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2010年10月14日
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昭和18年(1943年)2月9日の大本営発表で、日本軍が2月上旬にガダルカナル島を撤収し、他に転進した、と私たちは知らされました。

そのとき、ガダルカナル島だけでなく、ニューギニアブナというところからも、日本軍が他に転進したとの発表がありました。

ニューギニアの北、ビスマルク諸島のニューブリテン島ラバウルに、日本海軍の航空基地が置かれていることは知っていましたが、日本陸軍がニューギニア島にも進出していたのは、知りませんでした。

その後、ニューギニアの日本軍については、敗戦の日まで何の発表もありませんでした。

戦後、帰還兵の人から、

     「ジャワの極楽、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア

という言葉を聞き、ニューギニアでの戦闘について、改めて調べてみました。

       ニューギニア地図
                    ニューギニア島周辺の地図

当時、日本軍は、アメリカの反攻拠点となるオーストラリアへのシーレーンを遮断すること、また、オーストラリアの軍事拠点を爆撃すること、を作戦目標にしていました。オーストラリア北部の都市・ポートダーウィンの爆撃もしていました。

          ポートダーウィン爆撃
                     ポートダーウィンの爆撃

本格的にオーストラリアを爆撃するためには、ラバウルからは遠いので、日本軍はニューギニアの南岸の都市・ポートモレスビー(現在のパプア・ニューギニア国の首都)を攻略しようとしました。

一方、連合国側にとっても、ポートモレスビーは、オーストラリア本土防衛のため、絶対に守りぬかねばならない拠点でした。

昭和17年(1942年)3月7日、ガダルカナル島よりも先に、ニューギニア島東部の北岸・ラエサラモアに日本軍が上陸して、戦闘が始まりました。

ニューギニアに上陸した日本軍将兵は20万人、総指揮官は安達中将。これに対してアメリカ・オーストラリア軍はこれを上回る兵力を当て、マッカーサー総司令官が直接指揮をとったといわれます。

          ブナでの戦闘
                   ニューギニア島ブナ地区での戦闘

ニューギニア島は世界第2の大きな島で、当時は全島が熱帯雨林と湿地帯に占められる、未開の土地でした。そのため、両軍とも、戦闘とともに、過酷な環境とマラリア・デング熱などの病気に悩まされ続けました。

食糧・武器・弾薬の補給が乏しくなった日本軍は、現地で採れるサゴ椰子のでん粉や、トカゲ・ヘビ・野ネズミなどの野生動物まで食べて、飢えをしのきながら、各地に分散して戦闘を続けました。

昭和18年(1943年)12月15日、連合軍がニューブリテン島西部に上陸占領してからは、ラバウルからニューギニアへの物資の補給は全く途絶えました。

          ニューブリテン島への上陸
                 ニューブリテン島に上陸する連合軍

補給基地が近い連合軍は、軍用食もよく補給されて、結局は、敢闘精神よりも食糧が勝敗を分けたそうです。

それでも、日本軍のほとんどはニューギニアから撤退せず、昭和20年(1945年)8月まで、島内各地で戦闘を続け、日本敗戦の報を受けてから、現地で降伏しました。

軍司令官・安達中将は、現地で降伏の手続きを終えたあと、ラバウルに収容されて、戦犯容疑で残された部下を弁護しました。

敗戦から2年後、すべての部下将兵が日本に帰還したのを見届けてから、安達中将は従容として自決しました。武人としての立派な最後でした。

                 安達中将
               ニューギニア派遣軍司令官・安達中将

20万人を超える日本軍将兵のうち、日本に帰国できたのは、約2万人と聞いています。

戦後、ニューギニアから帰還した人に話を聞く機会がありました。その人は多くを語りませんでしたが、

ニューギニアで生き残れたのは、若さや体格や軍の階級ではない、将兵一人一人の気力と運だ

と言いました。

 





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最終更新日  2010年10月14日 15時44分14秒
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