読売の編集手帳
生まれもつ野性を、人は暴れないように飼いならす。司馬遼太郎氏はある講演のなかで、飼いならす装置として欧米人の「聖書」、日本人の「世間」を挙げている。天上の神であれ、地上の他者であれ、誰かが自分のふるまいを見つめている。その目を意識し、視線に恥じ入る心があって、人は文明人であることを誇れるのだろう。イラクの刑務所でイラク人を虐待した米兵が、神の目や人の目を恐れた形跡はない。あるのは、「われひとり、高し」の驕慢(きょうまん)さであり、人の屈辱を喜びとする精神の卑しさである。暴虐の主がフセインから米兵に代わっただけかと人々が疑えば、復興が進むはずもない。貴い目的に賛同し、危険を分かち合う日本など同盟国への背信行為でもある。後手後手に回る米政府の対応を見れば、世間――国際社会の視線に対する感度不良は個人のレベルにとどまるまい。千丈の堤も蟻穴(ぎけつ)より崩れる、という。築きかけたイラク復興の堤を守るには、徹底した調査と厳正な処分を通じて、失われた感度を取り戻すしかない。世間という土壌に数々の名作の花を咲かせた山本周五郎は、作中人物に語らせている。「どんなに賢くっても、にんげん自分の背中を見ることはできないんだからね」(「さぶ」、新潮文庫)。ひとの視線を借りて、初めて見えるものもある。 先日の読売新聞の『編集手帳』から、無断転載。名文ですね。業田良家の漫画でもありました。虐待写真を見たフセインが、『俺の拷問のほうが軽かった』そうかも、しれない。白人は加害力が桁外れに高い。彼等に取って、有色人種は人間じゃ無いのだ。組織の命令で虐待したとしても、あの楽しそうな雰囲気はなんだ?彼等の本質だからだろう。虐待を楽しめるのだ。アメリカ人は凄い。