hideのことhideがいなくなったときのこと。ファンの方は、これを読むとつらいかもしれません。 でも、私の大切な記憶として、ここに記したいと思います。 ある一人のファンの、あの日の姿として、読んでいただければと思います。 とても長いです・・・ ++++++++++++++++++++++++++++ あの日のこと (2002/09/22執筆) 私は、15歳の時にXを好きになった。17の頃から、hideが1番好きになった。 そして、あの日を迎えたとき、私は22歳。 7年間、ずっと途切れずに、ファンを続けていた。 1998年5月2日。 その日は、「hideのオールナイトニッポンR」の放送日だった。 4月から放送が始まって、第4回目。私はどういうわけか、1~3回目を聞き逃してしまっていた。 今度こそ。と、深夜3時から5時まで、録音をしながら、がんばって起きて聴いていた。 彼の好きな音楽について、いろんな話を聴くことができた。 hideらしい、語り口調だった。 そこで初めて、新曲「ピンクスパイダー」を聴いた。衝撃的な、かっこよさだった。 番組が終り、「ピンクスパイダー」の部分だけ、巻き戻しをして聴き直した。 私は心から満足して、眠気で朦朧としながら布団に入り、眠った。 起きたのは、お昼前。hideのラジオ、やっと聴けたぞ!と、心地よい充実感と満足感を感じながら、部屋で家事をしていた。 昼過ぎ、電話が鳴った。友達からだった。 「hideが死んだって。自殺したって。」 「え・・・・・・?」 何がなんだかわからず、テレビをつけた。 ニュース速報が流れていた。「松本秀人氏・・・・・・・・」 hideの本名を交えて、テロップが出ている。 混乱した。何が、起こったの・・・・・・? とにかくすぐに確信していたのは、自殺ではない、ということ。 だけど、とりあえず、そんなことを考えてる場合じゃない。 何が起こっているのか、これが本当なのか、知りたかった。 そして、これが本当なら、一刻も早くファンの友達みんなに連絡しなきゃ、と思った。 次々と、電話をかける。私が電話をかけた仲間は、みんな、このことを知らなかった。 私は、とてもつらい第一報を、みんなに届けてしまった。事実だと信じたくないのに。 夕方、6時のニュース。どの局も、hideのことをトップニュースとして伝えた。 本当だと、思わざるを得ない状況になってしまった。 私は、とにかくすぐ東京に行かなくちゃ、と思った。hideの体があるうちに、側に行かなければ・・・。 側にいられるはずはないけど、せめて、近くまで行かなければ・・・。と思った。 みんな、みんな、彼を愛した人たちは同じように思ったはずだ。 私は東京行きを決めた。 行く前に、たまたま外で会った友達は、私に「絶対に死んじゃだめだからね。」と言った。 嬉しかった。「絶対、大丈夫。」そう答えた。 hideを思わせる色合いのバラの花束を持って、私は夜行列車に乗った。 5月5日。東京では友達が待っていてくれた。ライブで友達になった人たち。 本願寺正面の門の横に並んでいて、そこに私を迎え入れてくれた。 もう、ものすごい数の人たちがそこに集まっていた。 みな、同じ思いだった。 私は、門のすぐ側にいた。何度も何度も、じっと、「故hide儀」と書かれた白と黒の看板を見上げては、 信じられない、悪い夢じゃないだろうか、と目を閉じた。 だけど何度目を開けても、目に映るものは何も変わらなかった…。 私はその日は1度家に帰った。 そして、献花、出棺の7日、また東京へ向かった。 また友達が、温かく迎えてくれた。嬉しかった。 みんなつらいのに。だけど、みんなつらいから。お互いに、本当に優しかった。 みんなで、気持ちを支えあっていた。 私はおとといと同じ場所で、何度も、建物の中に向かって、hideの名前をつぶやいた。 Xのメンバーや、たくさんの関係者、芸能人が、門を出入りした。 普段は会いたくても会えない人たちに、たくさん会ったが、ちっとも嬉しくなかった。 直接hideと人生を共にしてきた人たちが、きっと、入りたくないであろう場所に吸い込まれていく。 彼らの気持ちを思うと、なんとも言いようのない気持ちだった。 