カテゴリ:哲学
ニヒリストであるとはどういうことか?私は普段からニヒリストであることを意識してはいるが、これがというような定義というか生き方を意識していたわけではなかった。 そんなことを思いぼーっと体の感覚、思考等に集中してみた。今、温度(室温)を感じている「ほどよい温度だ」、お尻に当たるクッションを感じている「柔らかい感触だ」、キーボードを叩いている「硬い感触が一瞬一瞬繰り返される」・・・ 様々な感覚およびそれについての思考(感想)が渦巻いている・・・ ニヒリズムとは無意味論という意味と無価値論と言う意味とのどちらかで書かれているが私の思考は無価値論だ。 価値とは何か?それはおそらく相対的なものさしを持つことによって生まれてくる概念だ 例:善悪、寒暖、高低etc・・・ これらの基準は本当に存在するのか?そんな疑問から無価値ということについて考察してみる。 例えば一時期話題になった日本一(もしくは世界一?)低い山「天保山」は本当に低いと言えるのだろうか?明らかにあの山は低い低すぎるだろう。しかし、その高低を決めているのはしっかりとした基準が設けられたことではなく、他に高い山々が連ねられて山に対してのイメージが浮かび上がってくるからだ。 別にこれこそ低いとか高いとか決められた基準が自然界に存在するわけではない。同じように人間の感覚的なものは様々な独自の次元を持っている。それこそ善悪のものさしなどは個人個人で全く異なるものであろうし「ひとまずこの価値観(道徳観)で暮らすようにしましょう」と取り決められた法律もあるにはあるが万人を納得させることは出来ない。 ・・・このように書いていると価値観全てを否定しているのか?何も感じないのか?というように言われることがあるかもしれない。 もちろんそんなことはない。(そうなっている部分も少しはあるが) 痛みも感じれば暑さも感じるし、生きていればそれらの感覚はなくてはならないものだろう。 だから、わたしはそれら感覚のことを否定しているわけではなく、厳密に言うとないものだという視点で生きているということだ。 では、この世界には何があるのか?感じることにより判断を下すという行為、その判断から導き出される答えには個人差があり統一された価値観などは存在しないということであるが、では一体何が存在するのか? こんな疑問がたまに聞こえてくる。しかし、これはちょっとおかしい、何がかというと、そもそもこの質問には最初から言っているようにニヒリストには存在しないと言われている価値観に焦点が当てられているからだ。 対象として扱えるものはもっと手前に存在している。それは・・・そう「感覚そのもの」だ。 私たちは生きているという過程において世界と関わる。その関わりの中で様々なものを感じるその感じたものに対してどのような思考を持つのか?その結果的なものを見て生きていくよりもまずそれを感じるために心があるこの感じるという判断を加えない純粋感覚だけは否定出来ない。 と、これこそ仏教で言うところの唯識という思想なのではないか?ニヒリズムからは仏教思想の唯識が派生するのではないか?最近そのようなことを感じた。私の経験でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016/04/27 01:44:51 PM
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