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1940年(昭和15年)6月14日、第二次世界大戦初期、ドイツ軍がパリに無血入城しました。
5月10日、ドイツ軍が西部戦線で大攻勢を開始して以来、わずか1ヶ月でパリを陥落させました。 ドイツ軍がパリに迫ると、フランス政府は南フランスのヴィシーに逃れます。 6月22日、ヴィシーのフランス政府(ヴィシー政府)は、ドイツと講和条約を結び、フランスの北部と中部をドイツ占領下に置くことに同意しました。 しかし、植民地と艦隊の保持は認められました。 現在のベトナム、カンボジア、ラオスは、ヴィシー政府の統治下に置かれていたのです。 いわゆる『仏印進駐』で日本と交渉したのは、ヴィシー政府の現地当局です。 ドイツとの講和に反対するグループが存在しました。 国外へ亡命したグループの指導者のひとりがドゴール将軍です。 彼は『自由フランス軍』を組織して、4年後のノルマンディ上陸作戦でフランスに帰還し、後にフランス大統領となります。 国内に残ったグループは、『レジスタンス』を組織して、ドイツ占領軍と戦います。 ヴィシー政府の閣僚、ドイツに協力した人々は、『コラポ(対独協力者)』と呼ばれ、ドイツ敗北後は『反逆者』として、裁判にかけられました。 彼らにも、言い分はあったでしょう。 しかし、ドイツ占領下の屈辱の4年間は、彼らの弁明を聞く余裕を失わせていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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