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黒く艶やかな闇の中で、白く長い髪が揺れた。 「『奴等』も、妙なゆさぶりをかけて来たものだな」 「大きな力が使えぬ為、小細工を弄しているのでしょう」 竹生の居間である。灯は窓より射し込む月光以外にはない。それも届くのは部屋の半ばまでで、残る部分は漆黒の中にある。だが”人でない”朱雀の目には何の支障もない。漆黒の中に優雅に寛ぐ屋敷の主の姿を、その白く長い髪の一筋まではっきりと見る事が出来た。竹生は愛用の安楽椅子で頬杖をつき、もう片方の手には琥珀色の美酒に満たされたグラスがあった。 「あれを屋敷に?」 「竹生様のお許しをいただけますなら」 「ふむ」 竹生はしばし遠くを見るような目をした。天空の月さえも招き寄せそうな妙なる響を含んだ声が言った。 「あれには『奴等』の気配は感じぬ」 竹生は朱雀にちらりと目を流した。 「”味わって”みなければ、しかとは解らぬがな」 青き魔性の目と目を合わせた途端、朱雀ですら、背筋を貫いた甘い戦慄に耐える為に、深く息をつかねばならなかった。朱雀は努めて穏やかな声で答えた。 「屋敷の内部から何か仕掛けるつもりなら、『奴等』の思う壺でしょう」 「お前は、あの子供の身を案じておるのであろう?」 「我らと関わった以上、危険がないとは言い切れません」 「家族が増えるのは良い事だ。ここに住むからには、我らの流儀をしかと学ばせるが良い」 「ありがとうございます」 朱雀は頭を下げた。 部屋を下がろうとした朱雀に、竹生が声をかけた。 「あれは、来るべくしてここに来た」 朱雀は怪訝な顔をした。 「あれからは我らと同じ風の匂いがする。微かではあるが」 「では」 「それも『奴等』に目を付けられた理由であろうな」 「早急に調べを」 竹生は頷くと、杯を干した。 シャワーブースが別になった広いバスルームは明るく、良い匂いのバスザルツを入れた湯の心地良さが拓人の疲れを癒した。 (明日が休日で良かったな) 少なくとも一日は今後の事を思案する時間がある。不思議なほど母の死に感慨が沸かなかった。朱雀を尋ねた事から始まった異常な出来事に、まだ自分が対処しきれていないせいだと拓人は思った。すべてが夢の中のようであった。拓人の知らない優美さに満ちたこの屋敷も異世界と言って良い。それも拓人の衝撃への良い緩衝材となっていた。 柚木に借りたスウェットを着て部屋へ戻ると、柚木が待っていた。 「僕の部屋で飯を食おう」 柚木の部屋は同じ階にあった。ほとんど家具のない部屋で、柚木が広げたちゃぶ台の上に、桐原が運んで来た夕餉の膳が並べられた。美味そうな匂いに拓人は猛烈に空腹を覚えた。二人で卓を囲んだ。拓人は食事に夢中になった。柚木も黙って食っていた。熱い味噌汁は久しぶりだった。珍しい菜はないが、どれもが丁寧に料理されているのが感じられた。しばらくすると柚木が聞いた。 「どう、口に合う?」 「どれも美味いよ」 柚木は微笑した。 「良かった。津代も喜ぶよ」 (つづく)
小説用まとめサイト更新のお知らせです。 「社長の息子 第7回」まで更新。 久しぶりにTOPの写真も変更致しました。 いつもお読みいただいてありがとうございます。鍬見の物語の続きも書きたいのですが、余裕がなくて後回しになっております。拓人が落ち着いたら、彼の恋がどうなったのか、書きたいと思います。 今後ともよろしくお願い致します。 menesia
