3300605 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

加藤浩子の La bella vita(美しき人生)

加藤浩子の La bella vita(美しき人生)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
August 11, 2015
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
ナタリー・デセイ(ほんらいの発音は「ドゥセ」)は、私にとって「不世出の歌手」のひとりであると同時に、ほんとうの意味での全盛期を知らなかったという点で、残念なそして複雑な想いを抱かされる歌手です。
 1990年くらいから4半世紀近く、オペラの第一線で活躍していたデセイ。今は、オペラの舞台はほぼ引退です(一度やめる宣言をしてからも瞬間的に?戻ったりしているので、絶対とはいえませんが)。デセイが残念だったのは、21世紀に入ってすぐくらいから声帯の不調に見舞われ、一度ならず手術。その結果、彼女ならではの稀有な声が、衰えてしまったのは事実なよう。私個人が残念なのは、1990年代、手術前のデセイを知らないことです。「それは素晴らしかったのよ」と、聴いた方から言われましたので。。。

 とはいえ、日本に初めて来た(2004年。リサイタル)も、不調のスパイラルに入ってからでしたから、いたしかたありません。生のデセイを聴いたのは、それが初めてでした。
 
 その後、何度かデセイのオペラを見る機会がありました。そのなかでも忘れがたい公演といえば、2010年、ウィーン国立歌劇場での「夢遊病の女」(この時は、ウィーン国立歌劇場の「宮廷歌手」の称号をもらった記念すべき公演でした)。その年の夏、トリノ王立劇場の来日公演での「椿姫」。翌年夏、エクサンプロヴァンス音楽祭での同役。そして、2011年2月、大震災直前のメトロポリタンオペラでの「ルチア」といったところでしょうか。
 
 「声」だけとると、細すぎるとか、痩せ気味、乾き気味といった評価も聞かれるデセイ。それでも(全盛期より衰えたといわれますが)テクニックは素晴らしいし、高音も(私が聴いたなかで好調なときは)張れるし、「ルチア」のようなベルカントものやバロックものでは装飾も自在です。声楽面でのマイナスの評価も、役柄によってははかなさ、悲壮さを出す上で効果的なときもある。デセイの声は、(全盛期はそうではなかったのかもしれませんが)ガラスの絶壁の上を歩いているような刹那的な何かにさらされていて心を揺さぶるし、そこにギアが入るとぐっと迫ってくるのです。
 
 演技は、これはもう、よく言われることですが「歌う女優」そのもの。今時のオペラのプリマは「歌う女優」が人気ですが、たとえばネトレプコだと、役柄を自分のほうに引き寄せてしまう気がしますが、デセイの場合は役柄のなかに身投げしてしまうという感じなのです。もちろん無意識ではなく、とくに歌唱のタイミングなど計算しているのだと思いますが、それにしても何かを飛び越えてあちら側に行ってしまう。それが、「歌う女優」デセイの魅力だと思います。
 
 今日、メトロポリタンオペラのライブビューイングのアンコール上演で、久しぶりにデセイが歌う「ランメルモールのルチア」に接して、いろいろな想いが去来しました。
 そのひとつはやはり、「私はこのひとの「声」の全盛期を知らないかもしれない」という口惜しさです。 
 2011年、現地でも観たまさにその公演のライブビューイングだったということも、無関係ではなかったかもしれません。(NY訪問の目的は、5月に予定された来日公演の取材だったのですが、その1ヶ月後に震災が起こり、来日公演もトラブル続きだったこと、覚えている方も少なくないと思います。来日公演のルチア役がダムラウだったことも)
 
  けれど、一番痛切に思ったのは、デセイという歌手の存在そのものです。「声」に感じる悲劇的なもの、ガラスの絶壁の上を歩いているようなあやうさはかなさが、歌手としての彼女に通底しているような気がする(私の思い込みかもしれませんが)。そこが魅力といえばそうでもあるし、残念といえばそうでもある。デセイは残念ながら、ネトレプコのような強さたくましさに恵まれなかった。声も、歌手人生も。
 
 デセイの「声」は、よく知られているように、ソプラノでも軽く高いタイプです。技術も高く、コロラトウーラも難なくこなす。
 このような声は、当然ながらできる役がかぎられます。「ホフマン物語」のオランピア。「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタ。「魔笛」の夜の女王。あるいは、ちょっと進めて「夢遊病の娘」 のアミーナなど。
 この手の声はかなり特殊であり、時間が経過したからといって劇的な役柄に移行することは難しい場合がほとんどです。ベテランだと、グルベローヴァやデヴィーアが似たタイプですが、2人ともヴェルディはせいぜい「椿姫」くらい、プッチーニは歌いません。今の歌手だと、ダムラウがコロラトゥーラから、次第にドラマティックな役柄へ移行しつつあります。
 けれどデセイの声は、ダムラウより繊細です。きゃしゃといってもいい。ダムラウも小柄ですが、デセイも小柄できゃしゃ。ほんとうに「ちっちゃい」感じなので(一度楽屋で挨拶だけさせていただきました)、きゃしゃに感じられる声でも、よくあそこまで出ると感心させられます。とくにメトのような大劇場で、弱音も含めて自在に声が通るのですから。
 
