示唆しながら、巧くダニエル・デイ・ルイスを乗せている。どうやら役者をその気にさせることが上手なディレクターのようだ。同時にアンダーソン監督は、桁外れの野心を持つダニエルという男の肉付けに、下世話な目的意識を忍ばせなかったし、聖職者だからといってイーライの生き方の肩を持つような描き方もしなかった。むしろ冷酷で無慈悲なダニエルの人生すらも完全否定しなかった。思えばダニエルは、いったい何の目的で石油を掘っているのかわからない。金なのかと思いしや、それだけではない。人の飽くなき事業欲が尽きることがないのは、結局は金という方程式があるけれども、ダニエルは人を信用しないあまり油井の周辺にテントを張って生活している。華美な生活を望んでいる風でもなく、一文たりとも他人へ銭を払いたくないのだ。後年、大邸宅を構えるが、大金を得て人生を楽しむような生活は少なくともしていない。では、女なのか。いや、彼は人間不信から女も近づけないのだ。家族愛なのか。ビジネスを巧く回すため、急造ではあるが家族は作った。しかし、それが自分にとって不要と分かると打ち捨てた。では、ダニエルを駆り立てる競争心・敵愾心は、いったいどこから来るのか。作品は、ここにも明確な答えを敢えて出さない。むしろ「何か特別な目的があって金儲けしていると考えるのは、下種の勘繰り」とばかりに、ダニエルにスクリーンから我々を嘲笑させ、毒づかせる。それは酷く居心地の悪い空気を生む。なぜならば、「人生、金ばかりではない」と言い放つ人に限って、実は自己実現のために何も行動していないことを思い知らされるからだ。「自分ならば、ダニエルのような人生は虚しいから嫌だ」・・・そう思えば思うほど、ダニエル・プレインビューという男の存在は、自分の心の中で勝手に肥大化してしまう。そこに、「人間っていったい何?」そんな疑問が湧く頃には、この映画が意図する術中へすっぽりと入り込んでいる。こうした観た者へ自発的な判断を促すような手法は、実に保温性の高い表現だと思う。考えてみればダニエルのような人間は、そこかしこにいる。たとえば、ひょっとしたら今後は太陽エネルギーにスポットが当たり、今後は森林伐採による砂漠化で枯渇していく飲料水を巡って、“ダニエル・プレインビュー”がまたぞろ復活するかも知れない。我々は、常にヒーローたちを待ち望みながら、同時にどこかで彼らの横暴を恐れている。そんな心にダニエルは、今後何度も去来するだろう。良質な映画は、しばし時を忘れさせる。本作を観ながら、2時間半は瞬く間に過ぎた。




Last updated 2012.01.17 08:45:01
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2012.01.16

キャバレー
[ 映画 ]  

 会社経営とプロデューサーという立場から映画制作に参画していた角川春樹本人が、自らメガホンをとったことで注目した作品だ。まるで落語の三題噺ではないが、ジャズ・女・死をモチーフに、大人の御伽噺を展開しているのが、この映画だ。ジャズは、ブルースが背広を着ている音楽だ。スノッブで、慇懃無礼なのだ。けれど反って、強がりと気取りがある分、知的でセクシーな香りが漂う。ただし、ジャズの根底を流れるブルースのフィーリングがなければ、その限りではない。ブルースは、誰にもある。けだし、名言だ。けれども、それは言霊に乗ると哀しみを周囲に撒いていく。ある意味、毒なのである。けっして神の福音を伝えているわけではない。元々黒人奴隷たちのやるせないエレジーが発展したものだ。唄に篭められた他人の哀しみを知って、自分など少しぐらいはましな方だと思い、重い腰をふっと上げる・・。ブルースとは、他人の痛みや哀しみ、そして苦しみを踏み台にすることでカタルシスを得る音楽ともいえるのではないか。逆にいえば、歌い手には気取りはない。内面をすべて曝け出さないと、他人に唄が伝わらないからだ。金持ちを呪ってやるとか、女性を口説くにも「やらせろ」と叫ぶ。本音を振り絞るたび、命を削るとも言われている。呪術師が、呪いをかけるたびに寿命が縮むといわれているようなものだ。そう、ブルースとは、生であり、死でもある。アメリカの南部では、荒野の四辻で悪魔に魂を売って、それこそ悪魔的なギター・テクニックと心を掻き毟るような歌声を手に入れたと噂された、ロバート・ジョンソンという男がいた。そして数少ないが、極上のブルースを録音して早死にした。女とは、生み出す性だ。死を覆い隠し、戯れと虚言のなかにも真実のメッセージを忍ばせて、自ら死に触れようとする愚かな男たちを護る。そして、ジャズが死の序曲と別れの挽歌を奏でている。この作品のコンセプトをみたとき、かなりテーマの本質を突いた映画になるのではないかという予感がしたのだが・・・。