「お帰りなさいませ」 玄関で出迎えたのは、品の良い老紳士だった。朱雀は拓人をそっと下ろした。 「大丈夫かね?」 拓人は頷いた。朱雀は拓人の肩に手を置いた。 「この子が拓人だ、桐原」 朱雀は拓人の方に身をかがめると言った。 「桐原はこの屋敷の執事なのだよ。解らない事は彼に聞くといい」 桐原は拓人に頭を下げた。 「お部屋までご案内致します」 拓人の荷物はすでに部屋に運び込まれていた。学校の制服と鞄はクローゼットの中に収納されており、拓人の為に柔らかいネルのパジャマと新品の下着と部屋履きまで用意されていた。 「急拵えの部屋で申し訳ございませんが、本日はこちらでお休みを」 桐原はそう言って下がった。拓人は一人になると疲れを覚え、安楽椅子に腰を下ろした。柔らかい椅子に身をまかせ、拓人は室内を眺めた。拓人の住んでいた2DKの部屋をすべて合わせたよりも広かった。桐原は急拵えと言ったが、室内は拓人の見た事のない豪奢を漂わせていた。薄い金色の覆いのかかった寝台、黒檀のテーブル、硝子の花弁を組み合わせたようなスタンド、書斎机の上にはペン立てとインク壷。艶やかな深緑色の分厚いカーテンが引かれ、窓は見えない。壁に張られた織物の細かい模様を縁取る金糸や銀糸が、古めかしいシャンデリアの光を鈍く照り返していた。どれもが時代がかって、この洋館にふさわしく思えた。 拓人は背広のままだった。疲れたような興奮したような、落ち着かない心持ちでいた。 「拓人、入っていい?」 柚木の声がした。 「いいよ」 柚木が入って来た。柚木の顔を見た途端、拓人はほっとした。柚木は白いシャツと砂色の木綿のズボンに着替えていた。柚木はグレイのスウェットの上下と身に付けているのと同じようなシャツとズボンを抱えていた。 「これ、僕のだけど使って」 「ありがとう、助かるよ」 柚木はクローゼットにそれらを仕舞いながら言った。 「百合枝さんが一緒にお茶をどうかって」 「百合枝さん?」 「朱雀おじさんの奥さん。この屋敷は百合枝さんの生まれ育った場所なんだ」 拓人は両手を広げた。 「この格好でいいの?」 「いいと思うよ」 並んで廊下を歩きながら、柚木は拓人を気遣うように尋ねた。 「気分はどう?腹減ってる?」 「柚木の顔を見たら、ちょっと安心した。腹は・・そうだね、さっきサンドイッチ食ったけど、まともな飯が食いたいな」 「僕も安心したよ、拓人が元気で。百合枝さんに挨拶したら飯を食いに行こう。津代が用意してくれてる。津代の飯は美味いよ」 拓人が尋ねる前に、柚木は教えてくれた。 「津代は台所の仕事をしてる。昔は百合枝さんの乳母だったそうだよ」 廊下のつき当たりが百合枝の部屋だった。その部屋は、門の前で屋敷を見上げた時、特徴のある緑の窓が印象に残った部屋だと拓人は気づいた。柚木は礼儀正しく扉を叩いた。扉を開けたのは、黒く長い髪を後ろに束ねた浅黒い精悍な男だった。男の態度には柚木と拓人への敬意が感じられた。 「百合枝さん、拓人を連れて来たよ」 柚木が言った。柔らかな色に満ちた部屋だった。女性らしい香りがした。部屋の奥の椅子に一人の婦人がいた。ゆるやかに巻かれた栗色の髪が肩に落ちていた。その肩には幾重にも淡い色のショールが巻き付けられ、ショールの下から覗く薔薇色のスカートは床に届いていた。 「貴方が拓人ね。逢えてうれしいわ」 優しい笑顔が拓人に向けられた。拓人は恥ずかしくなり、口の中で「どうも」と言って軽く頭を下げた。