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ご無沙汰です。 とうとう、といかなんというか、6月28日付けで退職いたしました。 5年間、外国人招聘で食ってきて、このような日が来るのはまあ覚悟はしていましたが…。 でこれからですが、一応、新しいBLOGを起こしましたのでこちらをご覧ください。 マニラ総合企画 さて、このBLOG「マニラの今日」は同業の皆様やフィリピンに関わる皆様にお世話になりながら更新を重ねて着ましたが(最近だいぶ間隔はあいていましたが…)、このたび新しいBLOGのほうで切り替えて行くつもりです。今までありがとうございました。そしてこれからも宜しくお願いします。特に「プロモーター・クラブ関係者ボード」の皆様、今後も新BLOGのほうでご協力お願いいたします。 小説はどうするか、まだ決めていませんが、新しいトコに持っていく程でもないし…。まあ考えます。 では今後も宜しく!!
オッス、おらチソン。 今、再起を賭けてあるサイトを製作中ナリ。 もーちっと待つでちゅ! (悟空+コロスケ+タラ)
千葉のレッサーパンダが立って最近CMにも起用されえて話題です。その後あちらこちらの動物園でレッサーパンダが立つと報告されて、終いには「立つのは解剖学的にもあたりまえ/あの取り上げ方は『見せ物』」だとかなんとかと旭山動物園の副園長が「苦言」を呈していたそうですが、「動物園」はそもそも『見世物』じゃないかというツッコミはさておき(思ったとおりネット上でさんざんツッコまれていた)、この副園長が根本的に間違ってるのは、全国的に風太が話題になった理由は「立つ」ことではなく「立ち方」であるということです。我がBLOGでは珍しく今回写真を掲載しましたが見ての通りこの立ち方は相当インパクトがある。私も初めてみた時ほんとうにヒト入りの着ぐるみのようでキモチ悪く、またどこか漫画的な黒い笑いも感じられる、とにかく衝撃的な「絵」でした。これが四足動物がよくする前足を前にした「メシくれ」の立ち姿ならここまで評判にはならなかったでしょう。風太の写真の立ち方は背筋の伸びようからして強い意志を持って立っている感じがします。なぜ顔にくらべて体が黒いのか良く分かりませんが(昔のマンガで腹黒いレッサーパンダのキャラクターがあったが、一般的にレッサーパンダは体が黒いのか? だれか天王寺動物園周辺でホームレスしている元動物学部専攻の彷徨学生がいたら調べてくれ)、とにかくこんなのが自分の前から歩いて向かってきたら相当構えますね、私は。 風太と関係ないですが、昔、高校かそれくらいのとき、結構深刻な悩みがあったときにふらっと一人で動物園に行ったことあるのですがこれは結構良いですよ。ゾウやキリンなど普段実際に見ない動物を目の当たりにしたら結構スッキリします。たぶん、我々が悩む時はたいてい人間関係についてですが、人間以外の動物を見たら、世界には人間だけが住んでるのではないことに気付くからではないでしょうか。人間存在自体の重みが相対的に軽くなり自分の悩みも軽くなる感じです。ゾウの鼻なんて相当人間を凌駕していますよ。あれで水を吸って体を流すとこなんかほとんど人間業じゃありません(まあそのとおりだ)。そんなの見てたら会社なんてどうでもよくなること請け合いです。
なんか脈略なく書きはじめますけど…、 人生ゲームって、今だボードゲームの定番だけど、最初のコースが2つに分かれてて、片方が“一般”コースで片方が“学術”コースだったように思うんですけど、どうでしたっけ? コマ数としては一般コースのほうが少なくて早く進めるんだけど、学術コースは金が儲かるようになっていたはずです。今考えると人生ゲームで最初にどちらを選ぶのかでそのプレイヤーの将来を計れる気がして怖いです。学術コースでは小金が入るからとかでなくて、そのコースを選ぶことで人間の資質が決定されるような気がする・・・。 ちなみに私はいつも一般コースでした。またこのゲームは子供を産むとコマの車に人間のピンを刺していくのですが、金がなくなると子供を売ることが出来たはずで、これもリアルすぎて怖い。確かに1960年代までは子供の人身売買というのが残っていたらしいからもしかして正式ルールだったかもしれない・・・?。ま、今売ってる人生ゲームは全然違うパッケージだったしルールとかも変わっているかもしれませんが。 てか、今どきの子供たちはボードゲームとかするのでしょうか? 安物の評論家みたいなことを言わせてもらうが、我々の世代ってこの人生ゲームやあとモノポリーや戦国時代ゲームとかから実際の人生を学んだ気がするぞ。