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東京・春・音楽祭のハイライト公演、「ジークフリート」(演奏会形式)に行ってきました。 みなさん各所で絶賛されていますが、ほんとうに素晴らしい公演でした。 この音楽祭、演奏会形式によるワーグナーのオペラがメインです。2014年から「指環」が始まり、これまでも水準の高い演奏でしたが、今回は前2回にも増して満足度の高い公演でした。 何しろキャストが素晴らしい。題名役のアンドレアス・シャーガーの、若々しくエネルギッシュなジークフリートは、身振りも交えながらの熱演で、すっかり引き込まれました。美声だし、柔軟性に富み、何より、繰り返しですが若く無鉄砲なジークフリートという人物がよく伝わります。「愛」を知ったときのおののきも、聴き手にちゃんと伝えてくれて。この作品が「成長物語」であることを実感させてくれるジークフリートでした。 他のキャストも、脇役?に至るまできわめて高水準。さすらい人(ヴォータン)のエギルス・シリンズのやや癖のあるノーブルさ。ミーメ役ゲルハルト・シーゲルの、(人物の性格もあわせて)ゲスな巧妙。そしてアルベリヒ役が、美声(声量も⚪︎)に加えてやたらうまいので誰かと思ったら、トマス・コニエチュニーでした。まだまだ若いヴィーブケ・レームクールというコントラルトが歌ったエルダも、深く広がりのある声で素晴らしかった。 マレク・ヤノフスキの指揮も、前2回よりさらによかったと思います。明晰で見通しがよく、快速調で全体を俯瞰させてくれ、でも音楽のもつ生命力はいきいきと。第2幕の自然描写や、全曲幕切れでの幸福感は忘れがたいものがありました。主人公が剣を鍛えたり怪獣と戦ったり炎の山に眠る美女を目覚めさせる「ジークフリート」って、今でいえばSFスペクタクルなのだなあ、と実感したり。演出がまったくない状態でそれを見せつけてくれたのは、やはり音楽の力、指揮の力ではないでしょうか。個人的に、こういう明晰なワーグナーは聴きやすくて好きです。 それにしても、ワーグナー歌手は人材豊富です。この方面にはうとい私でも、次から次に出てくるな、という印象を受けます。今回の歌手だって、バイロイトやウィーンで歌っているような人ばかり。そして指揮のヤノフスキはこの夏からバイロイトで「リング」ですから、バイロイト並みの演奏を東京で体験できているわけです。うーん、個人的にはこれで十分満足、ですね。 この充実ぶりを前にすると、いつもながらヴェルディ歌手がいないな、とため息が出てしまいます。昨今のロッシーニ〜ベルカント歌手の充実ぶりを見ても、同じため息が漏れてしまいます。ロッシーニやワーグナー歌手の充実と、ヴェルディ歌手の払底の背景は、と思うと、ゆきつくのが「聖地」の有無。ワーグナーはもちろんバイロイトですが、ロッシーニもペーザロの「ロッシーニ音楽祭」があります。バイロイトはワーグナーの死後今に至るまで続いていて、ワーグナー歌手、指揮者の目標でもあり、演奏家も含めて世界中のワグネリアンが集って競い合う。磨かれます。ペーザロでは、ロッシーニ作品(復活上演も含めて)の上演にとどまらず、研究、教育と、総合的にロッシーニ作品を復興している。何度か行きましたが、いつ行っても上演の水準が高くて驚きます。ペーザロを「イタリアのバイロイト」と表現する人もいるのですが、最近つくづく腑に落ちるようになりました(町の雰囲気はバイロイトとは似てもにつきませんが。笑。食事の美味しさや海辺のリゾートであることなど)。 ペーザロの大きな長所は、なんといっても創設者のひとりで中心的人物だった「ロッシーニの神様」アルベルト・ゼッダ氏の存在です。指揮も研究も教育もできる彼がいたからこそ、研究の成果や教育の成果が上演に反映される音楽祭が生まれたのです。こんな音楽祭は、めったにありません。 ヴェルディだって、生地に近いパルマで「ヴェルディフェスティバル」があります。けれど悲しいかな、ここにはゼッダ氏に相当する人物はいません。ペーザロにロッシーニ研究所があるように、パルマにもヴェルディ研究所はありますが、研究者が中心で実践とはつながっていない。演奏の中心である王立劇場も、音楽的に引っ張っていくような中心人物がいない。経済的な困難もあり、維持するだけが精一杯です。これでは、歌手や指揮者の育成などとてもとても、という感じです。初期作品の積極的な上演に取り組んだり、がんばってはいるのですが、そして時々、「あっ!」と思うような若い演奏家に出会ったりしますが(バッティストーニを初めて聴いたのもヴェルディフェスティバルでした)、でも、彼らが継続的にとどまってポストを持つわけではない。そこが問題です。 まあ、ヴェルディは、少なくともメインの作品はレパートリーとして途絶えずに上演されてきているので(長い間「セビリア」だけがレパートリーだったロッシーニとは違って)、そのなかで歌手も出ているではないか、という意見もあるかもしれません(いわゆるスター歌手の大半はヴェルディを歌うわけですし)。けれどその結果、演奏習慣の見直しなど、ロッシーニやベルカントで行われいることが行われないままに来てしまい、気が付いたらレベルではそちらに負けてしまった。弊害の大きな「大声趣味」(極端にいえば声量第一という趣味でしょうか。そういう歌い方をやっていると長続きしないような気がするのですが)が残っていることも問題です。 あるいは「ヴェルディの劇場」といえば「スカラ座」がある、という意見もあるかもしれませんが、やはりスカラ座はレパートリー劇場で、ウィーンのオペラ座みたいなものですから、特定の作曲家の作品ばかり上演するわけには行かず、研究機関になるわけにもいかない。 結果、私見ですが、今、ヴェルディの歌手で期待できるひとたちは、ロッシーニ歌手から出てきている(クンデ、バルチェッローナ、メーリ)。 その流れは歴史的に見てもうなずけますし(ヴェルディ「オテロ」の主役を初演で歌ったタマーニョはロッシーニのセリアも得意だったそうです)、個人的にはロッシーニをきちんと歌えるひとは技術的なレベルが高く安心なので、歓迎です。でも、やはり、ヴェルディアンとしては寂しい気持ちはあります。なぜその潮流がパルマで起こらないのか、ということですね。でもイタリアの劇場というのは、ペーザロみたいなところは別として、良くも悪くも「伝統的」(その「伝統」は必ずしも肯定できるものではないのですが)なのです。うーん、それ、今では弊害の方が大きいような気がしています 「ジークフリート」の素晴らしさを語るはずが、愚痴になってしまいました。。。お許しください。
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最終更新日
April 10, 2016 09:50:57 AM
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