拓人の母と同年代だろうが、笑顔も声も若々しく可愛い。あまりにも可憐で何処か守ってやりたくなるような女性だった。朱雀もきっと彼女を大切にしているに違いないと拓人は思った。今は百合枝の側に控えている先程の浅黒い男も、百合枝をとても大切に思っているのが見て取れた。 「二人とも、おかけになって」 拓人は柚木と並んでソファに腰掛けた。ソファの前の卓上にはお茶の用意がされていた。女主人に似合いの優雅な水色と金に縁取られた茶器と銀のポットに砂糖壷、菓子の盛られた皿が並んでいた。 「千条、お茶をお願い」 「はい」 千条は注意深く二人の茶碗に、銀のポットから茶を注いだ。 (彼も”盾”なのだろうか) 拓人は思ったが、尋ねる事はしなかった。今はその方面には関わりたくなかった。 拓人は和やかな時間を過ごした。香り高い紅茶と焼菓子が美味かった。柚木と百合枝との会話を聞いていると、柚木は百合枝を母というよりも姉のように思っているらしかった。柚木は仏蘭西語を百合枝に習っていると言った。 「拓人も一緒に習えばいいよ。おじさんの息子になったら、ここに住むのだろうしね」 拓人は戸惑った。 「まだどうなるか解らないよ。社長が本気で言ったのどうか、俺には解らない」 百合枝が言った。 「朱雀が言ったのなら、本気よ」 「そうなの?」 「あの人はそういう人だから」 「貴方は嫌じゃないですか?俺みたいなのが家族になって」 柚木が口を挟んだ。 「拓人は良い奴だよ、百合枝さん」 百合枝は柚木に微笑した。 「そうね、そう思うわ」 そして拓人にも笑顔を向けた。 「素敵な息子が増えてうれしいわ」 (つづく)
車の中で朱雀に聞かされた話を、拓人はその場ですべて理解したわけではなかった。太古から続く『奴等』との戦い、母親は悪鬼と呼ばれる化物になってしまった事、朱雀達はあの化物と戦う者達である事。解っているのは、自分が天涯孤独になってしまったという事だけであった。 不安な気持ちがそのまま口に出た。 あの時、かつて母親だった化物は言ったのだ。拓人の知っている声とは似ても似つかぬひび割れた声で。 朱雀は鷹揚に頷いた。 柚木は二人を見ていた。 車は瀟洒な鉄の門の前に停まった。とっぷりと暮れた中であっても、大きな屋敷であるのが拓人にもおぼろげに感じられた。車を降りた途端、拓人の足がもつれた。柚木が素早く手を貸した。夢の中にいるかのように、拓人は足元が覚束なかった。朱雀が拓人を抱き上げた。 (つづく)
母親は朱雀を見ながらにやりと笑った。拓人の見た事のない邪悪な笑いだった。 「連れて来てくれたんだね、私らの敵を」 「母さん、何を・・」 言いかけた言葉が喉に詰まった。不意に母親の顔が見えない大きな手で掴まれてくしゃっとつぶれたように見えたのだ。母親の顔は豹変していた。目はつり上がり、口は耳まで裂けた。赤く腫れた唇からは大きな牙がにゅっと生え出ていた。喉の奥で獣の如き唸り声を上げ、前かがみになった身体の前で、引きつった手の指は曲がり、尖った爪が獲物を狙う猛禽類の足のようになっていた。 「柚木!」 朱雀が鋭く言い放った。 「はい!」 柚木は拓人に駆け寄ると拓人の腰に手を回した。ふわりと二人の身体が宙に舞い、朱雀の後方の離れた場所に着地した。拓人は驚いて声も出なかった。 「風の力だよ」 柚木は拓人から腕を解くと、片手を宙に伸ばして呼びかけた。 「おいで、時姫」 柚木の手に一振りの刀が現れた。