いや私が本当に人生を学んでいたらプロモーターなんぞにならんかったろうが、それはさておき、今ならボードゲームに相当するテレビゲーム(死語か? なんていう? プレステ?)とかあって、今どきの子供たちは学校の帰りに誰かの家に集まってそれの多人数プレイでゲームしてるのかもしれないが、しかしボードゲームをするのとやはり何かが違う気がしますよね。なんかテレビゲームはシュミレーション、虚構世界という感じですがボードゲームは学校という弱肉強食の競争社会の延長のような真剣勝負の場でもあったような気がします。だからPS2全盛の現代でも小学生の間では何んかのカード対戦(私は全然知らないが我々世代のスポーツカー消しゴムのカード版みたいらしい)が人気があるのはやはり子供もリアルな世界を欲しているからでしょう。 また、人間は、というか男は、「集まるための理由」というのが必要で、例えば子供にとってゲームそのものは“ダシ”で、要はどっかの家で集まってだらだら話したかっただけというのが実情なのです。それかその友達のお姉さんかお母さんのことが密かに好きでそいつの家に行きたかったとか・・・(私です)。こういう下校途中の寄り道で晩飯までには帰るという約束の集いは今でもあるでしょう。これが大人になると会社が終っての雀荘になるのですね(PPパブではダメ。コレは男同士の会話を放棄した堕落者の集いです)。雀荘なども半分は仲間とのだらだらトークが目的です。そういうの懐かしいな。今の会社じゃないですからね。この仕事不規則だから・・・。 現代社会で消滅しつつあるものの一つがこういう「だらだらウダウダ空間」だと今、思いました。金もないしキャバクラも行けないけど、なんでか家に帰りたくないなあ(そうだろ仲○?)。いい匂いのするネーチャンとは話できないけど、まあ同僚の脂臭いオッサンと役にも立たない話でもするか的空間、投げやりで物憂げで「あーあ。まーしゃないわ」がキーワードの“逆”祝祭的空間、非アジール、みたいなの、あなたの周りにありますか? まあオフィス街の居酒屋とか行けば臭っさいオッサンたちがダベっとりますが、なんかソレも「部下に説教」や「事務の年増女とあわよくばショッポり」みたいな、なんか無理した集いのような気がするのは私だけ? そうじゃなくてですね、例えば会社近くの「囲碁将棋クラブ」に会社帰りに一人で寄ってく上司、みたいなのどうです? 良くない? こういう空間を作ったらオモシロイのではないでしょうかね。 現代の必要なキーワードはしょせん、「まあ、無理スンナよ」、「莫迦、向こうは商売だよ」、「どーせ、口説いてもすぐ嫁化するよ」、「キャバクラ? ヘルスにしようぜ、マンドクセーよ・・・」、ではないのかとお嘆きの貴兄に朗報。 ネーチャンは居ないけど他の客のオッサンが話し半分聞いてくれるよ十時半までには家帰れよなパブ。その名も・・・ クラブ 人生そんなもん 大阪 ミナミ 三ッ寺通り 6月オープン!!! ・・・ってウソよ。 こんな感じで、私のBLOGもだらだらですな。なんか生活にメリハリがつかなくて、、。単身赴任だから、だと思いますが。今、実家にもどってるし一人暮らしというわけではないのですが、なんか“仮住まい”みたいな感じで嫌です。気合入れて生活しようという気がない。嫁がここにいないからというわけではないですが。 うーん。またね。
なーんもやる気ないっス。 幸い、珍しくも、というか同僚が気を使ってくれて3連休確保しましたが、連休初日の昨日は、・・・ 起床→マンガ喫茶(昼食込み)→ビデオ試写室(オナニー込み)→銭湯→マンガ喫茶(夕食込み)→嫁に電話→マンガ喫茶→カップ麺(夜食)→もう1回オナニー→就寝 ・・・という超ゴールデンスラムで(意味不明)ひたすら堕落していました。 まあ「ギャラリーフェィク」全巻読破という目標を立てたのは良かったのですが、「こんなことしててオレどーなるんだよォー」という強い不安がよぎります。 で、今日は会社に支持された入管提出用のレポートをこれから書くのですが、試験前の逃避のごとくBLOG打っとります。 ちなみにこのレポートは我が業界の未来を救済する内容にしてやろうと気合を入れる、つもり、やったんですが、3連休のおかげでそんなの今更どーでもよくなってしまいました。 だってさ、どーせさあ、この業界、もー終わりだぜ! 吉野家で言えば牛丼である目玉のフィリピン人が証明書問題で申請数が激減して、ならば他の、吉野家で例えれば豚丼(中国人)、カルビ丼(ロシア人)、カレー丼(インドネシア人)で代替しようとしてたら、オイオイお前、それより店舗が摘発されてるぜ、てな状態で、どーにもならんですわ、先生(誰?)。 もーあれですな。中朝国境で綺麗どころの脱北者を日本人学校に逃がして難民認定を受けさせて日本に連れて来てクラブで働かすか。だってこれはスゲエ人道的だぜ。まあヤケクソの最後の手段。て、冗談冗談。 あーあ。ビールでも飲もうかな。そのほうがレポート進むかな、、、。 それかマンガ喫茶、、、、ビデ試写? 、、、うーん。
