カテゴリ:哲学
最近ずっとヘルメス哲学についての考え方で過ごしてきました。少なくともそのつもりで・・・ 人の目というか考え方は不思議なものでどうやら最近買って読む本や見るTV等で出会う考え方(価値観)等が全てヘルメス哲学に繋がっていく気がするのです。 そんな中今日は苦しみについて書いてみようと思います。 人は生きていく上で様々な刺激に触れ、判断・反応してその中で幸・不幸を味わっていく・・・そういうものだと思います。 さて、上のような生き方によって人は喜びを感じたり苦しみを感じたりして、その中で幸・不幸を判断していくわけですが、ヘルメス哲学によると例えば「善悪」だったり「苦楽」だったり、そう言った相互関係を持つものは実は同じものの度数の違いであると言います。 それは確かなことに思えます。では、何故?何故上のように判断をしてしまうのでしょうか? それはきっと世の中で言われる「常識」とか「普通」、「一般的」と言われる一つの価値観を与えられるからでしょう。 それは私達が生きる上でとても便利なものさしですし、この世界で生きていく上でとても便利な概念なのですが・・・ しかし、ヘルメス哲学を受け入れるならばこの価値判断こそが私達を苦しめる原因になるのではないでしょうか? まあ確かに、この世の中を変人扱いされずに無難に生きていくならば上のような「一般的な」価値基準を持つことはとても便利です。 ・・・さて、これでは板挟みですよね? 価値基準を持つことが生きやすいことであり、それとともに苦しみを作る原因でもある・・・ 私達は一体どうすればいいのでしょうか? 私はここでひとつの方法を提案します。それは・・・ 「諦めること」です。 ・・・今ちょっと待てよと思われた方もいらっしゃると思います。諦めるってなんだ?と・・・ 何を諦めるのか?苦しんで生きなければならないことを覚悟して生きろってことか?と・・・ ・・・まあ半分は当たってるのですが・・・いや、だって全く苦しまない人生なんて悲惨ですよ!?それは喜びや楽しさも全くないことと同じです。 更に言うならこの世界には「絶対」というものはありません。 それは、「絶対」を根底に置いた計画は必ず失敗するということ・・・ なので例えば様々な成功哲学等色々な考え方ハウトゥーを身につけ(気持ちの中で)絶対の自身を身につけたとしても「絶対」の人生を一部の狂いもなく生きることなんて不可能です。 もし、そんなことをしようとすれば何が待ち受けているでしょうか?自己嫌悪です。端から不可能な目標設定をして出来なかったことを理由に苦しむなんて愚かです。 なので一つとして苦しまないことを諦める。苦しんで生きる決意をする。これがスタートなんじゃないでしょうか? それからもう一つ 「自分で全てを見ることを諦める」 これが一番大切なんじゃないかと思います。 私達は普段他の人の考え方や見方を見ることが出来ません。全く同じものを見てもぜんぜん違う見方をする人がいます。でも、そんな意見のぶつかり合いってそうそうあるものではありません。なので、人は主観的にしかこの世界を見ることがないということです。そんな生き方をしていれば自分の見方(価値判断・ものさし)が絶対のウェイトを占めてしまう・・・ 全く不思議なことではないと思います。ですが、価値判断をしてる自分の考え方、それって本当ですか?それって真実ですか?絶対に間違いないことですか? ・・・そうですよね?分からないです。分からないんです。まあとは言えこの世の中では多数の人が似たような価値判断をしているんだとは思うので、人と交わる時はそのものさしを持ち出せばいいのですが・・・ そう、自分の考え方を持つのはいいことですがそこに絶対的な価値を置くことを諦めるということです。 私は今日、心の中だけですが自分のものさしを捨てる決意をしました。 これは一つの世界の崩壊というか革命というかそんな気分でした。 これは今日の帰り道で私の脳内で起こったことなので外側から見て明らかな違いがあったりするわけではありませんが、とてもすがすがしい気分になりました。 それでちょっと思ったんですけど「死にたい」と思ってしまったり感じてしまったりすることがある時、本当の理由は自分を苦しめている自分の一つの考え方(価値判断)を消してしまいたいという心の叫びなのではないかと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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