拓人は目を丸くした。刀を軽くふるうと、柚木は拓人を見た。 「ここから動かないで」 拓人は震えながら頷いた。 (何が・・一体・・・) 朱雀は悪鬼と化した母親から目を離さず、じりじりと動いた。そして悪鬼と子供達の間に割って入る位置を取った。母親はすっかり人間の姿を失っていた。老いた猿のような醜い姿となっていた。赤い目がギロギロと動き、裂けた口からは涎がひっきりなしに垂れていた。最早言葉も失い、喉からは唸り声しか出て来なかった。 「哀れだな、心奪われし者よ」 朱雀の声は深く、そこには嫌悪よりも慈悲の響きがあった。唸りながらも、悪鬼は朱雀にすぐには飛びかかろうとしなかった。理性を失い本能のみになった獣は、その本能ゆえに朱雀の真の恐ろしさを感じ取っていたのである。 先に動いたのは朱雀だった。朱雀は片手を大きく振った。無数の赤い針が悪鬼に突き刺さった。『奴等』を滅ぼす朱雀の血を封じ込めた針である。刺さった箇所から、白い煙がしゅうしゅう上がるのが、柚木達にも見えた。恐ろしい叫び声を上げると、悪鬼は朱雀に襲いかかった。朱雀は空き地へと走った。悪鬼も追って来た。飛び掛った悪鬼の首に鮮やかな朱雀の手刀が決まった。そのまま宙に飛んだ朱雀は、よろめいた悪鬼の腹に蹴りを見舞った。悪鬼は吹っ飛び、地面に転がった。しゅうしゅうと立ち上る煙に黒いものが混じり始めた。 「社長!」 赤荻は叫ぶと一振りの刀を投げた。朱雀は片手で受け取ると、すぐさま構えた。悪鬼は唸りながら立ち上がった。ぐぉおおお!!と叫びながら悪鬼が走り出そうとした瞬間、悪鬼の身体は上下二つに分れた。拓人の目には朱雀が動いたようには見えなかった。悪鬼は激しくしゅうしゅうと煙を吹きながら、その身体は黒く変色し、縮んでいった。不思議な事に何の匂いもしなかった。 赤荻が駆け寄って、朱雀の前に膝をついた。 「遅いぞ」 「お子様方の前で、社長の見せ場を作らねばと思いまして」 赤荻を見下ろしながら、朱雀は片方の眉を上げた。 「気がきく秘書で助かるよ」 「恐れ入ります」 朱雀は赤荻に刀を返した。そして振り返ると、子供達の後ろの方へ声をかけた。 「高岡、和倉、後を頼む」 「はい、社長」 もう一台の車で密かに付き添って来た者達であった。朱雀はゆっくりと子供達のそばへと歩いて行った。二人の前で立ち止まると、並んで立つ二人の少年の顔を、朱雀は均等に見た。一人は冷静なままの顔だった。もう一人は怯えと安堵が入り混じった顔をしていた。朱雀は微笑した。 「さあ、帰ろう」 それは拓人が初めて耳にした時と同じ、深く豊かな声だった。頼もしくも慕わしい大人の男の声だった。 (つづく)
赤荻が気をきかせて、幾つかの料理を運ばせた。小さなサンドイッチ、コールドミートや果物、チーズで誂えた小品等だった。育ち盛りの二人は喜んで平らげた。拓人にはどれも珍しく美味な物ばかりであった。拓人は柚木と再びとりとめのない話をしていた。拓人は柚木が好きになりかけていた。何も自慢しない。しなくても柚木が上質の人間である事が伝わって来た。何処かに朱雀と共通する雰囲気を感じさせた。 (伯父と甥だから?それが血ってやつか?) 自分の問題から、拓人はあえて目をそむけようとしていた。初めて尽くしの体験の中で、自分の住んでいた世界の狭さを、拓人は思い知らされていた。 「あのビル」 幼い拓人の手を引いた母親が、高層ビルのひとつを指差した。 「あの会社の社長が、お前のお父さんだよ」 母親と二人の生活は裕福とは言えなかった。