|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
セラピストMASAの「心の旅日記」 [全768件]
ふとした時。 あふれ出る愛。 包まれている優しさ。 無限と永遠を知るとはこういうことかと思う。 いつもこの状態の中にいるわけではないけれど。 それでも訪れは増えている。 浸ろうと思えば、いつでも浸れるような・・・。 ああ、もうすぐだ。 本当にもうすぐだ。 すべてが集約してしまうことが。 分離なき人生。 私であることと宇宙であることが一つである人生が。 完全に訪れる。 その約束の時まで。 あとわずか・・・。
世界を変えることは、本当はそんなに難しいことでは無い。 実に優しく、軽やかに、暖かく、健やかに、世界を変えることはできる。 その真髄は自分が変わることだ。 自分と言う存在が変わってしまえば、自分の焦点を当てて体験しているパラレルワールドの選択もまた、変わらざるをえない。 自分に優しくあって欲しい。 自分自身そのものになってもらいたい。 限りなく自己受容をしてみて欲しい。 そうしたら・・・世界は最もあなたにふさわしい場所へと流れていく。 あなたが自分を受け止めれば、受け止めるほど。 あなたが自分という存在に安らげば安らぐほど。 世界はあなたにふさわしい世界へと変わっていき、留まる所を知らない。 あなたが矛盾無く、葛藤無く、分離無く、あなたであること以外に、本当は必要なものは何も無いのだ。 あなたと世界は一つのものなのだから。 まぎれも無く・・・そう、まぎれも無く。 それは、やさしいことなのだ。
私の母方の祖母が亡くなったと訃報が届いた。 その日の朝、6時ころに目が覚めて、そのまま寝れなくなった。 その朝は(こういう表現は本当は使いたくないが)霊的な体験があるわけでもなく、例えばよく私が経験する「振動を始めて、身体を感じなくなり、温感に包まれ、意識も拡大し、一体感に至る」というようなこともなかった。 別の次元で別の存在に会ったという感覚も明確には無かった。 何かおかしな気分だった。 落ち着かないような、でもネガティブというわけでもなく、ある種の爽快感のようなものもあり、わけがわからなかった。 その後、訃報が届いた。 『今朝方、おばあちゃんが亡くなった』と。 「ああ、そういうことだったのか」と思った。 感じてみた限りでは、割とすっと上がったようだ。自分が落ち着くべき次元の場所にもう収まってしまったようだった。 祖母はもう90歳を越えていたから、大往生の方なのだが、痴呆が進みもう何年も専門の施設に入って暮らしていた。 老衰で施設の中でそのまま亡くなったそうだ。 もう私も誰だかわからなくなっていて『あんたはどなたさんですか?』とか、会うたびに毎回言われたりしたのだが「孫、孫」と毎度答えるのも、お定まりの行事になっていた。 施設では結構、人気者だったらしい。 人生全般的にかなり自由に自分勝手に生きた方の人なので、周りに多少の迷惑もあったのだが、まあ、おばあちゃんらしいと言えば、おばあちゃんらしいかと。 叔父(母の弟・祖母の息子で長男)から母に「戒名どんなのにする?」という相談があったそうだ(私は個人的には戒名なんていらないんじゃないという人なのだが)。 それを後で聞いた私が「かなり自由気ままに勝手に生きた人っていうのを戒名にしたらどんな風になるんだ?」と言ったら、母は『そうだ、そうだ』と大笑いしていた。 叔父と母が電話で話していたそうだが、『施設で亡くなってよかったね』と。 おそらく病院に連れて行って入院という事態だと、祖母の今の状態ではパニックになったろうというのが叔父と母の見立てらしい。 痴呆が進んで、誰が誰かもわからず、見知らぬ環境や状況に置かれると、不安で異様におびえる感じだったという。 祖母の中でどんな基準があったのかよくわからないのだが、57歳以降は、翌年に年齢を聞いても「57歳」、その次の年に年齢を聞いても「57」歳、いつ年齢を聞いても「57歳」だったので、当時子供心に変に思っていたが、祖母はずっと自称「57歳」を押し通して生きた。 