 何不自由の無い都会の大学生活の中に、本物のジャズはない。まだ19歳、上流家庭のお坊ちゃん育ちの矢代俊一は、アルト・サックスだけ持って横浜のキャバレー「スターダスト」とに流れてきた。ヤクザの喧嘩と誰が聴くでもない雰囲気のなかで、俊一はサックスを吹き続けた。本来自分が求めているジャズと、キャバレーのステージ演奏には著しい乖離があるが、修一のサウンドはどこか真実を響かせていた。店の片隅の指定席で、いつも俊一のサックスをリクエストする客がいた。決まってリクエストする男は、菊川組の代貸・滝川という男だ。曲はいつも薄幸の女性歌手ビリー・ホリデイを歌った「レフト・アローン」と決まっていた。ある深夜の桟橋で独りサックスの練習をしていた俊一は、偶然、滝川を消そうとしているヤクザと思しき男たちの話を聞いてしまう。関東連合の北優会が進出して、菊川組のシマを徐々に侵食し始めていた。俊一は、滝川に危険を告げるのだった。滝川は、早々に返り討ちを食わし、警察が動き出す。どうして滝川に危険を知らせようと思ったのかは分からない。自分の心の叫びを理解してくれる、いわば友情のようなものを滝川に感じ取っていたからかもしれない。なめられて黙っている滝川ではない。滝川は、一人敢然と組織へ立ち向かって散っていく。違う世界に住む人間たちだが、皆、何らかの業を背負って生きている。俊一は、横浜を去っていった。

 自分は、敢えてこの作品は、雰囲気はけっして悪くなかったと断言する。どこか刹那的な人間模様、グランド・キャバレーのそこそこの豪華さと安っぽさが同居したような意匠、そんな中へ飛び込むジャズマン志向の大学生、危険の匂いのする男を護ろうとする女たち・・・こうした設定だけは、なかなか堂に入っていたと思うのである。けれども、日本人による、日本人のための映画であるため、格好つけてもバタ臭い感じの展開になってしまうのがとても残念である。コンセプトは悪くないとは思いながらも、ストーリーがあまりに陳腐に過ぎて、なんとかならないかというのが正直なところだ。オチが、任侠道に殉じて、一人敵の親玉へ撃ってでる・・・というもの。これは、一気に冷めるでしょう。確かに、ジャズとギャングは相性がいいのだけれど、ジャズとヤクザはやっぱり合わない。考えてみたら、キャバレーの生演奏で名曲過ぎてジャズ・ファンならとても恥ずかしくてリクエストなどできない「レフト・アローン」をリクエストするヤクザというのもただの変な人だし、モダンで今風のヤクザとも思わない。弟分の死に際して流れていたのがこの曲で、以来耳にこびりついてしまったという設定だ。渡世の義理人情にジャズが絡んでくる辺りは、ちょっとぬる過ぎる。たぶん角川にしてみれば、初めてながら監督してやるべきフレームワークは上手くやったのだ。しかしながら、そこにはめ込むピース(役者であったり、脚本であったり)が不ぞろいで奇異な印象を与えてしまうようなところも、作品の不出来に追い討ちをかけた。俳優に要求するレベルがいくら高くても、肝心の俳優がそれに呼応しなければ意味がない。室田日出男、倍賞美津子など、主役から一歩半くらい離れた立ち位置にいた役者は、なかなか良いサポートぶりではあったのだが、あとは気負いすぎと明らかな背伸び、そして役者としての力不足が目立った。それはこの作品が、ジャズの部分は巧く演出で表現したが、根底にブルースを響かせる役者たちの力量とそれらを活かす脚色の技術が欠けていたからだ。全てにおけるチグハグさがなければ、もっと思わせぶりな映画になったのに。ちなみに、このタイトル・ロールで流れる「レフト・アローン」の歌唱は、マリーンによるもの。これが悪くない。不世出の女性ジャズ・シンガー、レディ・デイ(ビリー・ホリデイ)を偲んで、マル・ウォルドロンがピアノを奏でて、ジャッキー・マクリーンがアルト・サックスで詠唱したのが本命盤で、日本でもかなりヒットしているのに、そもそもシンガーによるカバーは意外と稀少であり、それをマリーンが伸びやかな節回しで歌って、若干現代風のライトな感覚を加味して仕上げている。