収入の大半は、水商売の母親のドレスや化粧品に消えた。冷えた弁当が拓人の主食だった。それでも母親は拓人を大事にしてくれた。粗末な食事でも、腹一杯食べさせてくれた。いつも清潔でこざっぱりした身なりにさせてくれた。拓人も母親の愛情に報いる為、努力を惜しまなかった。優等生である事が最大の武器であると悟ってから、拓人はますます努力した。敵を作らないように争いを避ける事も覚えた。だがそんな自分に苛立ちも感じてもいた。何かを変えたいと願う気持ちも、日増しに強くなっていた。そして決行した朱雀への訪問であった。 「待たせてすまなかったね」 戻って来た朱雀は、二人に詫びると、椅子のひとつに腰を下ろした。柚木が聞いた。 「もういいの?朱雀おじさん」 「仕事は終わりだ」 朱雀は拓人に笑顔を向けた。 「後は、拓人の為の時間にした」 拓人は咄嗟に返事が出来なかった。朱雀がどういうつもりなのか見当が付かなかった。 「さて」 朱雀は運ばれて来たグラスを手にした。グラスには琥珀色の酒が揺れていた。 「新しい出会いに乾杯しよう」 朱雀はグラスを掲げ、二人を促した。柚木は同じ様にグラスを掲げた。拓人もそれに習った。グラスの触れ合う澄んだ音が響いた。 夕暮れの街を、黒塗りの車は静かに走っていた。先程と同じに朱雀と柚木の間で拓人は緊張していた。車は拓人の家へと向かっていた。車に乗り込むと住所を尋ねられた。拓人が答えると、朱雀は軽く頷いた。車はすぐに走り出した。運転手の顔は見えなかった。助手席には赤荻がいた。同じような黒塗りの車が後に続いていた。柚木はそれに気がついていたが、拓人は気がつかなかった。これから何が起きるのか、その方に気を取られていたからである。朱雀は母親と顔を合わせて、自分の処遇をどうするつもりなのだろう。母の事も含めて。まだ朱雀は拓人の事を息子と認めたとも認めていないとも言っていなかった。 古ぼけた2階建ての木造のアパート。1階の一番隅が拓人と母親の暮らす部屋だった。大通りから少し入った路地には人影はなく、隣には先頃家屋が撤去された空き地があり、まばらに雑草が生えていた。アパートの各々のドアの上に点った電球も曇りがちで、ちりちりと揺らめいていた。 拓人が呼び鈴を押した。 「母さん、ただいま」 拓人の後ろに少し離れて、朱雀と柚木は佇んでいた。鍵の回る音がした。灰色のペンキが所々剥げたドアが開き、女が顔を出した。茶色に白髪が混じった髪を無造作にかき上げ、ピンで止めてある。薄い胸を薄い水色のガウンが覆っている。白い顔は青みを帯びて不健康そうに見えた。 「母さん、俺の親父を連れて来たよ」 女は黙って拓人を見ていた。拓人は母親から目を離さず、片手で後ろを指差した。 「母さん、俺の親父なんだろ?この人が」 女は目を細めて朱雀を見据えた。白い顔には感情と呼べるものはほとんどなかった。拓人は母の態度にあせりを感じ始めた。 「ほら、あの会社の社長だよ。母さんが言ってたじゃないか。お前のお父さんは、あそこの社長だって」 「ああ・・」 興味がなさそうに女はつぶやいた。母の何時にない異様な様子が拓人を不安にした。 「母さん?」 (つづく)
