カテゴリ:哲学
結跏趺坐を組み30分間寝る前に瞑想することが最近の日課になっている。 瞑想の方法は目をつむり30分のタイマーを携帯でセットしてタイマーが鳴るまでひたすら呼吸を見つめるというものです。 昨夜のこと、いつもどおり瞑想をしていましたらふと、気づいたんです。考えることと意識を向けることは違うんじゃないかと・・・ どういうことかというと、考えるとは違う言葉で言うと分析するとか判断するということになります。そして、呼吸を見つめるという行為に関して言えばどちらかと言うと「考える」ではなく「意識する」のほうが正しいのではないかという結論に至りました。 ではどういうふうにすれば「意識する」が実現できるのか・・・ 答えはすでに出ていました。「感覚」。そう、鍵は「感覚」だと直感しました。 呼吸をすると風を感じるように鼻腔、あるいはそれに準ずるもので確かに感じることが出来ます。その感覚に対して「お、これは吸気だ・呼気だ」等の判断(思考)は全くもって必要としないはずです。 そう感じてからしばらく思考を流すということの意味が分かってきて以前感じたようなある種のトランス状態ふうな感覚にはなりませんでしたが、とても静かな心を感じることが出来、これはもしかしたら生きていく上でも応用できるスキルではないかと今日一日を通して実践してみました。つまり・・・ 「意識する」行動です。 まだ始めたばかりですし、それほどの乱されるような問題も起きなかったのでうまくいってるのかどうかは全く分かりませんが、いつもよりも穏やかに過ごせた気がします。 ・・・さてここからはいいのか悪いのか分かりませんが私の思考に入ります。「考える事」とは判断することであるという結論から、私の中に語りかけてくる声というか、私のいつもの癖というか「判断」の文字が浮かんできて見えたんです。判断とは世界を歪める思考や迷いを生じる根源なんじゃないかと・・・ というのは・・・「判断」の字、よく見てみますと「判る」という字と「断る」という字で出来ています。 これは偶然でしょうか?「判断」をして導き出される答えというものはものごとの一側面しか捉えずに行動するということだと思います。それはまるでこの感じが表す通り 「判ることを断る」という行為なのではないか・・・そんな風に思えてしかたがないのです。 これはもしかしたら、アレクサンダー・テクニークにも通じることかもしれません。アレクサンダー・テクニークの教えに「感覚判断はあてにならない」というものがあります。この言葉の言わんとしていることはまさにこのことなんじゃないかと思ったのです。他にもこんな言葉があります。 「考えるんじゃない、感じるんだ」 そう、あのブルース・リーの名言です。これもおそらく、同じことを言ってるんじゃないかと思います。 これからもTPOに応じて考えない(意識する)行動実践していこうと思います。そして何か発見がありましたらここで記していきたいと思います。 以上! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015/05/28 10:16:07 PM
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