器界の中の、人間の生前行為の果報を受ける六道または六趣と呼ばれる地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の世界は、即ち迷いの世界であって一口に三界とも呼ばれます。三界とは欲界・色界・無色界を云うのですが、其のうちの欲界は五欲、即ち、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味・触(そく)の五境に対して起こす欲望で、、財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名欲・睡眠欲の五つが常に心を掻き乱している境界で、天上界に在っても,其の一部は此れに含まれています。天人であっても、その最下級に属する夜叉と呼ばれる天上人は極めて恐ろしいとされていますが、仏道本説では、多くは上天に仕えて仏法を奉じて下界の善人を守護してしています。
日本では夜叉を、多くは女性に見立て「外面如菩薩、内面如夜叉」と形容して、尾崎紅葉の「金色夜叉」は黄金のために夜叉と化した主人公を描いています。

「仏教用語」彼是(アレコレ)六・器界三
八熱地獄のうちの地獄・餓鬼・畜生の三道は三悪道といって、さも苦しげなことを味あわされる場所ですが、其れに次いでは阿修羅道もまた同様です。此処に住む者を阿修羅とも修羅とも呼んでいますが、容貌醜く、疑惑と害心を常に抱き、媚びと諂い闘乱に駆り疲れ、暫しの安心を抱けない処を云います。此の闘争を常とするところから、阿修羅の如く荒れ狂うとか、修羅の巷とかの語が生成されました。能の「修羅物」は戦闘にて死んだ者が応報として修羅道に苦しむ姿を描いています。今川義元の軍勢の優勢を聞いても少しも騒がずに、夜襲の前に舞う「人間五十年、げてんの内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり」が有名です。
人間界も、勿論の事、苦がある世界で在ることには変わりはありません。その生老病死を四苦として、此れに怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて、数えて八苦としています。これ等の苦難が迫ってきたところから抜け出すのが容易でない状態が「四苦八苦」です。
「仏教用語」彼是(アレコレ)五・器界二
香水界・塩水界の深さ八万四千四由旬と同じく、四大州・八中州には地下の厚さがあって、此れを地輪と呼んでいます。更にその下には非常に堅固な金剛(金剛石がダイアモンドですから硬さはお墨付き)よりなる金輪なるものがあって地輪を載せています。此の地輪と金輪の境目が金輪際であり、「金輪際動かぬ」の語源となりました。其の金輪も八十万由旬の厚みを持つ回転する水輪に支えられており、其のまた水輪も今度は百六十万由旬の風輪と呼ばれるものに支えられて安定していると云った具合に非常に複雑な構造で成り立っています。
此の器界の中に、人間の生前行為の果報を受ける六道または六趣と呼ばれる地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の世界があります。南方の閻浮提の地下に降ること一千由旬から四万由旬の間に八熱地獄と呼ばれ、熱火をもって衆生を呵責する八つの地獄が相重なっています。地獄は梵語で那洛迦または那洛耶とも言い、歌舞伎の奈落は舞台の上を人間世界に見立てて、その下を地獄に見立てています。歌舞伎の粋な言葉回しには驚かされます。

「仏教用語」彼是(アレコレ)四・器界一
我々が現在何気なく使用している言葉にも、元来は仏教関係の用語で、時代を経て生活に浸透した言葉が随分あります。例えば寿司屋の「シャリ」と云えば、元は仏教梵語で骨を意味し、その白さから米を連想させた言葉です。
「世界」という言葉も実は仏語ですが、仏教上は此の世界を構造面から捉えた時には「器界」と呼びます。器界の中心には高さ八万四千四由旬(一由旬が四十里)の高坏状の須弥山を中心にして、一は深さ・広さともに八万四千四由旬の香水を貯えた香海、その外囲に四万四千由旬の高さの山、更にその外囲に香水を貯えた香海、将又その外囲に二万一千由旬の山と、海と山とが重なること七重に囲まれて居ります。
此の七重の世界の其の外周に四大海が拡がり、四大州と呼ばれる四つの大国を持ち、その内、南方の閻浮提が人間界とされています。更には四大州に八つの中州が付随し、その中に無数の小州があり、日本はその小州のひとつとされています。これ等の大州・中州・小州を浮かべる大海を囲んで二重に堅固な山が囲んでおり、鉄囲山と云い世界の果てとなります。
さすがに、零の発見国だけあって、その数の扱いは図抜けており、此の事を前提にして仏典を読まないと、呆れ果て中途で挫折しかねないので御注意を。仏典の「数の取り扱い」には目を逸らして読むのも一読法でしょう。