車は豪華なビルの地下へと滑り込んだ。明るいエントランスの前で停車した。金に縁取られた硝子のドアが開き、薄茶に太い臙脂の線の入った制服を着たボーイが出て来て、恭しく車のドアを開けた。三人が降りると、朱雀はボーイに笑いかけ、何かを言った。ボーイとは旧知の間柄である事が拓人にも感じられた。朱雀は素早くボーイに紙幣を握らせた。そして彼の開けてくれた硝子戸の奥へと進んでいった。柚木も拓人もそれに続いた。 フロアには暖色の光が溢れ、絨毯はふかふかで、何処もかしこも拓人の知らない贅沢さに満ちていた。淡い色の背広の朱雀はその場に似つかわしい存在だった。高価な服を着ているからではない、自然なのだ。たとえ密林を裸で歩いていたとしても、朱雀は何処までも朱雀で、その場に馴染んでしまうのでないかと、拓人は思った。柚木と拓人は学校の制服のままだった。柚木の方が少し背が高かった。拓人は柚木の柔らかく波打つ髪に羨望を感じた。拓人の髪は真っ黒で真っ直ぐで、襟足で切り詰められていた。七三に分けられた前髪はやや長く、頬のあたりまであった。 フロアの先にショッピングアーケードがあった。どれも大きな店構えではないが、厳選された品物を取り扱っている。朱雀は紳士服の店へ入っていった。ジレを着けた品の良い老人が朱雀をにこやかに迎えた。 「急ですまないが、この子達にスーツを見繕ってくれないかね?」 老人は二人を見て頷いた。 「よう御座います。丁度良い品が届いた所でして」 さっさと老人は二人の採寸を始め、奥にいた青年に何着かの見本を持って来させた。朱雀は店の隅の肘掛け椅子に寛ぎ、柚木と拓人を並べて立たせ、見本を当てさせたり、老人の説明を聞いたりしながら、楽しそうな顔をしていた。候補が決まると二人は試着室へ押し込まれた。拓人は背広など着た事はなかった。老人はシャツやネクタイも揃え、さりげなく拓人の着替えを手伝った。ネクタイも結んでくれた。やがて鏡の中には小粋な姿が映っていた。 (悪くないよな) 拓人は鏡を見ながら思った。 店内に戻ると、朱雀が笑顔で言った。 「いいね、二人とも一人前の若い紳士だ」 店を出て、エレベータで最上階へ上がった。廊下の突き当たりに厚いオーク材の扉があった。先頭の朱雀がたどり着く前に扉は開かれた。三人は奥へと進んだ。黒服の男が朱雀に当惑した顔を向けた。 「失礼ですが、ここは」 朱雀は軽く片目を瞑ってみせた。 「今日は社会見学だ。大目に見てくれないか」 「かしこまりました。どうぞこちらへ」 薄暗い室内は観葉植物や衝立でそれとなく仕切られ、その間に間にソファやカウンターや酒瓶の並んだ棚がちらりと見えたが、どういう構造になっているのか、拓人には良く解らなかった。拓人は小声で柚木に尋ねた。 「ここ、良く来るの?」 「僕も初めてだよ」 柚木も小声で答えた。 通されたのは個室だった。部屋の一面が床から天井まで窓になっていて、夕暮れの街が見渡せた。漆黒の楕円形の卓を囲んでソファや肘掛椅子が具合良く配置されていた。窓際に眼鏡をかけた男が立っていた。男は朱雀を見て頭を下げた。朱雀は男に尋ねた。 「和樹は?」 「少し遅れて見えるそうです」 「では、キミにこの子達の相手を頼む」 「承知致しました」 朱雀は二人の方へ向き直った。 「私は別室で用事がある。それを済ませたら戻って来る」 「はい、朱雀おじさん」 柚木が即座に答えた。朱雀は柚木に頷いてみせた。拓人は黙っていたが、朱雀は拓人にも同様に頷いてみせた。柚木と平等に扱われている事が拓人を満足させた。 男は赤荻(あかおぎ)と名乗った。朱雀の秘書だと言った。赤荻は二人を窓の景色が良く見えるソファへ案内し、自分も椅子のひとつに腰を下ろした。 「窓からの景色が綺麗だね」 グラスを手にしながら柚木が言った。虹色の輝きをみせるカットグラスは重みがあり、拓人の手に心地良く馴染んだ。中の琥珀色の液体はジンジャーエールではあったが、それも今まで飲んだどのジンジャーエールとも異なる、生姜の新鮮な香りと細かい泡の刺激が爽やかな飲み物であった。 「この店でも眺めが良い部屋のひとつです」 穏やかな口調で赤荻が言った。 (つづく)