ので90歳を越えて鬼籍に入ったが、私の中では「自称57歳」の大往生である。 祖母が痴呆になってからかなりの年月が経っている。 そうなる前に最後にもらった電話で、『ええか、真っ正直に生きていたら、お天照さんはちゃんと見ているで、いつかはきちんと報われるで』みたいなことを言っていた。 唐突に脈絡も無く言われたので、うろ覚えな部分もあるのだがそういうことを言われた。 今にして思うとこれは私への祖母からの正式な『遺言』みたいなものだったのかなと思う。 色々なものを思い出し、色々なものを思い出に変え、収まる所に収まり、人は生きていく。 つくづく思うのだが、見えない人だろうが、見える人だろうが、同じ時代を親しく生きた人々は、同じ川の上の船に乗っている。 船は違うかも知れないが、同じ川を下る隣を走る船に、その人は乗り換えただけだ。 人生をこんどは違う船の上から、伴走してくれているだけの話しだ。 どんな人だろうが、どんな存在だろうが、最後の最後の最後にはあの「平安」にたどり着く。 あの「存在」そのものである「平安」こそが、私達が最初の最初の最初に生まれ、最後の最後の最後に帰って行く所。 「生きる」ということそのものが「答え」。 そして世間一般で言う「亡くなった」とは、「生き方を変えた」ということに異ならない。 「亡くなった」とは、「無くなった」ということではないのだ。 そういうことだ。 「生命」は続いていく。 形を変え、生き方を変え、表現の仕方を変えても。 「永遠」に。 「生命」そのものから生まれ、実は「生命」そのものであるのが、私達の究極の正体なのだから。 大丈夫。 私達は生きていく・・・そう・・・大丈夫。
(実際にリアルな虐待でも受けているのなら、ちょっと違う対処が必要になってくると思うので、そうゆうのとは少し違う話しという前提で) あの人のあの言動や行動が気に食わない。 世の中のこういうことが気に食わない。 あれがうらやましい、これが面白くない。 でも、その奥にあるのはなんなのだろう。 そこで感じている主人公は自分。 例えば自分の中の無力感、それを「あいつのせいだ」怒っている部分、「仕方が無いのだ」と言い聞かせている部分、「もっと報われていいのに」ぼやいている部分」、「自分にはできない」と嘆いている部分、その他、心の領土の様々な部分がせめぎあっている姿、背景にあるのは何らかの形での「恐怖」。 結局、それは他人がどうのとか、状況がどうのとかでは無く、自分の心の中のある部分とある部分の摩擦・葛藤なのだ。 全体的に言うと、肯定と否定の間を行ったり来たりして、様々な理由付けをして、自分を裁き続けている。 それは自分の心の中で行なわれている戦争なのだ。 だから、その心の中のそういう部分を外に見える何かに投影して解決しようとする。 それは外に形を持って表した、とてもわかりやすい姿だからだ。 でも、目の前の何か、例えば自分の心の中の押し殺した見たくないある部分をあぶり出す、疎ましく感じる誰かを排除したり、その者が失脚したのを見て喜んでも、多分、次のあなたのその心の部分を突っつき、嫌な思いをさせてくれる誰かがまた現れるだろう。 自分のその心の部分は何ら変わらず、また同じ問題をわかりやすく外のスクリーンに映して、同じドラマが繰り返される状況を、あなたはまた創造するだろう。 その自分の心の中の戦争に何らかの形できちんと向かい合って、戦争を終わらすという決着は付けなかったのだから。 原因がそのままの戦争は、また繰り返されて終わらない。 (例外はあり得る。でも、それは述べるのならまた別の機会にでも述べよう) 究極での話しをしよう。 究極での話しだ。 意識的にせよ、無意識の内にせよ、あなたはその状況を創り出し、その状況を経験し、その状況から理解や感情的な情感や成長や学びを引き出そうとしている「神」なのだ。 リアル過ぎるほどリアルに感じる幻影を自分に課している「神」なのだ。 