新しい学問 実践編
以前の記事で書いた「プラスチックの定規」の話が本当に腹に落ちたと言いますか確信になってきました。ただ、果たしてその話が分かったところで、事実だったところで一体何の役に立つのだろうか?そう、この感覚の応用法を考えようと思ったのです。よく自己啓発等の本を読んでいますと「ポジティブに考えよう!そうすれば人生変わるよ!」とか書かれています。いや確かにそれはそうでしょう、本当になんでもポジティブに考える癖が付いたら楽しいでしょうしいい気分でいられることでしょう。・・・が、しかし・・・そのように決意して本当にそこまで徹底して考えられるようになる人がどれほどいらっしゃるでしょうか?少なくとも私や私の知人では出来た!という人を見たことがありません。 私なりに考えてみましたら、このいわゆる「ポジティブ思考主義」には潜在的にネガティブが潜んでいるということです。というのは「ネガティブへのネガティブ意識」ということです。ポジティブのみで生きるというのはやって出来ないことはないかもしれませんが。そこに行くまでの間にどれほどのネガティブの否定(ネガティブ)を経験しなければならないでしょうか? そもそもプラスがあればマイナスがあるということで常にプラスばかり見ようというのはあまりにアンバランスになってしまうということになります。 ということで、私が提案したいことは「自由への道」です。 これだけ言われてもピンと来ないと思いますので以下説明をします(当たり前ですが)前回プラスチックの定規が曲がるという話をしましたがそれは例えば思考するという行為が物事を見る時に与える重力圧みたいなものだという感覚なんです。その重力圧により定規は必ず曲がってしまうということです。ただ前回も言ったように曲がった定規というのは必ずポジティブかネガティブになってしまうということです。詳細は前回の記事「新しい学問」を御覧ください。まあそのように思考するということ以外で物事を見ることは難しいのですが練習をすれば結構出来るものです。それは事実をそのまま記述するような見方をするということです。例えば・・・「風邪をひいたから辛い」という文があったとします。もちろん、この文は普通のものに見えます。しかし・・・ 「風邪をひいたからラッキー」という言い方も出来ないでしょうか?いや、違和感があるというのは百も承知なんですけどまあ暫く付き合って下さい。感覚的には変かもしれませんが言えないことはない・・・いや、言いたいことはこれじゃないんです。今は例としてネガティブな見方とポジティブな見方というのを分かりやすく書きましたが・・・ここに書かれたことは思考が入った見方です。思考の部分はもちろん「辛い」とか「ラッキー」という部分です。そう実際に起こっている出来事は風邪をひいたということだけです。そこからポジティブになるかネガティブになるかというのは選べないと思われることがほとんどだと思いますが、私はこれこそ思い込みで一旦事実だけを見るという癖を付けることによってどちらにでも行けるという状態に落ち着くことが出来るのではないか?そう、思ったんです。私達の頭は物事を見るのに思考(感情)を入れなければならない癖があるように見えます。それはきっと安心を求めるからだと思います。私達の頭は(社会もかも知れませんが)わからないもの(不安定なもの)に不安を覚えるんだと思います。だからネガティブであろうとポジティブであろうと判断を下せたところで落ち着くという感覚があるのではないでしょうか?ということで不安を消す為の方法として私はこの提案をしているわけじゃないということをまず断っておきます。そう、この方法はある意味私達を不安に導くかもしれません。しかし、思うんです。必ずこれは自由への道であると・・・だって思いませんか?たまにネガティブになりたい気分の時もあるってそれも欲求ですよ、叶えられてしかるべきと思います。なので私が提案するのは物事をフラットに見る(事実記述的にこの世界を見る)訓練をしてその状態になったら気分に合わせてポジティブに考えるかネガティブに考えるかを選ぶようにできるんじゃないかな~と、思います。あ、嘘は言いません。いろいろな自己啓発の本におきまりの文句「誰でも出来る」とかそんなことは言いません。この方法は私にしか通用しない考え方かもしれません。ただやってみるだけなら自由です。お金もかかりませんし(難しいかもしれないけど)出来ればかなり強力な思考ツールになるんじゃないかと思います。ということでフラットな見方「事実記述的世界観」というものを提唱してこの記事を終了します。