274507 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

シドニー あれ,これ,ホ~ント?

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2007年09月22日
XML

勤務先が決まったときに一番困ったのは両親への報告です
22の娘が一人で東南アジアへ派遣されてゆくのですから

背中をぽんと叩いて見送る事はどの親でもしないでしょう
まずは飛騨高山の実家に帰郷して説得から始まりました
第2次世界大戦から数十年もたってるというのに
母の頭の中には近代化されたシンガポールはありません

マレーシアやタイが陸続きであるだけで母には戦死した父が
脳裏に浮かんでくるのでしょう 

そんな激戦だった地に 敗戦国の若い女性が行く事に大反対です
私の両親はかなりモダンな人間ですが
さすがに東南アジアに 娘を一人で出す事には渋っていました
アメリカや英国だったらすんなりOKが出ていたでしょう

そういえば国際部にはマレーシアのクアラルンプールに
転勤命令が出た女性は家族の反対にあって断ったそうです

家族の気持ちはわかりますが海外での女性の進出に
家族が反対してどうするんだよ

この時代に女性がうんと進出しないと
いつまでたっても主婦で終わってしまうではないか
私のこの時代にはすでに女性係長や部長が出てきて
営業も女性が活躍し始めた頃だったのです

両親を説得して 理解してもらい 東京に戻る日が近づきました
母はわざわざ岐阜の高山から名古屋に出てきてくれて
乗り込む新幹線の前で目にハンカチを当てて

「レッドや、頑張るんだよ、決して地雷を踏むんじゃあないよ、、、うううぅぅ」
と号泣しだすではないか!
やはり母の頭から世界大戦は抜けていないのであろう

新幹線のドアが閉まり電車が動こうとも母は電車と同じ速度でホームを走ってる

なきながらハンカチ振ってる
ああ、これが夢にまで見た別れのシーンだ
なんか映画で一杯見たシーンだ

私のために涙を流したのもこれが最後であって欲しかった
外国へ旅立つのもこれが最後であって欲しかった

母はきっとこう願って涙を流していたんだろう

まさかこれが海外永住のきっかけになろうとは
母も娘も全く予期できなかった初々しい見送りだった

私はかなり度胸のある女性でした
このときから好奇心も旺盛でした
飛行機には北海道旅行で一度乗った事があるので
それほど心配はしませんでしたが
やはり海外となると出入国手続きがあるので緊張したのは覚えています
でも ちゃっかりシンガポールエアラインのスッチーたちと
仲良くなって市内で合流するのに仕事先を教えたりと楽しかったものです
後のシンガポール勤務中にわかったことですが
シンガポールエアラインの乗務員教育のカリキュラムの中で
メイクアップのレッスンがあるんですね
これをわが社が担当しているんです
メイクアップのレッスンもこれで楽しいものになりました

問題の英語ですが

一ヶ月前から英語漬けの毎日にして
飛行機の中でも猛勉強しました

結果は散々たるもの、、、、シンガポール人は元は華僑
シンガポールではネイティブスピーカーはいません

英語にはなまりが強くてへんな発音です

これで私も日本語なまりの英語なものですから
お互いの意思疎通なんてあったのかしら?
無いわ
とりあえず「日本人の女」と言う事でまず珍しがられたのが第一

仕事はメイクアップの指導と基礎化粧品カルテ書きですから
英語をしゃべり続ける事はしません
あとはニコニコ居るだけ
私には存在感があればいいのです
ニコニコの毎日が日課でした

メイクに関しては自信がありました

素顔の女性を自分の手で綺麗に綺麗に仕上げる自信がありました
自信過剰といわれるけれど自分の仕事に自信を持たないとね

22歳の頃って何が何でも走っていたような気がしません?

皆さんはどうでした?
私は社会に出て楽しくって仕方ないって気がしました

 

 

好奇心旺盛な私に待っていたものは多国籍なシンガポール
そう、多国籍料理が待っていました

次回はシンガポールの食生活を綴りましょう

つづく






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年09月22日 23時14分58秒
コメント(4) | コメントを書く
[思ったこと、感じた事] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.