Last updated 2012.01.16 05:42:15
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2012.01.15

秋刀魚の味
[ 映画 ]  

 小津安二郎監督の遺作となった作品だ。最後の作品ながらも、そこにはカラーフィルムの採用やコミカルな味わいを押し出したことから、新しい時代へ小津監督が踏み出した新しいアプローチとみる向きもある。しかしながら、自分にはそこはかとなく、小津の諦観とある種の絶望とが見て取れる。黒澤やヒッチコック、ベルイマン、ジョン・フォード、デビッド・リーン、キューブリック・・・天才の所業を多く遺した監督の表情は、みな意外なほどに枯淡の表情を浮かべている。枯れた至芸とでも呼ぼうか。ところがこの作品での小津は、戦後に変わりゆく日本とその庶民を見つめながら、昔からの日本の原風景や美徳が損なわれ、自分の力だけではどうしようもない変遷に溜息をついている。加えて、ファミリーを自分の作品の中核に描いていながら、生涯ついに独身だった小津自身がある種の自己矛盾を起こしていたように思う。だからこそ、理想の家族のあり方を描き続けたともいえるし、残酷なまでに家族の側面を浮き彫りにさせてこられたのだが、その家族の理想系とは裏腹に、時代の変化は恐ろしく早い。家族という生態系を深く掘り下げるほど、彼の理想からはどんどん遠ざかっていく。「東京物語」を描いた辺りから、さらに進んだ家族という小集団の行く末を、どこか遠くを見るような目でみつめている小津がここにいる。

 終戦後、平山は海軍を辞してから一般会社に就職、重役としての地位もでき、中学時代からの友人である河合や堀江とたまに宴席を囲んでは、互いの人生の収穫期を謳歌している。長男の幸一夫婦は、たまの金の無心に来るものの共稼ぎながら流行の団地生活を送っているし、娘の路子と次男の和夫とも家で平穏に暮らしている。妻は亡くなったが、特に不平も不満もない順風満帆の人生だ。ある日、悪友である河合や堀江と酒を飲みながら、同窓会の相談をしているうちにふと娘の縁談の話になった。娘の路子は、河合が重役をしている会社で働いており、路子を見た河合が、24になる路子を早く嫁にやれと急かすのだった。平山としては、まだ手放す気になれなかったし、路子自身もまだ父の傍に居たいという。しかし、主席に呼んだかつての恩師が、戦後は中華そば屋を営んでおり、今小町と言われた彼の娘が、婚期を逃して今も父の下で店を手伝っていることを知り、平山は急に焦りだす。路子が、長男・幸一の同僚が気に入っていたようだと聞くや、幸一に縁結びを頼み、河合が持ち込んだ縁談も最初はやんわり断っていたが、耳を貸すようになった。なんとか縁談をまとめたものの、いざ路子に嫁がれると、一抹の寂しさや侘しさが平山を襲うのだった・・・。

 秋刀魚苦いか、しょっぱいかではないが、家族という単位にとって、安価で滋養のある秋刀魚は、まさに秋の食の代名詞といってもよいと思うが、焼けば煙が出るし、血合も多く、大根おろしで頂くせいか、美味しいのだがどこかほろ苦さも感じさせる。まさに、製作当時の世情を小津なりの視点で秋刀魚に喩えて表現したのだろう。当時はモダンと言われた団地に住んで独立はしているが、ゴルフ・クラブ買いたさに父に金の無心に来る長男。学生であることを、どこかで威張っている世間知らずの次男坊。男所帯で行き遅れているが、意中の人はいる娘。一見するといい家族なのだが、平山が心を落ち着く場所とは、いまや妻のいない家庭ではなく、悪友である河合や堀江との酒席であり、妻の面影を残したマダムのいるバーであったりする。血の繋がりで団欒を囲むものの、娘の路子はやはり彼女の幸せを優先して嫁入りさせたい。次男坊もこの調子ならば、勝手に家へ出てくるだろう。堀江は若い後添えをもらったから、そうは連れ回せない。海軍時代の部下も、どうやら小さい工場を切り回しているようで、結構足繁くバーに通いながら、楽しく逞しく毎日を生きているようだ。平山の孤独は、表面上ではエリート街道を歩いてきた模範生のような生き方で、周囲からは立派で文句の付けようが無い人生と映っているだけに、恐らく誰にも額面どおりには彼の寂しさを理解されていない。いつかは去っていってしまう家族が、寂しさをいっそう募らせるのである。そこが、たまらなく侘しい。すでに、小津は来たる核家族化と支える人無き老人の孤独を予見していたかのようである。今までになくコミカルで、滑稽な味わいのある作品ながら、深い悲しみが仰臥する映画なのである。大震災を経て、日本はいま絆の大切さを思い出しつつある。契機はどうでもいいから、この「家族」という存在の尊さを思い出したら、日本も少しは変わるのではないだろうか。