いや。疲れました。 こんなのやってる場合じゃないだろ、と自己ツッコミしながら、まあこれも“道楽”だわ、と思いました。 ただ、今回もあんまり自信ない。自己満足ですな。ダメポ・・・。 小説版、URL変更してます。 http://blog.livedoor.jp/chisong_novel/ 宜しくお願いします。
今、一時的にマニラに戻っているのですが、また明日は日本です。 忙しくてなかなか更新できてない…というより精神的に疲れて更新する気が起こらないというのが正解です。今の状況をここでは詳しく書けないのでなおさら当BLOGを放置状態にしてしまいました。 ですから今日は抽象的な内容になりそうですが、まあ自分に対する気休めのつもりなので、ここは皆様ご容赦ください。 極限状態で人間はどうなるか、というテーマはどこでもありがちですが、実際は人間というのはこの場合、意外と平静のままで崩壊していくのだと知りました。先に言ったように具体的にそれがなんについての話かは置いといてですね、人間の「潔い散り方」みたいなものを考えていたのです。「死」そのものでなくても人間が散る時というのは人生のさまざまな節目で経験します。受験の失敗から失恋、失職、友人の死、身内の死、などがそれです。それらの共通項は「それまでの良く知る世界の崩壊」です。ですからやはりそれらは「自分自身の死」の予行みたいなものですね。さらに気取って名づければまあ「喪失」、といったとこですか…。それは過ぎるまでは凄まじい苦痛を与えるのですが、過ぎたあとにどうなったか、という結果は、実はこの苦痛にたいしてなにも作用するものではないのです。つまりこの場合「結果」とは彼岸にあるもので、喪失とは彼岸=そのあとに来たる世界、をカッコに入れて除外しなければならないのです。何故か? それは喪失が模倣する「死」というのが本来そういうものだからです。 その喪失を前にして人間はいかにあるべきか…。その前にまず、喪失を事前に認識しているかどうかが問題です。何も知らず後ろからピストルで撃たれて死ぬ場合、これは本題と関係ありません。正面からピストルを向けられて死の覚悟を強いられる場合にどうあるべきか、が今の私が問題にするところなのです。もちろん実際の死ではなくて喪失全般の話なのですが「死」をそれの隠喩として考えると例が豊富で理解し易いようです。 まず第一に、その際「死」から逃れようと抵抗するか、それとも向かって行くか、どちらが潔い散り方か…。 「特攻隊」をこんな場所で持ち出すのはなんというか不謹慎な気がするのですが、彼らはどちらでしょうか? 「死」に向かって行ったのは明らかなのですが、何か宿命的なものに抵抗しているような気もします。敵に対して、ではなく「無意味な死」に対して抵抗しつつ「死」に向かって行ったという、ある種両義的な行為だったのではなかったか。すなわち死を甘受しつつ、なし崩し的ではない意識的な死をもって死そのものの価値を高める行為というのが特攻隊の精神ではなかったか、と私は思うのです。 しかしまたその特攻隊の精神は美化するのははばかられる気もします。彼らの意識のなかにはこのような行為は自分たちだけで終らすという決意もあったはずです。あとを追う行為を愚かなこととして拒絶するようなある種の崇高さがそこにあると私は思います。 そこに見られる要素は、「犠牲」、「自己決定」、「行為の否定」、としましょう。 「犠牲」: 何かの価値を守るため、あるいは破壊するために自分を賭ける行為、と言うのは、実在した例では、西郷隆盛から野村俊介にいたる右翼(?)の志士たち、あるいは天安門事件のとき戦車の前に立ちはだかったオッサン、チェルノブイリ原発事故のさい最初に駆けつけて第一処置を行ない被爆して死んだ技術者(良く知らないが浅羽通明がどこかに書いてた)。フィクションでは北斗の拳の雲のジュウザ(自分の命=ラオウの右腕)、ポセイドン・アドベンチャーで水道バルブにぶら下がりながら水を止めて炎に落ちて死んだ神父、アンパンマン(自分の顔を食べさすから)、などなど。 ……ん? なんか調子出てきたか? 「自己決定」: 他か強いられるのではなく自分一人の責任において決意し、行なう行為。