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2016.12.17
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カテゴリ:地理
一連の日露首脳会談でクローズアップされた北方領土問題。
分かっているようで分かっていないこの問題の根源は明治時代に遡る。

明治2年(1869年)、明治政府は開拓使を設置して北方開拓を本格化させるが、日露が混住する樺太では住民同士の紛争も絶えなかったことから、明治7年(1874年)に両国は樺太千島交換条約を締結する。
今日でも解決の糸口を見ない北方領土問題だが、そのルーツをたどると、この条約にたどりつく。

日魯通好条約

正保元年(1644年)に江戸幕府が作成した『正保御国絵図』に「くなしり」や「えとほろ」「うるふ」など千島列島と思しき島が描かれている。
これは蝦夷の統治を委ねられていた松前藩の調査を基に描かれたとされ(他の地域に比べて精度が著しく低いことから、アイヌからの伝聞による可能性もある)、この頃から樺太や千島列島の存在が認識されていたことが分かる。

寛政4年(1792年)、女帝エカテリーナ2世の命を受けたロシア人のラクスマンが根室に入港すると、幕府はロシアの南下政策に危機感を抱き、樺太、千島を含む蝦夷地を直轄地とした。
寛政10年(1798年)には近藤重蔵、最上徳内らが巡察隊として蝦夷地を訪れ、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を立て、その後も高田屋嘉兵衛が国後島と択捉島間の航路を開くなど、日本は徐々に千島へと進出していった。

こうした両国の動きに伴い、日露間の争いも顕著になってきた。
文化8年(1811年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンが国後島で日本の守備兵に拘束されると、ロシア側はその報復として高田屋嘉兵衛を捕らえるという事件が起きる。
両者は結局交換釈放されるが、これをきっかけに国境を画定する必要性が高まり、安政元年(1855年)に下田で日魯通好条約(日露和親条約)が結ばれる。
この条約で千島列島では択捉島と得撫島の間に国境が定められたが、樺太については両者の主張が折り合わず、混住地のままとなった。

黒田清隆の樺太放棄論

明治政府が誕生すると開拓使が設置され、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制に取り込まれて開拓の対象となった。
一方の樺太は漁場を拡張したい日本人と、クリミア戦争が不調に終わり南下政策を急ぎたいロシア人との間で紛争が絶えなかった。

こうした状況の中、政府内では樺太の扱いをについて意見が二分されていた。副島種臣外務卿が樺太全島の領有、それができないならば島を南北に区分し、日露両国民がそれぞれ住み分けることを主張したのに対し、黒田清隆開拓次官は遠隔地である樺太を放棄してでも北海道の開拓に全力を注ぐべきとの樺太放棄論を押していた。
結局明治6年(1873年)に副島が征韓論争に敗れて下野したこともあり、黒田の樺太放棄論が推進されることになる。
日本は榎本武揚を特命全権大使としてサンクトペテルブルクに派遣し、明治8年(1875年)、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で樺太千島交換条約を締結する。

この条約により、日本は樺太全島をロシアに明け渡す代わりにロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)を日本の領土として獲得した。
その後色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ行政組織が整って開拓が進められるが、得撫島以北の島々では開発がなかなか進まなかった。

明治26年(1893年)、千島列島の防衛・開発を志した海軍軍人郡司成忠が、希望者を集めて開拓事業団「千島報效義会」を興し、占守島、捨子古丹島、幌筵島に隊員を上陸させ、越冬を試みた。
しかしその結果は惨憺たるものとなった。捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員死亡し、この地域の開拓の困難さを痛感することになる。

北方領土問題の根源

その後日本は日露戦争後のポーツマス条約で南樺太を領有するものの、第二次世界大戦で敗れサンフランシスコ講和条約で南樺太と千島列島を放棄することになる。
しかしこの際、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の扱いが問題となる。

問題となるのは千島列島(ロシアではクリル諸島)の範囲。日本側の解釈では、放棄した千島列島にこの4島は含まれていない。これは樺太千島交換条約に基づいてのものとされている。
その条文には日本が獲得した18島が列挙されているが、日魯通好条約で既に日本の領土となっていた歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島は記載されていない。
つまり、この時点で4島は日本の所有という解釈が成り立つ。しかしロシア側の解釈はそうではないということだ。

樺太千島交換条約の正文はフランス語である。実はこの正文と日本語訳に若干の齟齬があるとされる。
条約文の中に、le groupe des Îles dites Kouriles qu'Elle possede actuellementというフレーズが出てくる。
直訳すれば「現在自ら所有するクリルと呼ばれている島々の集合体」となるだろうか。
しかし条約の日本語文では「現今所領『クリル』群島」と訳されており、「le groupe」すなわち「集合体」の部分が抜け落ちている(というよりそれを「群島」と表現しているのだろう)。
ここ(「島々の集合体」と「群島」の違い)に微妙な解釈の違いが生まれている可能性がある。
ちなみに日本語文は構文ではないため本来効力はない。
(このあたりの経緯はWikipediaに詳しく書かれている)

つまり、サンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島(クリル諸島)が「集合体」であるかどうか、ということが論点になる。
これについては研究者等でも様々な解釈があり、言語のニュアンスの違いもあり正解を導き出すのは難しいという。

経緯云々も交渉の行方はもちろん最良の結果を望みたい。
それにしても約140年前に明治政府とロシア帝国が締結した条約が、現代においてもなお領土争いに深く関与している事実。
歴史はあたかも一本の糸のように、もつれながらもつながり続けているということだ。






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Last updated  2016.12.17 19:16:03
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