黒塗りの乗用車の後部座席で、右側に朱雀、左側に柚木(ゆずき)の存在を感じながら、拓人は緊張しきっていた。父親に逢いたい一心で来た。その後の事は何も考えていなかった。隣に乗り込んで来た同年代の少年の事も、何処へ連れて行かれるのかも、思う余裕はなかった。 朱雀からは青く甘い香りがした。 (これが、父さんの匂い・・?) 朱雀は黙っていた。窓の外を見ながら物思う風であった。拓人は話かける事が出来なかった。柚木は拓人を気遣う様に話かけて来た。 「君は、僕よりひとつ年上なのだね」 柚木の顔を見て、拓人はどぎまぎした。 (こいつ、女みたいな顔してやがる。うちの高校の女子より綺麗だ) 柚木から目をそらすと、拓人はわざとぶっきら棒に言った。 「そうだよ」 「進路は決めないといけないし、大変だね」 (真面目な奴だな。頭が良さそうだし運動も出来そうだ。育ちも良さそうだし、モテるだろうな) 拓人は柚木に悪い印象を持つ事が出来なかった。何処か人を引き付ける所がある。朱雀と同じに。 「あの、柚木君」 柚木は微笑した。 「柚木でいいよ、僕も拓人と呼んでいいかな」 「いいよ」 「ありがとう」 柚木の笑顔があまりに綺麗で、拓人は恥ずかしさと居心地の悪さを感じた。 (世界が違いすぎる。俺だけが異質だ。でも俺は・・) 「さっき息子が三人いる、一人は前の妻の息子、一人は甥、そしてもう一人と聞いたけど、柚木はどれ?」 柚木は再び微笑した。その笑顔は朱雀に良く似ていた。 「僕は甥。僕の父親は朱雀おじさんの弟、僕の生まれる前に死んだ。だから僕は本当の父親の顔は知らないんだ」 (何の不幸もなそうな顔して、こいつも父親がいないのか) 拓人は柚木と少しまともに向き合う気持ちになった。 「だけど、息子って?」 「朱雀おじさんが僕を引き取ってくれたから」 「そうか」 「前の妻の息子というのは和樹さん。今、あの会社の専務だよ。僕の本当のお兄さんみたいな人。もう一人は紫苑(しおん)の事。朱雀おじさんと百合枝さんの子。百合枝さんはおじさんの奥さん。紫苑はまだ赤ん坊なんだ、可愛いよ。拓人は兄弟はいるの?」 「いない。母さんと俺とずっと二人だ」 拓人は柚木との会話に楽しさを感じていた。柚木が真っ直ぐに自分を見てくれるから。 ホステスの子供というだけで、学校では苛められた。 (俺の父親は立派な人間なんだ。お前等の父親なんかより) その思いが拓人を支えていた。勉強も運動も頑張った。いつか父親と顔を合わせる時が来たら胸を張って逢う為に。 今がその時のはずだった。拓人は隣にいる朱雀の反応が不安だった。自分を認めてくれているのかどうか。柚木と互いの学校の事など話しながら、拓人は絶えず朱雀の反応が気になっていた。朱雀は何も言わない。だが拓人を疎ましく思っているわけではなさそうだった。むしろ暖かい目で拓人と柚木の会話を見守っている、そんな気配がした。 (つづく)
