カテゴリ:インテリア、茶箱、クラフト、工芸、手作り
“今年はあそこが出てないね”
“あ~、箱に入っちまったよ” “そうかいね、もうすぐ自分らだな” “伝統工芸展やると毎回こんな話しばっかしとるなあ。” “まったくだ。ははは。 江戸小紋染職人、その道60年の青木啓作さん(写真右)と、鋏職人、その道64年の大河原享幸(おおがわら たかゆき)さん(写真左)の会話だ。 11日に終わった新宿高島屋の伝統工芸展での事。 大河原さんは15の歳からその道一筋。 終戦直後からずっと鋏を作っている計算だ。 師弥吉氏の流れを汲む平次郎氏に師事、と、経歴にある。 どの工程も全て手作業。 鉄の棒を一本、何千回も叩いてそれぞれ左右の刃を作っていく。 昨今、持ち手は別に作るらしいが、こちらは一体型。 定規など一切使わない。 そして、別々に何本も叩きだした左右の刃は、どれを組み合わせてもぴたっと合うという。 すごすぎるっ。 と、思うのだが、誰がこのすごさを継承していけるのだろう。 作る人にとって必要不可欠なのは、「使う人」。 使って理解し、大事にできる人。 この鋏を存分に活かしているのが江戸小紋の青木啓作先生だ。 何十年もずっと大事に使い続けて実感している。 「この鋏だと、ほんのわずか生地目をそれると“コツっ”と刃が止まるんだ」。 ふ~ん。 鋏も鋏だけど、止まる鋏の刃を感じることができるのも熟練だと思うけど。 鋏職人の大河原さん曰く、「私の鋏の使い心地を聞かれたらね、あんヒトんとこへ聞いてくれっていうんだよ。私しゃ口下手だしねえ。」だそうだ。 翳りは「使う人」の感性の鈍化から始まるのじゃないか。 より簡単に、より早く、より安く。 これは仕方のない流れだろう。 でも、人は機械じゃないから、いずれ「ぬくもり」を求める。 飲み、食い、眠り、繁殖することに必要のないものはみな「余剰」。 しかし、人間には枷がある。(枷と呼ぶか、恵みと呼ぶか。びみょーな感じ。) それは「知性を伴う心」。 人は「心の領域」の充実を求めるものだ。 その心が「余剰」を生む。 そして「余剰」が心を育む。 祈り、音楽、絵画・・。 およそアートというものはすべて心の領域だ。 伝統工芸と呼ばれるようなものは、すでに生活に必要不可欠なものとしての役割は超越している。 それなら、これらは間違いなく「心」の領域。 西の鍛冶師と東の鍛冶師は、言葉を使わなくても通じ合うことができる。 人は「心の領域」でのみ、あらゆる境界線を越えてひとつたり得ることを実感できるのだと思う。 きっと生命体としてとっても根源的なところに通じているに違いない。 そういうことだから、大事でないはずがないのだ。 ないのに。 この歯がゆさはどうだ。 江戸小紋の青木啓作さんは80歳。 脚腰の不調で激痛を抱えながら杖をつき、重たい荷物を肩からかけて、毎日八王子から新宿までバスと電車を乗り継いで通う。 自らの、そして周囲の伝統工芸のために、生活のために、朝から晩まで、聞く耳を持つ人に語り続ける。 (1月2日から新宿京王デパート、続けて6日から新宿高島屋が11日まで。その後同じフロアの「匠のコーナー」で16日まで、ぶっ続け2週間以上の出勤) ある夜、お見送りをした。 8時を過ぎて、外は暗い。 雑踏の中、たった一人、杖をついてゆっくりと駅へ向われる。 その後姿に、日本の伝統工芸の今の姿が重なる。 日本には世界に発信して貢献することのできるアートがこんなに沢山ある。 江戸小紋の青木啓作先生も、 鋏の大河原享幸先生も、 そして、静岡の山奥で茶箱を作り続けている茶箱屋さんも、 日本の手仕事と心を背負って、高齢をおして一生懸命働いている。 きな臭いことの何にもない、純粋な人類の宝ものを身体に寄せて。 風前のともしびを見つめながら。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
ピンクパンプキンちゃんさん
コメント有難う! 普通にみれば普通のおじい様たちの井戸端会議にしか見えないですね(笑)。 何はともあれ、自分にできることを粛々とやろうと思っています。 大河原先生の鋏を使って江戸小紋インテリア茶箱をね。 先生がたの厳しい目でご指導ご鞭撻を頂くなか、自分の未熟さに愕然とする! それでも間違いなく身に付くものがあってとっても嬉しい。大事な時間をいただいている事を肝に銘じて頑張ります! (2011.01.14 00:33:26) |
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