究極でのその戦争の終わらし方を一つ教えよう。 これも究極での話しだ。 戦争そのものを止めてしまうのだ。 理解を得てしまうのだ。 感情的な情感を得てしまうのだ。 成長を得てしまうのだ。 その究極の姿は、神そのものの姿である。 これは言葉では説明できない。 ただある。 恐怖と言う名の分離の幻想はそこには無い。 究極の理解がある。 無条件の愛がある。 真実がある。 無限の豊かさがある。 「存在」そのものである姿が。 世界が自分の心の投影であることを知っている姿が。 創造主として自分の創り上げた世界を所有している姿が。 その時、本当にそうなった時、自分の心の中の葛藤→戦争を外部に投影していたものは、自分の世界からは消える。 後には何も残らない。 それが仮に他人の誰かあった場合、その人自身は勝手に生きてやっているだろうが、まったく気にならなくなる。 自分の人生にも関わってこなくなる、自分も関わらなくなる。 逆にその人に対しても、良くも悪くも今まで見えていなかったものを見るだろう。 やっと自分の心の戦争の投影では無い、本当のその人の姿を見ることになる。 それは思っていたより美しい姿かも知れないし、思っていたのより醜い姿なのかも知れないが、それすらどうでもよくなる。 ただ、微笑だけが残る。 懐かしさのような。 感謝がある。 その時、初めて自分がその人を、自分の心の牢獄から自由にしてあげたこと知る。 そして何よりも、自分を自分で創り上げた牢獄から解き放ち、自由にしてあげたことを知る。 戦いは終わる。 あとは「平和」しか残らない。 そう、心の深い「平安」だけしか・・・残らない。 心の戦いは終わり、戦争は終焉を迎えたのだ・・・。
昨夜は珍しく悪夢を見た。 正確には悪夢とは違う。 別の人生を一生経験したような、そんな感覚で疲れ切って目が覚めた。 それは、ある意味ではある過去生を一通り追体験したと言ってもよく、ある意味では別のパラレルワールドの人生の一生分を一晩で早送りで体験したと言ってもよく、あるいは私とは別の人物のもしかしたらあったかも知れない一つの人生のエッセンスを体験してみたと言ってもよい。 文字通り一睡の夢。 それは時代背景とでもいうべき、社会的な重圧が重荷としてのしかかり、一生をまるでひき臼ですりつぶされるかのように生きた人の人生だった。 戦争もあった。経済の混乱もあった。様々な形での人々や社会との軋轢もあった。 その局面、局面で、その人なりに一生懸命生きたみたいだけど、人生にこれでもかこれでもかと次々と降りかかる重荷を、最後まで降ろすことはかなわずに、重圧の中で苦しみと共に亡くなった人の人生だった。 目が覚めて思った。 これはこれで一つの人生だ。 一つの物語、一つの経験だ。 そして人類の歴史上、このような人々が大半だった時代を、人類は生きてきたのかも知れない。 ただ・・・もう私は知っている。 真実を。 そして私達が生きているこの「時代」ですら、もはや今までのこのような時空の中には無いことを。 ある意味では、それはとても幸せなことなのかも知れない。 でも、それを選択した最後の主権者は、まぎれも無く自分自身でもあるのだ(これは誰でもがそうなのだ)。 私は伝えよう。 新しい時代の息吹を。 それは同時に最も古くから伝わっている、世の片隅でひそかに語り継がれてきた、神秘のベールの中に覆われてきた「真理」でもあるのだが。 今まで隠されていたものがあらわになり、すべてを知った上で何を選択するのかを、問いかけられている時代が来たのだ。 多くの物事が、今までのやり方では通用しなくなって行く。 今まで社会的に結構、幅を利かせてきた我執や偽りに基づいたやり方が、今まではうまく回ってきたし、ごまかしも通用したものが、どんどん歯車が回らなくなって行く。 なぜなのかもわからずに、戸惑い迷う者も多いだろう。。 新しい時代は、もうその目の前にまで来ているのだ。 あなたの目の前にまで・・・あなたが気付くことを待っているのだ。 あなたがそれを許可しなければ、その時代があなたの人生に訪れることは難しくなる。 合わない昔のやり方を繰り返して、うまく回らない人生の歯車を感じるだろう。 「真実」を生きなさい。 あなたの「真実」を。 我執や偽りに基づくのでは無い、あなたの本当の心からの「真実」を。 それこそが「自分の人生への通行許可証」なのだから・・・。