 けれどデセイ本人は、生まれもった声に不満だったようです。もともと女優志望だった彼女は、それこそヴェルディやプッチーニの劇的な役柄がやりたかったらしい。でも彼女の声はそれに向かなかった。そこは、オペラ歌手デセイの悲劇だったのではないか、と思うのです。
 
 声帯の手術をして以降のデセイは、やや劇的な役柄に移行しました。「ルチア」や「椿姫」のような。声にはかなり負担がかかったと思いますが、本人は本望だったでしょう。その代わり?その手の役柄の全盛期は長くはなかった。キャリアの最後にたどりついたというべき「椿姫」は、4年くらいしか歌わなかったのではないでしょうか。
 その「椿姫」を、東京と南仏で観られたのは幸運でした。東京では、オペラ初体験の編集者嬢たちも何人か連れて行ったのですが、第2幕の途中から一同涙が止まらない状態に。南仏のヴィオレッタはさらに強烈でした。ひたひたと迫る年齢におびえる夜の女性の怯えと哀しみと愛。幕切れで、舞台の上を客席のほうへ向かって歩いてきて、オーケストラピットぎりぎりのところで倒れこんだときは息を飲みました。高音もよく決まっていたと思います。
 
 けれど今回、2011年の「ルチア」を見て、改めてこの時のデセイの素晴らしさに感じ入ると同時に、作品についてもいろいろな発見がありました。 
 デセイについては、これはこれで絶頂期だったのかもしれない、と思い直せました。第1幕の登場のアリアも迫真ですし、第2幕の兄との二重唱も哀れ、結婚式の場面も美しくも絶望的。「狂乱の場」はといえば、これはもうほんとうに素晴らしいの一言です。花婿を殺して現れたところからもう「イッテ」いる。向こう側に行ってしまっている女性だということがよくわかる。階段を転がり落ちながら歌い、血まみれのヴェールを引き裂きながら歌い、なじる対象の兄を恋人と思い違いして迫りながら歌う。もっとも責められるべき相手から恋人に間違えられるなんて、兄にとってこれ以上の恐怖はないでしょう。それも相手は殺人をおかしてきたばかりなのですから。
 カデンツアはデセイの意向で無伴奏。フルートもグラスハーモニカも伴わない声が虚空に舞いました。
 この狂乱の場を見て腑に落ちたのは、「ここはこの音楽でいいのだ」ということです。妙に思われるかもしれませんが、この「ルチア」の「狂乱の場」は、プリマドンナがその技量を見せるために準備された場とも考えられるからです。事実、多くのプリマはそのように歌ってきました。つまり「歌」が中心で、その結果、狂乱しているにしては美しすぎる、能天気すぎる音楽だと感じられてしまう。かなり古いですが、やはりメトで映像を残しているサザーランドの「ルチア」などはそうだったのではないかと思います。これはこれで名演だと思ってはいるのですが。
 ところがデセイの歌う「狂乱の場」は、ここはこの音楽でいいのだ、とうなずけるものでした。音楽とドラマがしっくりいっている。「美しき廃人」となったルチアをあらわすのに、この音楽はぴったりではないか、と思えたのです。
 これは、私にとっては新しい発見でした。
 
 作品としての「ルチア」には、ヴェルディの諸作へつながる流れを見ることができます。とくに「トロヴァトーレ」は よく似ている。これは台本作者が同じだからで(カンマラーノ)、第1幕のルチアの登場のアリアは、状況も内容も「トロヴァトーレ」のレオノーラの登場のアリアにそっくりです。デセイのレオノーラを聴いてみたい、唐突にそう思いました。けれどよく考えてみたら唐突なことでもなんでもない。だって「トロヴァトーレ」の初演でレオノーラを歌ったソプラノ歌手ペンコは、「ルチア」役でブレイクしたひとだったからです。たかだか16年しか違わない作品なのに、なぜ「ルチア」は軽い声で、レオノーラは重い声(下手をするとドラマテイックソプラノ)で歌われるのでしょうか?これはほんらいおかしなことなのです。
 「トロヴァトーレ」といえば、最近はバロックオペラのプリマ、シモーネ・ケルメスも名唱を残しているオペラ。デセイにも、歌って欲しかったなあ。レオノーラは軽い声でいいのだ、という認識はまだまだ共有されていないので、デセイがもうすこし後に生まれてくれたらよかったのに、と思われたことでした。
 
 「ルチア」はまた、「椿姫」ともとても近い作品です。バリトンの悪役。ヒロインを説教する年配の男性(「ルチア」ではライモンド)。それも改めて発見できて、興味は尽きないのでした。
 
 ああだったら。こうだったら。ある歌手の公演を見て(聴いて)、そんな想像をあれこれしてしまうのは、やはりそれだけ、その歌手に惹かれているということなのでしょう。 
 
 デセイの「ルチア」、ライブビューイングのアンコール上映は、残念ながら残り1日(明日12日の午後)だけです。これも残念ながら、デセイの「ルチア」はDVDにもなっていません。
 
  






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  August 19, 2015 09:25:12 PM


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

プロフィール

CasaHIRO

CasaHIRO

フリーページ

コメント新着

バックナンバー

March , 2024

© Rakuten Group, Inc.