「仏教用語」彼是(アレコレ)三・韋駄天
仏法を守護する神々の中でも、韋駄天と云う極めて足の速いのが此の神様です。足の速いこと韋駄天とか韋駄天走りと言うのは此れから来ています。昔から印度では徳ある人の死屍を火葬にすれば、その骨より粒を生じ、その性頗る堅固で砕けないとされ、
供養すれば福徳を得るとして舎利(梵語で骨を意味する)と云うものが祀られていました。中でも釈尊入滅後の仏牙(ぶつげ)の舎利は印度八国の王が兵を率いて押し寄せて、危うく戦いになりそうな勢いでした。此の牙舎利を盗まんとしたのが印度の足の速い鬼、その名も足疾鬼で舎利を奪い取って逃散、それを韋駄天が追って瞬時に須弥山の頂三十三天まで駆け上がります。まさに比肩するもの無き速さの持ち主です。
足の速さと云えば、例の俳人松尾芭蕉が有名です。奥の細道の旅程でも大変な健脚振りで、長い時には一日十三里をこなしています。驚くべき超人さです。俳人松尾芭蕉が伊賀出身で忍者の歩行術を心得ていた証となりましょう。

「仏教用語」彼是(アレコレ)二
「因果応報」と云えば、善因善果悪因悪果により其々の処に生まれるという、仏教の根本的な法則ですが、その場所は人間界ばかりではなく「器界」(世界を構造面から捉えた仏教用語)の中に存在する六種の場所があり、それを六道すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間界、天上界と呼んでいます。天上界の一部を除き六道すべてのものが輪廻しています。
その因果の理法中に現法を重く見るのは日本的な特色でしょう。本来ならば、前世の因が後世の果となって現れるのが因果応報であり、例えば、仏教説話の中にも、寺の天井に住んでいた鼠が、毎日経文を聞いた功徳によって、来世に僧になって生まれ変わるといった話は、その最たるものと云えます。ところが、善果・悪果を眼前に見ようとする現法が日本では多くの例が見られます。日限り様、白波五人男の台詞などが代表的例でしょう。我々が生きていく上でこの因果律が多少影響を与えているのは否定し得ません。

「仏教用語」彼是(アレコレ)一
我々が現在何気なく使用している言葉にも、元来は仏教関係の用語であったもが随分あります。その中でもよく使われている言葉の一つに「縁」があります。仏教では、物事を成立させる原因である「因」を助けて、その結果となる「果」を結ばせる力、因と果の媒介となるものが縁であり、物事が「縁起」するという大乗の教えも此の考え方から導かれています。但し、竜樹の哲学書とも云うべき「中論」では、有為論の教えとは異なり、因と果そのものを否定し、すべての成りたちを縁起(依って立つ)に求める「空観」の立場を説きます。
一般に仏教に在っては、因縁・因果・因業を「業、因、縁、果」の関係と捉え、善悪の所業である「業」によって、善悪の「因」が生じ、此の因が「縁」の助けによって善悪の「果」が生じるとしています。つまり人間のあらゆる境遇が必然的なものだと説きます。「因果応報」の語が示すように輪廻のなかで善悪それぞれの報いがあるということです。云わば、来世でよい報いを受けたければ、この世で善根を積んでおけということになります。