学校から真っ直ぐにここへ来た。ガラス張りの美しいビル。外からホールを眺めると、洒落たスーツに身を包んだ人々が、忙しげに行き交っていた。拓人(たくと)の知らない世界がそこにあった。拓人はひるむ気持ちを奮い立たせ、ガラスの扉を押した。 受付嬢に行き先を尋ねられた。 「社長の息子です」と答えた。 受付嬢は頷き、受話器を取った。短い会話の後、拓人は受付嬢に奥まった隅にあるエレベータへ案内された。エレベータで最上階まで上がり、臙脂色の絨毯を敷き詰めた廊下の先に、その部屋はあった。重厚な木製の扉、金色のプレートには”社長室”と刻まれていた。 (絶対に、逢うんだ) 高校の制服に鞄を持った拓人は胸を張った。すんなりと通された事を奇異に思う余裕は、緊張しきった拓人にはなかった。 ノックもせず、拓人は中に入った。そうでもしなければ、扉の前で永久に立っていそうな気がした。柔らかな光に満ちた空間、奥には大きな机があり、一人の男がいた。只者ではない事が一目で解った。男は視線を落とし、机の上の書類らしきものを見ていた。拓人はつかつかと机の前へと歩いていった。男が顔を上げた。端正な顔立ち、赤味がかった豊かな髪が知性漂う額にたれる様子も美しい。上等なスーツの広い肩に、威厳と人を包み込む優しさと頼もしさが同居している。男は朱雀であった。朱雀は深く豊かな声で尋ねた。 「キミは誰だね?」 「俺は・・社長、貴方の息子だ」 朱雀は椅子に深くかけ直し、指を折って数えた。 「私には息子が三人いる。一人は前の妻の息子、一人は甥、そしてもう一人」 朱雀は目の前の少年に微笑みかけた。 「キミは、そのどれとも違うようだ」 一瞬、少年は怯んだ。だが朱雀を睨み返すと叫んだ。 「貴方は、俺と母さんを捨てたんだ」 朱雀は微笑を湛えたままだった。 「キミとキミの母親の名前を、教えてくれないかね?」 「俺は三島拓人、母さんは三島清美」 朱雀はじっと少年を見た。 少年の周囲を面白そうに歩き回る青い姿があった。干瀬である。この異界の住人の姿は少年には見えない。干瀬はぴょんと飛び上がり、朱雀の机に着地した。しゃがみこんだまま、干瀬はじろじろと少年を見た。 「こいつ、食べてもいいか?」 少年には干瀬の声も聴こえない。朱雀は首を左右に振った。 「もう少し、話を聞こうか」 干瀬への朱雀の言葉を、少年は自分への返事と受け取った。 「思い出したか?」 「キミの母親は、キミに私と何処で出会ったと言ったのかね?」 「母さんは高級クラブのホステスだ。社長が一杯来る」 「ふむ」 「貴方は客の一人だと言った」 「何故、私が父親だと?」 「母さんには解ったって、俺の父親は貴方だと」 干瀬は机の上で目をぐるぐると回転させた。 「”ほすてす”とは、何だ?」 朱雀は干瀬の質問を無視した。こういう扱いに干瀬は慣れていた。干瀬の事が見えない他人がいる時はいつもそうであったから。干瀬は気にする風もなく、再び少年の側に行き、顔を覗き込んだり、鼻をひくつかせたりし始めた。 朱雀は机上のコンソールに手を伸ばした。 「高橋君、車の手配を頼む。すぐに出かける」 女性の声が応じた。 「はい、直ちに手配致します」 少年は身構えた。 「逃げるのか?」 「いや、ゆっくり話せる場所へ行こう」 朱雀は干瀬に言った。 「留守番を頼む」 拓人はそれもコンソールへの言葉だと思った。 「承知」 朱雀は立ち上がった。 二人が出て行くと、干瀬はさっそく朱雀の広い机の上に伸び々々と寝そべった。 (続く)
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