特攻隊は強いられたものじゃないか、と言われそうだが、私はこのへん実はよく知りません。たしかに志願の形式をとりながら限りなく強制に近い雰囲気というのが有ったと察せられます。麻薬を使用していたという噂も聞きます。しかし少なくとも大部分が最終的に自分で納得して、あるいは無理やり納得して運命を受け入れ特攻しに行ったのだと思うのです。なお、完全な自由意志において決意するという状況はここでは考慮外です。というのも「喪失」がテーマであるからにはそれは「死」と同様、我々に否応無く襲いかかるものだからです。宿命として甘受する、じたばたせずにそれと向き合う決意をする。これがここでいう「自己決定」なのです。例は、癌で亡くなった逸見政孝などでしょうか…。 「行為の否定」: これがけっこう重要で、この要素があるかどうかが例えばカルトによる洗脳状態の行為と区別されるポイントです。自分の決死の行為を賛美しないという態度を取れるかどうか。9・11テロの実行犯は死んだらもちろんイスラム世界から彼の行為と彼の死を支持され、また神にも祝福されると信じていたはずです。あと、あの世では200人(?)の処女と交われると約束されていたらしいっスが、いや、もしそれを信じられたら、絶対そうだと思い込んだら私も突入していたかもしれません…が、しかし処女ばっかり200人ってちょっとキツくはないか? いろいろ混ぜといてもらいたいものですが、まあそれはさておいて、もちろん見返りもない、賞賛もされず人々の記憶にも残らない孤独の中の「死」は実際耐えられるでしょうか? 三島由紀夫はバルコニーに集まった市谷駐屯地の自衛隊員に罵声を浴びせられながら、それでも意思をかえず自害しました。三島ははたして自ら選んだ死をどのような価値を見込んでいたのでしょうか。多くの三島論が有りますが、三島の主義主張を支持する者もこの死だけは茶番と言わざるをえない、といった意見が多いようです。三島を巡る論評で有名なのは小林秀雄とその弟子の江藤淳の対談で、それまで師弟関係らしいピンポンのラリーのように軽快に進んでいた対談が三島の死の話題になったとき突然その時だけ決裂してしまったのです。三島の死を茶番とかなんとか言った江藤に対して小林が「君、あれを茶番だなんて…」と絶句したわけです。その後の論の展開は良く憶えてないのですが結局お互い突っ込んだ話を避ける様に終ってしまったのだと思います。私は小林の方がどうかしていると思うのですが、それは三島の思想を追求した上のことではもちろんなくて、ていうか三島の本なんか2~3冊くらいしか読んでないし…。で、単に時代のずれを考慮しても手塚アニメのような改造軍服でアジる三島は明らかに「絵」的にイケてないし、バルコニーの演説ではマイクロホンを用意していなかったのと自衛隊員の野次のためにほとんど聞き取れられず無意味だったこと(後半だれかから拡声器が届けられたらしいが)、また切腹した時、弟子(森田必勝?)が介錯をなんどもしくじって首が落ちず三島はあまりに痛くて舌を噛もうとしていたとか、こういうスマートに行かないマヌケさがこの三島事件を特徴付けている気がするのです。だいたい弟子も引き連れて乗り込むなんて絶対潔くない。しかし、彼の死のうちで先の「自己決定」と「行為の否定」、だけは有ったのではないかと考えるのです。三島の親友の評論家、奥野健男は三島がバルコニーの演説の直後、自死の情熱が失せていた可能性が高いことを論理的に示唆していますが、人間の一般的な心理としてそれはよく腑に落ちます。いろいろ情熱を込めて計画していたことがその実行する直前になんか醒めてしまったような経験、ありませんか? 例えばカメラが欲しくてバイトしてお金を貯めて、いざ買うときになって「あれ、ホントにこんなの欲しかったのかな」と醒めてしまいながら、まあ仕方ないからとそのまま買ってしまうといった経験です。同様に三島が切腹の直前にすでに醒めていたならば、では、その後やはり自死に至ったのはなぜでしょうか? カッコがつかないのはそうでしょうが、でも自衛隊がノってこなかったこともあるし予定変更して撤収、というのもアリだったのではないか。まあ、弟子に対する意地もあるので決意を変えるのは簡単ではないでしょうが、一旦醒めた気持ちで自殺を遂行するのは並大抵の行為ではないと思うのですよ。三島をそうさせたのは何か。実は先の小林と江藤の対談は孫引きで、私が読んだのは福田和也の文章の中です。福田はその対談の三島の部分を引いたあと、しかし自衛隊が三島の演説と切腹によって決起した可能性が0.0000000001%くらいは有ったとして、その可能性に賭ける行為を、行為することにおいて評価出来るか出来ないかの違いがこの対談の決裂であるということを言っています(…うろ覚えです。