朝方、寝床の中で目覚めた時。 あのまっとうき平安の中にいた。 そこは完全だった。 そこで世界の完璧性を感じていた。 その一瞬だけ、何回かビジョンで見ている未来の自分だったと言ってもよい。 私は例えようも無い一体感を感じていた。 もはや言葉で表現できないと思った。 思考や概念で説明できることでは無いのだ。 それでも何とか、言葉や文字にしなければ、何も伝わらないこの世界の矛盾。 「ああ、これなんだ」と思った。 ただ道端を足で踏みしめて歩いているだけでも。 その一歩の中にでさえ。 潜むものの顕現した状態。 人は記憶喪失の神を演じているだけの存在なのだ。 いつかは・・・いつかは・・・例えるならば、今の様なまるで時々仮接続のような状態では無く。 ある日、ガッと入ってきて至ってしまってつながりきり。 日常ですら常時接続で、生きることになるだろう。 でも、それは外見上、自然で、普通で、あるがままで、あるというだけのことだろう。 ああ、そんな難しい話しでは無いのだ。 スピリチャルな何かを歌っているものでさえ、分離の幻影に基づいた恐怖をてこに世界観を展開し、実際に平安を得られることは無い泥沼のゲームを提示しているものもざらにあるのだから。 究極の話しをすれば、決まりきった幸せへの手順なんか存在しない。 「存在」そのものであることが「答え」。 ただ「ある」ということ。 それを忘れているふりをしているだけ。 思い出した状態では、あれこれはいらない。 分離の幻影が無い。 したがって恐怖も無い。 ただ「それ」だけがあるという状態。 人であることも慈しみながら・・・。 愛と優しさに包まれながら・・・。 生きている。 本当は伝えたいことは、ただ一つ。 ただ一つ・・・だけ。
最後の最後は人知を超えたゆだねなんだなと。 その人知を超えた部分も自分自身なのだが。 一致点があるのだ、その人に取っての。 すべてが整合する場所が。 自我(エゴ)も、魂意識(ハイアーセルフ)も、宇宙意識・神意識(ゴッドセルフ)も、すべてが一点に集約して、一致する場所が。 そして、それがほぼ恒久的に続く人生をおくる事は不可能ではないのだ。 青虫から、サナギになり、脱皮して、蝶になれば、もはや後戻りすることは無い。 それは一つのゴールであり、また新たなるスタートでもある。 サナギの状態の時、外見はまったく変わらない、動きというものがまったく見えない。 でも、中ではすさまじいまでの創り変えが行われている。 (80%以上の部分が創り変えられてしまうのだ) それに近い状況を過ごしていたのかも知れない。 私の最後の部分がゆだねに抵抗しているのだけど、本当は必要ないこともわかっている。 すべてはある形で完璧だったし、完璧なラストへと船は向かっているのだ。 途中、色々と蛇行したように見えても。 すでに未来の自分がいる場所へと。 あの光り輝く手で出来た船 は向かっている。 それだけの人生を送ってきたのだ。 確かな人生を。 様々な者達に愛されながら・・・。
「今ここ」。 3次元の物質次元で肉体を持って生きている私達に取って。 すべての基点となる所。 すべての力の原点。 ただピタッとはまりにはまれば。 すべての歯車が噛み合い、世界のすべてが動き出す。 相対の世界の投影で出来ているすべての総体である「大いなるすべて」(オールザットイズ)が、永遠と無限を保証するなら。 「ワンネス」(一つなるもの)は、究極の絶対を保証する。 そのワンネスの状態に、この時間と空間のある3次元で一番近い地点が、「今ここ」と言えるのだ。 ただある。 存在そのものとして。 裁かず。 