「旧約聖書」聖王登場の道程8
サウルはの長女をダビデに嫁がせ、籠絡してペりシテの戦いに行かせ、その手をもって殺させようとしますがダビデが話に乗りません。ところが、都合よく次女ミカルがダビデを愛することを知り喜び妻として与え、結納にペリシテ人の陽の皮100枚を要求その口実にほくそ笑みますが、何とダビデは陽の皮200枚を持ち帰ります。これで増々サウルを恐れさせることになります。このときミカルはダビデを愛していましたから、結婚を喜び迎えます。ミカルは、父親と愛する夫が対立すると必死に夫を守ろうとします。ミカルの機転がダビデを救います。、しかし、やがて其のミカルをダビデは捨てて他の女たちを妻としてしまう事と成り、捨てられた娘を、サウルは別の男性に妻として与えました。それなのに、サウル王の死後、ダビデは捨てたはずのミカルを無理やり自分のもとに連れ戻します。おそらく、サウル王の後継者となるために、王の娘婿の立場を利用しようとしたのでしょう。しかし、もう二人の間に愛はありませんでした。契約の箱をダビデの町に運び上げる前で権威なく馬鹿騒ぎして踊るダビデに向かってミカルは軽蔑の言葉を発します。ダビデもダビデで彼女を冷たくあしらい、以後ミカルはダビデの子をもうけられませんでした。
サウルは、ダビデを愛する王位継承資格者のヨナタンに王の食卓に来ないダビデの思惑を感じ取り、怒りもって言います。「お前は心の曲がった、背く女の子だ。エッサイの子を選び、自らも辱めている。エッサイの子が生きている限り貴方の王国が堅く立ってはいかない」と、この発言からは父としての悲しみが見られます。それ故、ヨタナンへの期待がダビデの始末に執念を燃やしたと取れそうです。それはその後のダビデとの各エピソードの会話にも表れています。

「旧約聖書」聖王登場の道程7
エッサイの子ダビデがゴリアテの首を持ち帰り、王サウルに自分の出自を語り終えた時、同席するサウルの息子ヨナタンの心がダビデに結びつき、自分命のようにダビデを愛し契約をむすびます。ヨナタンは自分の着ている上着・鎧・剣や弓・帯までも与えます。ダビデはサウルが遣わす戦い悉くに手柄をたて、兵の隊長になります。但し、ペリシテびとゴリアテを殺して帰ってきたときに迎えたイスラエルの女性の祝いの歌「サウルは千を殺し、ダビデは万を殺した。」は、サウルを非常に怒らせ、「此の上、彼に与えるものは国しかないではないか」とダビデの命を窺うことになります。
次の日、何故か神がサウルに悪霊を送りダビデを危地に陥れます。即ち愛用の槍を以って二度も壁に刺し通そうとしますが、ダビデは辛うじて難を避けます。思うに神がサウルに悪霊を送ってまでダビデを窺わせるのは、二人の主の油を注いだ者を、サウルを離れたにしろ納得が出来ず不可解です。その後も千人の長としてダビデを遠ざけますが、民の先に立つようになったダビデはイスラエルとユダの全ての愛を受けることになり、サウルの殺意が高まっていくことになりました。此れからがダビデとサウルの駆け引きが始まり、旧約の物語性が見事に展開します。

「旧約聖書」聖王登場の道程6
此の地上からアマレク人の息のかかったものは抹殺せよとの主の指示を、民への恐れから分捕り物の家畜と王を助命したサウルは、主の怒りを買い、油を注がれた預言者サムエルにも見放され、既に主はエッサイの子ダビデを王と定め預言者サムエルに油を注がせていました。主から来る悪霊に悩まされる日々を送るサウルは其のことを知らず、部下の推薦する琴の名手ダビデを召し抱え、神の悪霊が臨むときダビデに琴を弾かせ、気が静まり、悪霊も彼を離れます。その後、ガテのペリシテびとで名をゴリアテという勇者がイスラエルい立ち向かい挑戦を挑発するも、その威風に慄くイスラエル人は誰ひとり立ち会おうとはしません。
此処に、若き英雄、主に油を注がれたダビデが、王サウルが貴方は若く経験に乏しいと言うのを、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、襲ってきた獅子・熊も撃ち殺した」と言って、鎧を付けずに侮るペリシテびとゴリアテを石投げと石をもって殺し、ゴリアテの剣でもって首を刎ね、それをを持ち帰ります。此の剣が後々ダビデを助けることになるとは予想できなかったでしょう。