書いてたこと全然違うかもしれないですが私的にはそうです)。つまり自衛隊が決起する可能性なんか万が一にもないことは三島も承知の上で、さらに事後、自分の行為が日本で、というか世界中で笑いものになることも覚悟していた。キリストのように何年か後に評価されることを期待していたともちょっと考えられない。正統でないし正しくもない行為で自ら命を絶たざるを得なかった、この、自分以外(弟子はどうか知らんが弟子に認められたいと思う奴はいない)の価値を捨象してなお「死」の行為を選び取ったそのことだけが唯一の価値だとして諦念する精神、…自分で何を言っているかよく分からんが、とにかくこういうのは潔いことは潔いわけで、評価できるのですが、いや、向こうは評価なんか望んでないので大きなお世話でしょうが、…まあそういうわけです。 <続く>
以上の3つの要素が「潔い散り方」の条件とまあ仮定して、私は果たしてそうする覚悟はあるのか。ていうか、その前に、なぜ私は散らないといけないのか。宿命としてそうなりつつあるのがその理由ですが、それだけでは足りない。…やはり具体的にはここには書けないのでまた一般論を装って書きます。 プレーモ・レーヴィというユダヤ系イタリア人の作家がいました。「アウシュビッツは終らない」と「帰郷」で日本でも有名な作家ですが、彼は80年代の初めに自殺しました。彼はアウシュビッツ収容所の生き残りで、戦後イタリアに引き上げて作家になりました。ナチスの収容所の生き残りの知識人には戦後何年かしてから自殺するものが多く、レーヴィは一貫して彼らの自殺を批判していたのです。ところがその彼も自殺してしまい多くの人を驚かせました。彼は仲間達が自殺する理由を「生き残った者の罪悪感」だと言います。「最も勇敢で信念をもった、仲間思いの優しい者から殺されていった」と彼は言います(うろ覚え。以下同)。すなわち結果的に絶滅収容所の地獄では生き残った者たちは、残忍で意地汚く他人を陥れることをいとわない最悪の人間達だったわけです。だから生き残った自分は悪人だ、というのは、しかしながらレーヴィの自殺の理由では有りません。今まで私はそういう意味にレーヴィの文章を読んでいて、それは偽善ではないかと疑っていたのですが、今自分がそういう状態に陥ってそれが間違っていたことに気づきました。そういう地獄において、死んでいった優しき者たちを救えなかった自分が、気付けば最悪の人間達が生き残り、したり顔で闊歩する世界にいた。その采配をしたモノへの、その地獄を支配するモノへの復仇、つまり、どうにもやるせない結果を生んだ悪しき宿命が、誰が何と言おうと不当であることを自分ひとりで証明するためには、少なくとも自分自身の死をもってするしかないのではないのか。 と、ここまで書いて誤解のないように言っておきますが、もちろん私は死ぬわけはなく、そんな勇気も理由もないです。ではなくて最初に書いたように、今まで述べた「死」に似ていて人生の節目節目に出会う「喪失」というのを、今回、自分の意思で引き受けようかと考えているのです。 できるでしょうか? 恐ろしいですがこうなったのも運命です。戦いはもうじき終ります。何事にも終わりが来る。どんな終り方をするかが問題だ、とはある映画のセリフですが(正解者には粗品進呈)、幕引きは私の役目であることは間違いないです。すでに犠牲になった者たちへの鎮魂をこめた、自分以外誰も納得せず、誰からも褒められずまた哀れまれることのない幕引きが…。 死に際に見る夢というのは実際にはあるわけないものですがフィクションの中では決定的なプロットとして有効のようです。ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」では死にゆくパイロットの夢というのが出てきます。映画「シド アンド ナンシー」では死んだ恋人がタクシーで迎えにきたり、また台湾映画「恐怖分子」の有名なラストシーンで自殺する間ぎわに自分が殺人を犯す夢を見る場面があります。「フランダースの犬」もそうでしたっけ? 原作の方です。余談ですが私の母方の祖母が、私が子供の頃この本を読んでくれて、私でなく読んでた祖母がラストの部分で泣き出したのです。それが面白くてそれから私は何度も祖母にその本を読んでくれとせがんでいたそうです。「この子はわたしが泣くのがオモシロて読んでよんでいうんじゃわ」と笑っていた祖母も私が22歳のとき亡くなりました。 で、私の例えば夢はこうです…。 