カテゴリ:哲学
やっぱり私は別にプロではないし、何を書いても大して怖いことがない。 ・・・ということで、今日も自由に不躾なことは百も承知でだらだら書いていこうと思います。 最近私が勝手に出した答えがあるのでそのことについて今回は書こうかなと・・・ 題して「哲学は何の役に立つのか?」 まあある種の答えとして何の役にも立たないというのはそれはそれで正しいのですが、もう少し考えてみたんです。 ・・・と、これはどこかの本で読んだニーチェと同じことをしてしまっているのかもしれませんが・・・ 「分からないでいられる祐樹を持つことがニヒリストとしての生き方である」 みたいな言葉があったような・・・まあいいや、それはそれで念頭に置いておいて、哲学の意義を探求することと ニヒリストのままそこの核心的な部分に触れないことは両立できると思ったための行為(記事作成)です。 まず、哲学は何の役に立つのか?という問に対して哲学とはそもそもどのような行為なのか?ということを自問しました。全くまだまだ未熟な知識のなかでの考えですが過去の哲学者たちがどのような哲学を提唱したのかについて振り返ってみました。やはり私の頭に浮かんだのはニーチェでした。 ニーチェは「ニヒリズムを提唱して生きる価値そのものを否定しました。 それから次に浮かんだのがプラトンです。 プラトンは「この世界は全てイデアと言われる原世界の写像である」とイデア論を唱えた人です。 次に出てきたのはデカルトでした。 「我思う故に我あり」という有名な文句で知られる哲学者ですがこの方は最後まで疑ってどうしても疑いようのないことを求め、最終的に「自分が疑っているという行為そのもの」にたいしてはどう考えても疑うことが出来ない。つまり「我思う(疑う)故に、我あり」こそが疑いようのないこの世界の真実だと説きました。 ・・・以上があくまでも私個人の解釈です。 なぜこの3人が真っ先に浮かんだのかというと、3人共の思想が私にとってとてもわかりやすいというか受け入れやすいものだったからです。 現代にこの3人が生き返って対談をしてうまくまとまるとは決して思えませんが私の中ではこの3人の哲学をまとめて一つにした知的キメラが可能なんじゃないかと思えたのです。 ・・・まあ思い出話はこれくらいにしまして(というのは上に書いたことは高校生の時にそれぞれお三方の哲学に触れた時に思ったことだったからです) この3つの哲学的キーワード 「ニヒリズム」 「イデア」 「我思う故に我あり」 には一つの共通性が見られるんじゃないか?というのが、今回ふと思いついたアイデアでした。いや、言ってみればアタリマエのことなのですが、今回はなぜかその先が見えたんです。 というのは、上の3つが扱っている対象は「生きていく上で分からない存在」についてのアイデアなんじゃないかということ。つまり、3人は3人なりに自分に納得の行く説明を「なんだかわからない(それに判ることもないであろう)存在」に向けて付与したのではないか?という感覚でした。 まあそれが哲学だと言われればそれまでなのですが、なんだか今日は腑に落ちたんです。 「そうか!哲学は自分自身がオーダーメイドで作る世界観だったんだ!」 そう思いました。この世界は理不尽なことや苦しいこと煮え湯を飲まされるような体験等、たくさんの不条理に満ちています。もちろん、その不条理を生み出すこの世界事態がなぜ存在しているのか?やなぜ生きなければいけないのか?といったことは知るよしもありません。 それらのことがわからないと不安になる人もいることでしょう。そこに希望をもたらすシステム、それが哲学なんじゃないでしょうか? 「哲学は何の役に立つのか?」 上に書いたのがこの問に対する私の(仮の)答えです。 この作業はある種小説のような異空間を脳内に作り出し、そのなかで主人公として生きていくライブドラマのような感覚を味わえるツールとしても使えるかもしれません。 さあ、皆さんも「哲学」やってみてはいかがですか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015/07/04 11:32:56 PM
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