Last updated 2012.01.15 06:30:12
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2012.01.14

駅/STATION
[ 映画 ]  

 よく男にとって女は港だという、喩えがある。しかし、駅であると喩えたのが、この作品の本懐ではないだろうか。港には、長い航海の果てに辿りつく最終目的地のイメージがあるが、駅には間断なき流れの中の経由地という佇まいがある。確かに終着地ではあっても、そこからまた先へ旅立っていかねばならない、乗換え口でもあったりする。それを男女の機微へ置き換えてみれば、お互い停車した駅が終着駅だと思ったのに、人生というスパンのなかではそれが単に経由する駅であったりするのは、よく理解できる。仮にその駅が乗り換える駅だと分かっても、列車自体はそこから引き返すわけにもいかない。淡々と走り去っていくだけだ。思いを籠めた異性との悲しい別れになったとしても、人生そのものをやめるわけにもいかない。再び列車に乗って、次なる駅に降り立ってみるしか、滞った人生をやり直す方法はないのだ。駅に立つということは、背負うものが大きければ大きいほど辛いものだ。見送る場合につけ、自らが列車に乗るつけ、そこで引き裂かれる男女の関係は、有形無形に自分の人生に影響してゆくだろう。そんな駅を岐路に喩えて、英次という男が辿った13年の歳月を、彼が出会った女性が織り成すオムニバスのような形式を採りながら描いた映画が、「駅/STATION」であり、主演した高倉健の代表作のひとつといってよいのではないだろうか。

 北海道警の警察官をしている英次は、射撃の腕を買われてオリンピックの射撃強化選手に選ばれた。警察官としての激務と日本中の期待がかかる重圧に苛まれて、それでぎくしゃくした家庭を支えきれずに、妻の直子と4歳の息子義高に別れを告げた。雪降る駅に直子を見送った英次は、動き出した汽車の中で笑って敬礼する直子の目に涙が溢れていたのを、万感の思いで見つめるしかなかった。しかもそんな折、英次の恩師で上司でもある相馬が連続警察官射殺犯“指名22号"に射殺された。敵討ちを志願する英次だが、五輪強化選手の英次は捜査から外された。テレビでは、東京オリンピック3位のマラソン選手・円谷幸吉の自殺を報じていた。英次の心情とそっくりだった。それから、9年。英次の妹・冬子が、あれだけ愛していた義二とではなくて、伯父の勧めた見合の相手とさっさと結婚して、妹の女心にとまどいを覚える。その頃、英次はオリンピック強化コーチのかたわら、赤いミニスカートの女だけを狙う通り魔殺人犯を追っていた。増毛駅前の風侍食堂につとめるスズ子の兄である五郎が容疑者だ。そんな英次のもとへ、コーチ解任の知らせが届く。スパルタ訓練に耐えられなくなった選手たちの造反によるものだ。時代は、明らかに変わろうとしていたのだ。街のチンピラ雪夫の子を身篭ったスズ子は、少々オツムが弱いのだが、唯一の身内で支えあいながら生きてきた兄の五郎へ、雪夫だけは引き合わせたかったのである。どんなに詰問されようと、最後まで兄の所在や連絡先を明かさなかったスズ子だが、警察はまさに彼女と付き合っている雪夫を突破口にした。そして、張り込む英次の前にスズ子が連絡をとった五郎が現れ、彼女の前で逮捕される。それから4年、英次のもとに旭川刑務所に収監された五郎から、死刑の執行を知らせる手紙が届いた。獄中へ差し入れを続けていた英次への感謝が綴られていた。何度か駅に停車しながらも、行くあての決まっていない列車に乗るかのように、人の世の厳しさと矛盾に疲れた英次は、故郷の雄冬に帰ろうと、連絡船の出る増毛駅に降りた。風待食堂では相変らず、スズ子が働いていた。食堂の前を、他の女性と結婚した雪夫が妻と子を連れて通り過ぎて行く。猛雪による船の欠航で立ち往生してしまった英次は、赤提灯「桐子」の暖簾をくぐる。女将といっても桐子が一人切りもりする店だが、年末で客も来ない。年末の侘しさと人生の寂しさ、客と女主人という関係ではなく、そこに自分と同じような種類の孤独の影を感じて、惹かれあう2人。大晦日、留萌で映画を観て、肩を寄せ合って歩く2人は自然と結ばれた。初詣にも繰り出すが、道陰で桐子を見つめている一人の男に英次は気付く。結局、英次が故郷に帰りついたのは、元旦も終ろうとしている頃だ。思うところがあった英次は、そこで、13年ぶりに妻だった直子に電話する。東京・池袋のバーでホステスをしているという。13年の間、自分にも人生があったように、かつて自分に関連した人にも時間は、確実に流れていたことを知る。雄冬の帰り、桐子が札幌へ帰る英次を見送りに来ていた。その時、英次に宿敵となっていた“指名22号"のタレ込みがあり、英次は増毛に戻った。手配写真を見て、英次は初詣で桐子を見つめていた男の顔を思い出す。実は、タレ込みの主は桐子であり、彼女のアパートで22号は英次の拳銃で撃ち殺された。警察に通報しながら、一方で22号をかくまっていた桐子。札幌に戻る前、英次は桐子を店に訪ねた。そこには絶望的な空気が漂い、酒を出しながらも英次に背を向ける桐子は、八代亜紀の「舟唄」に聞き入っている。彼女の目には、涙が流れている。英次は、店を後にして再び駅のプラットホームで汽車を待つのだった・・・。