撃たれたか刺されたかして瀕死の私がダウンタウンの裏路地で座り込んで動けないでいると、一人の背の低い黒人が通りかかる。皮の派手な服を着た男は私に声をかける。 「オイ。オマエ、大丈夫か?」 私は顔をあげて男を見る。 「オレ、あんた知ってるよ」 「…だからなんだって言うんだ。オマエは死にかけているよ!」 「あんたについて一番簡潔で美しい説明は、映画のなかでキューバのミュージシャンが言った『彼は世界一高い音が出せるトランペッター』だと思う」 「オマエ気は確かか? 死にかけで、しかも間違ったことを言う。オレは世界で一番メロディーとビートのことを考えていたミュージシャンだ」 「世間のやつらが何と言おうと、オレは電気楽器のあんたも好きだった」 「調子に乗るなよイエロー! オレは人がオレのことを好きだとか嫌いだとか言っていい人間じゃないんだ」 「…わかるよ。”DOO-BOP” なんか10年以上前の音とは思えないよ」 「だから、オレのは新しいとか古いとかじゃないんだ。10年先だろうが100年先だろうが相手が人間だろうが牛だろうが宇宙人だろうがオレのやる音楽が最高なんだ」 「そのとおりだ…」 「天才とは圧倒的なんだ。天才なら誰でも自分の才能を産まれた時から知っている。宿命なんだと。そしてそれが必ずしも幸福でないことも知っているんだ」 「あんたは孤独だったか?」 「オマエ、神様に寂しいかどうか聞く奴があるか」 私は肩を揺らして笑った。すぐに内臓の血が喉から上がってきたので吐いた。 「オイ、待ってろ。人を呼んできてやる」 「待ってくれ。もうダメだよ。それより聞いていいか」 「あきらめるなよ…。なんだ?」 「あんたとプレイした奴のなかで一番…優しかったのは誰だ?」 「コルトレーンだよ。アイツは天才であるには優しすぎたくらいだ」 私は満足して目を閉じた。それでもその黒人は私を担いでいこうと試みていたのだ。 明日、日本に帰ります。
まだ日本ですが大変バタバタしております。ちょっとここに書けない問題が発生しておりましてなかなかフィリピンに帰る日程が立てられないのであります。とは言いながらしっかり土曜日に一日かけて何とかお土産を完買(←新語)しまして、で、本日日曜日は自宅にて優雅で物憂げな休日を満喫させていただきました。 で、BLOGのカキコなど野暮なことはしばらくは止めとこうなどとエラそうなことにも考えていたのですが、例の評判になった映画がちょうど11日にDVDとなって発売されたので、私も買ってさっき観終わったトコです。で、ちょっとガッカリしたのでそもことを書きます。 映画とは『誰も知らない』です。劇場でやっているときから観たかった映画なので今回、わざわざレンタルでなく購入して観たのです。あらすじは例のごとく一言で済ませますが、アホ女に産み落とされ捨てられた男女4人の子供がよせばいいのに自分達だけで生きようとして一人死なせてしまう、というストーリーです。 なぜ私がこの映画に期待していたのか、よく思い出せないのですが、一つはカンヌで「最優秀男優賞」を受賞とかして評判になっていたからでしょう。なにを隠そう私はカンヌとかベネチアとかの言葉にヨワイ田舎者なのです。ところでもちろん「…男優賞」なので映画そのものの賞でないことに気づくべきでした。映画作品そのものにではない。 この映画の評価出来る点は、まあリアルな演出、でしょうが、これは良く知りませんが今の日本映画の特徴となっているのでしょうか、最近見た(しかし数年前の映画)『きょうのできごと』もそうでした。川瀬直美の影響ですかね。ミニマムな演技でドキュメンタリー映画風にフィクションを取るという手法が主流のようです。実は私も今一番関心があることは自分の業界の行く末ではなくて「リアリズム」で、それで小説第三弾が行き詰っているのですがそれはさておき、この『誰も知らない』でも子供たちの自然な演技がリアリティをかもし出しておりそれは成功していると思います。 しかしストーリがリアルじゃない。誰が何と言おうとこんなのありえません。だいたい普通こんなの近所の人が気付きます。「何言ってる、これは実話を基にしているのだぞ」とおっしゃるかもしれませんが、これは監督がDVDに同封されている「演出ノート」に書いてるようにbased onではなくてinspired byだそうで、実際の事件の詳細をあえて調べる作業はしなかった、とも書いています。つまりこれはフィクションだということで、宜しい、それなら言いたいこと言わせて貰うが、私も実際の事件のことは全く知らない。知らないが常識的に考えると明らかにそのマンションの住民の何人かはこの異様な家族のことに気付いていたに違いない。