価値判断を付与せず。 世界の創造主にして、自分が経験する世界のすべての所有者として。 ただある。 今こここに。 自分の心の本質だけを抱え。 自分の響きの調べだけを奏でて。 裸の自分自身で。 ただある。 今ここに。 それがすべてはまり、すべての宇宙の歯車が回り、あなたがあなたの投影したすべての世界を知る時。 あなたは知るだろう。 自分が経験したかったことを、自分が経験していたことを。 今までは、自分以外のものを一生懸命重ね着して安心しようとして、逆に苦しみを味わい、身動きが取れなくなっていたことを。 そして、自分の心の本質だけを抱え、自分の響きの調べだけを奏でて、まぎれも無く自分自身を生きた時。 世界はまさに自分の心をスクリーンに映し出した映画であったことを知るだろう。 あなたの体験する世界のあまりの激変ぶりに、あなたは目を見張るだろう。 その世界もまた、あなた自身であったことを知るだろう。 あなたに必要なのは恐れを克服し、真実の自分を余すことなく生きることだけなのだ。 あなたがあなたを生きなければ、世界は変わらない。 おそらく、自分に合わない服を何着も着込んで身動きできないような、不自由な日々が続くだけだろう。 ただある。 今ここに。 あなたがあなたとして。 それ以外のものは、本当に何も必要が無いのだ。 それこそが宇宙の仕組みそのものの姿なのだ。 宇宙はあなた自身でもあるのだから・・・。
人生の表でどれだけ嵐が吹き荒れているように見えても。 世界を創り出している最も深奥にあるものは「平安」なのだ。 あの「絶対」の「平安」が世界の基盤となっている。 そう・・・だから・・・本当は、大丈夫なのだ。 あなたの真の姿が現れる時。 あなたは知るだろう。 大丈夫。 そう、大丈夫。 あなたと世界の調和の果て。 たどり着く場所にある大いなるものを。 いつか、あなたは知ることだろう。 その日まで。 その足で歩むがよい。 人生を。 しっかりとしたあなたの足どりで。
とても深い真実。 でも、当たり前で普通で自然なもの。 『ワンネス』という究極の姿はわかった。 そこへ還元されてしまうことを、人生の究極のゴールにしている人も多いのだろう。 でも、私に取ってのゴールはそこではなかった。 どうしたら、どのような姿が、あの絶対の『ワンネス』と、相対の世界の人の世での私という個性を持った「人間」との折り合った、私の望む生き方が結実された姿なのだろう? 何度かそう生きているらしい未来の私の一つの可能性のビジョンを見ていた。 でも、そこまで行ききれない自分にも煮立ちを覚える。 それでも段々、何かが染みて来るように。 何かに浸されていくように。 寄せては返す波に揉まれている様な中で。 確かな実感が訪れ始めた。 その場所に押し流されていく船に乗っている自分がいる。 そして・・・いつか必ずたどり着くのだ、その場所に。 それがいつのことなのかを知ることは、人知を超えているのだけど。 そんなに遠い日のことでもないという感覚もある。 むしろもはやこの局面まで来てしまえば、手放せば手放すほど、その大いなる流れは船を着実に運んでくれる。 最後の最後まで私がしがみついているものがむしろ船を留めている。 その最後までしがみついているものとは、多分、人間性に基づいた「やるせなさ」のようなものなのだ。 言葉を変えて言うなら「今ここ」を受け入れ切れていないのだ。 自分の人生と自分自身を「完全に全面的な自己受容」し切れていないのだ。 でも・・・その自分自身でさえ、裁くことを止めた。 何だろう? 静かに静かに。 優しく優しく。 確かに確かに。 私は運ばれているのだ。 私を運んでくれている船は。 光り輝く手で出来ていた。 何本もの何本もの光り輝く手が。 私の真の願いをくみ取り。 私を支え、私を運んでくれていた。 それは美しい・・・本当に美しい光景だった。 涙がにじんできた。 こんなにも私が愛されていたことを・・・私は知らなかった。 そう、知らなかったんだよ・・・私は。 |一覧| |