私たちは当然のごとくそこに集まっていたが、世間一般の人たちから見れば、確かにそれは異常な事態だった。 私たちはマスコミと、野次馬的にそこを通る車から、ずっと、見られていた。動物園のようだと、思った。 泣き、叫ぶ人がいると、そこに、カメラが集中する。本気で嘆き、悲しみ、集まってきた私たちは、 嘆けば嘆くほど、見世物のようだった。 だけど後日、某一流紙の1面のコラムで、この葬儀の様子がたたえられていたことを知った。 敬虔に、心からhideを偲ぶファンの姿を、心ある温かい文章で伝えてくれていた。 それを読んだとき、感謝の気持ちでいっぱいになった。 その日の夜、私は自分が代表を務めるサークルの練習を控えていた。「間に合うように、帰らなくては・・・」 心は凍り付いて、複雑な思いが嵐のようにうずまいていたけど。 私は妙に冷静だった。大学の友達からみると、今の私はどうなのだろう。 出棺を、見たくないということもあったけど。 hideのことで、自分の役割を放棄して、負い目を感じるのは嫌だった。 私は、出棺を待たずに帰ることを決めた。 これでいいんだ、と自分に言い聞かせて、新幹線に乗った。 食事をしないと体をこわすなあ、と思って無理やり食べたパンは、何の味もしなかった。 乗り換えた電車の席に座ってしばらくして、ふと気がついた。 隣に座った女の子のバッグに、ケースに入ったhideの写真がぶらさげられている。 そして彼女は、時々その写真に目を写し、そっと指で触れている。 この子も今、おんなじ思いをしているんだ・・・。思わず、話しかけようと思った。 でも、話しかけられなかった。 言葉が、見つからなかった。 家について、テレビをつけた。ちょうど、出棺の時間だった。 たくさんの人が、走って車を追いかけようとしていた。 帰ってきてよかった・・・。私はあそこにはいられない・・・。 そう思った。 「なんとか、前向きに、元気に生きていかなくちゃ・・・。」 私は、後を追うとか泣いて暮らすとか、そういう悲観的なことをしようとは全く思わなかった。 直後から「絶対に強く生きてみせる」と思っていた。 つらかったけど。さびしかったけど。 有り余る才能を失ったことのくやしさは、いつまでも、消えないだろうけれど。 hideからもらった楽しさや、情熱や、夢や、希望は、それよりはるかに大きかった。 2ヵ月後、教員採用試験を受けた。 一時、勉強に身が入らなかったけど、やれるだけのことはやった。 hideのことがあって、嫌と言うほど自分のことを見つめなおす時間がもてた。 そして命や、人生や、自分のなすべき仕事について、考え続けた。 そのことは、私にとって、おおいにプラスになったと思う。 そして秋になり、私は合格の知らせを手にすることができた。 教師になれる。とてもとても嬉しかった。 もともと音楽が好きだったとは言え、こんなにも音楽というものに愛情をもつようになったのは、 Xと、hideのおかげだった。 彼らのおかげで、彼らがきっかけで、私は音楽に目覚め、この仕事を志したのだ。心から、感謝した。 ++++++++++++++++++++++++++++ あれから4年。 私は音楽教師として、毎日愛すべき音楽と、愛すべき子どもたちに囲まれて過ごしている。 そして時々、これまでのことを思い出し、「出会い」のすばらしさに思いをはせる。人生って、不思議だ。 今もやっぱり、私はhideを、hideの音楽を愛している。 さらに好きになったようにすら思う。 今、あれから新しくhideのファンになったという人が、どんどん増えている。こんなに嬉しいことはない。 あの人の才能と人柄は、やはり人をひきつけてやまないのだ。 hideには、生きていてほしかった。 ずっとずっと、わくわくさせてほしかった。すばらしい、かっこいい音楽が聴きたかった。 でも、あの人は、ミュージシャンとして、最高の人生を生き抜いたのだろう。 彼の全ての作品や、後にリリースされた「HURRY GO ROUND」の詞も、それをよく物語っていると思う。 hideに出会えて、本当によかった。 私はこれからも彼を忘れずに、敬愛して、生きていく。 ありがとう、hide。 |