しかし新聞報道では隣の住民は全く気付かなかったといっているそうだが、言うまでもなくウソである。気付いていたが関わりあいたくなかったのだ。その程度のリアルな、醒めた感覚がなければどうしようもない。だから映画ではそういう一般住人の欺瞞も脚本に反映させなければウソである。だからこの映画は演出はリアルなのに脚本がウソくさいのだ。 つぎにこの映画の主人公がどう考えても正しくない、と思う。12歳ならば食えなくなった時点で外に助けを求めることも出来たのではないか? 自分達だけで生きていかなければならないという不可能なことに執着してしまった結果、妹が一人死ぬのだ。しかも死んでからも蘇生の可能性をまったく考えずほったらかして、最後に空港の近くに埋めてしまう。救急車や警察を呼ばなかったのはなぜか。これをリアルに考えればこうなる。すなわち、主人公である長男は、警察などに連絡すると自分が捕まる、と思ったからなのだ。 ここがきっちり描かれてないのがこの映画の2番目のウソ臭い部分である。なお長男がそう思ったのは言うまでもなくそのように母親に洗脳させられていたからだ。この辺はすこしは映画の中で描かれていて、例えば母親が繰り返し、長男以外は家の外に出るなと命じたことがその洗脳が存在していたことをうかがわせている。しかしまた同時に監督はこの洗脳が存在していたことを自覚してなかったようにも思えるのだが、それは次のように監督が書いているからだ。 「(前略)なぜ少年は妹たちを捨てて家を出てしまわなかったのだろうか? 父に、そして母に捨てられた彼が、なぜ妹たちを捨てずに「家族」を守ろうと必死になったのか?児童福祉センターに保護された妹は『お兄ちゃんはやさしかった。お母さんよりもいっぱいご飯を食べさせてくれた』と語っている。この一言をきっかけに僕の中に芽ばえていた疑問は想像の羽根を広げていった。確かにこの不幸な事件は母親の無責任さが生んだものであることには違いない。しかし、彼女がひとりで子供を産み、曲がりなりにも育ててきたのだということも又動かしようのない事実である。(中略)…もし母がただヒステリックに子供達に暴力を繰り返すような存在だったとしたら、長兄も同様に妹たちに接したのではないか。彼ら母子の間には少なくとも報道からはうかがい知ることの出来ないある豊かな関係が築かれていた時期もあったのではないだろうか…。」(演出ノート/是枝祐和) なお同じく監督は、「彼女(=母親 *筆者注)を鬼と呼ぶならば、どこかに存在しているはずの子供たちの4人の父親は何と呼ばれるべきなのか?」とも書いていますがまさしくその通りで、これは歴史の初めから生殖と出産に関する非対称性=性差に由来する不平等であり、これは厳しく告発しなければならないと私も思うのですが、母親もやはり罪は避けられないと思うのです。「ある豊かな関係が築かれていた時期もあったのではないだろうか」と言いますが、まさしくそうであるからこそ多くの児童虐待事件において被害者の少年少女たちが事件後も苦しんでいることを監督はご存知でないのか? この事件は徹底的に最初から児童虐待事件であり、それは、長男が母親の洗脳によって一番の被害者である末妹の死までも長男に自分の罪だと思わせてしまい、これを隠蔽しようとさせるほどすさまじい虐待だったのです。 この事件はフイリピンの一般家庭に見られる問題にも共通しています。すなわち生存の責任を取れないにもかかわらず産んでしまう母親の未熟さです。父親の無責任さももちろんですが、母親の場合はその子供たちを洗脳によって自分が子供たちを食わせていくことが出来ないという責任を子供達自身に転化してしまうので罪が重い。またこれを国家が奨励してしまう欺瞞の問題もあるのですがこれはマブさんに任せといて、ここでは以上のように、映画が無意識的に切り捨ててしまった一段高いレベルにある母親と長男のフェアでない共犯関係について指摘するにとどめておきます。 また細かいことですが、リアルでないと思ったことは他でも、たとえば兄弟を助けようとした外部の人間、いじめられっこの女子中学生が、お金を上げるために援助交際をする部分があまりに類型的なので私は笑ってしまいました。ここで援助交際をさせた監督の狙いは分かりますが、逆に狙っているからこそウソ臭くなってしまいます。ここは学校でカンパを集めた、とかにしたほうがリアルだった。 また、映画中で、コンビニの人から福祉事務所かどこかに行ったらどうかと薦められて、長男が、そうしたら4人一緒で暮らせなくなる、前もそういうことがあって大変だった、と答えたのですが、ここが重要です。