 高倉健の任侠映画も悪くないが、自分はこの映画の健さんが一番好きである。寡黙で訥弁な健さんのダンディズムが、もっとも端的に顕れていて、その魅力を最大限引き出すためだけに書かれた脚本が、彼のキャラクターにとって実に収まり具合のいい至福の空間を創り出している。しかも、健さんの辿る人生に、女性たちの人生を張り巡らせたというストーリーというよりは、むしろ彼女たちの人生に、健さん=英次の存在が与える様々な影響を投影させたような撮り方が、余計に健さんの存在感を浮き上がらせるようになっていて実に心憎い。女優を同じ目線に立たせてしまうと、やはり健さんには照れが出てくると思うのだ。女性にへりくだるでもなく、隅にも置かないという健さんの優しさが、女性はもちろん同性からみても大きい魅力なのだろう。とかく“我が人生を彩った女たち”的な描き方をしてしまうと、普通ならば男性上位の上から目線のアプローチが女優たちから猛反発を喰うこと必至だと思うが、対象が健さんだから、彼に伍する演技力とそれを支える人間性の深さが女優にも要求されるため、むしろ健さんに絡むと女優の株がぐっと上がるから、出てくる女優が皆いい演技をするのである。また様々な人生が去来する駅をモチーフに据えたからこそ、そこに独特の憂いと哀感が醸し出されることになった。本当は、次の駅にはもっと幸せな日々が待っているかもしれない。しかし、その列車には乗ってみなければそれは分からない。歳月を重ねた男女には、出直すために傷を癒すには、若い頃のように右から左へ乗り換えるというわけにはいかないのだ。だから幸せの確証でも得られない限りは、黙って駅に佇むしかない。永遠の愛という見えないものよりも、目の前の刹那的な優しさに人はどうしてもすがってしまうのである。そこに、滋味深き男女のあやが横たわっている。実際、別れのプラットホームで、目に涙を溜めながら精一杯笑顔を取り繕って敬礼のおどけたポーズをとる直子役のいしだあゆみの姿は、今も忘れられない。飲み屋の女主人・桐子が、「舟唄」を聞きながら頬に涙を伝わせるシーンは、どちらかと言えば明るく健康な女性像が強い倍賞千恵子の女の性(さが)を引き出していて瞠目してしまった。いずれのケースでも、健さんは台詞ひとつ喋らないのである!役者にとって、オーラというものがいかに重要なものなのかは、この作品の健さんが証明している。高倉健ほど雪と冬と孤独が様になる男は、日本にいまい。そんな健さんに、男惚れする映画である。




Last updated 2012.01.14 06:54:22
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