このわけの分からない価値観、死んでもいいから離れたくない、ということでしょうか。この感覚は長男のエゴであるのは間違いないのですが、これが賞賛される風土というものが明らかにありそれは「一家心中」という犯罪(以外なにものでもない行為)を引き起こす原因にもなりうるものです。この価値観、風土を仮に「家族的自我拡大妄想」と名づけましょう。実はこの因習と真っ向から戦った人がいます。それも2千年以上前にです。 「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書書 第10章34~39節) この部分に結構、キリスト教系の方はつまずく部分らしいです。いろいろ研究もなされていますが、私が思うに、「家族的自我拡大妄想」を断ち切らなければマズいとイエスは考えたのでしょう。ここから長くなりそうなので今回はここまでにしますが、私が思うに、例えば人間が生きるためには他者と関わらなければならない、農耕や狩猟をするのにも家族の外にでて努力しないと生きていけない、ということです。そこから「血」以外の関係が生まれてきてます。友情から果ては男女間の深い関係が生まれるのです。子孫を残すためにも我々は他者と交わらなければなりません。これが出来ない共同体は滅びる以外にないのです。民族として強くなるためには家族を捨てる強さを肯定する思想が必要ではないでしょうか。フイリピンにはそれが皆無だと私は思うにですが、どうでしょうか。 『誰も知らない』はそのあたりの欺瞞、つまり家族愛の功罪に製作者が無自覚なような気がしてしまい私はいまいち乗れなかったのです。 ま、以上が私がこの映画で感じたことを大急ぎでまとめたものです。
どうなんですかねえ。フィリピンで今後どうなっていくんでしょーか。タレント達が続々と復員してくるのは間違いないし、岸壁の母よろしく今か今かと空港で待ち受けている家族に、最後の売り上げ金を渡して、それでその後は、、、? 我々在比プロモーターも帰還命令がまもなく出ると思われる今日この頃、私はいかがお過ごしでしょうか。何もしてませんハイ。もちろん仕事はしておりますが。先週まで最後のオーディションラッシュでして、実質上先週の木曜日がフィリピン芸能人招聘史上、最後のオーディションでした。私とクラブオーナーなんかもう、涙で目がかすんで選べない状態で、、、。でもなぜか来週も月、火とオーディションがあるのですが…これはまあ消化試合みたいなものです。 さて、オーディションがなくなれば私の仕事はタレントのフライト/ビサのマネージと状況連絡のみとなるのですが、まあこんなの日本でも出来ますしね。どーしましょう? そのうち、「オマエなあ、ブログでショーセツなんか書いてたいそうな御身分やなあ、こら。…荷物まとめて嫁つれてとっとと日本帰ってこいや!!」、とか社長からいわれそうでビクビクしています。 なんとか今の会社の資本と現地スタッフをそのまま使ってなんかタレント以外の商売とかも考えているのですが、特別な経験とか無いとタレント以外で儲けるのは難しいですね。何とかチャット、とか現地での鴨客待ち受けビジネスとか考えられている方も多いようですね。このへん十分狙い目でしょう。当たると思います。私もマブ兄に乗っかろうかどうか考えてましたが、、、。まだ踏ん切りがつかない。やはりまだタレント招聘に未練があるのは確かです。面目躍進してモノホンの芸能人を堂々と招聘できないか、、、。 話変わりますが、実は、妻には連れ子がいて、十歳の女の子なのですが、私は着々と「連れ子オタク化計画」を進めております。スタジオジブリのアニメのDVDを日本に帰るたびに購入してフィリピンに持ち帰り、連れ子に見せています。ジブリ作品はやはり万国共通でオモシロイですね。彼女も気に入ってくれて繰り返し観賞しております。特に「千と千尋の…」が気に入っているようです。なんで魔女宅とか「トトロ」ではないのか、、、。ちなみに、私は誰にも言えないですが一番好きなのは実は「耳をすませば」なのです。うわ、恥ずかし。とにかく「ハウル…」がDVDになるのが待ちどうしいです。「オタク化計画」の次の段階は小説"Catcher In The Rye"を読ませること。その次にモダンジャズかパンクロックを聞かせることです。絶対聞かす。妻が何と言おうと私は彼女にはフィリピン人みたいになって欲しくないのです(、、どーゆー意味や)。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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