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建物疎開 とは、空襲による延焼を食い止めるために、都市の道路の幅を広げたり、重要な建物を残すために、周囲に空き地を作ることをいいます。
そのためには、現在建っている住宅などに住んでいる人々を立ち退かせ、建物を取り壊さなくてはなりません。これには、住民の大きな犠牲が伴います。一方、差し迫った空襲に備えるのに、事は急を要します。 昭和19年(1944年)7月、京都市で 建物疎開 が始められました。御池通・五条通・堀川通 の拡幅が決まりました。道幅 5m を 50m に広げるというのです。道路のどちら側が立ち退かされるのかが、そこに住んでいる者にとっての大問題でした。 私の家も五条通 に面しているので、家中が不安に包まれました。結局、御池通・五条通 は南側、堀川通 は川の西側が、立ち退かされることに決まりました。 しかも、ごく少ない金額で土地と家屋を強制的に買い上げ、わずか10日間ほどのうちに、自分で移転先を見つけて立ち退け、という命令です。 私の家では、ほっとしましたが、向かい側の人々は大変でした。空襲対策とはいえ、こんな過酷な決定をどこでだれが決めたのか、と思いました。おそらく、軍が行政に指示して、強制立ち退きを決めたのだろうと思います。 立ち退きが終わるとすぐに、市内の各町内会などに取り壊しの勤労奉仕を割り当てて、建物の撤去が始まりました。勤労動員中のわれわれ中等学校の学徒にも、勤労奉仕への参加が割り当てられて、出動しました。 私のクラスの出動のときに割り当てられたのは、三条あたりの堀川通 でした。当時、パワーショベルのような機械はもちろん無く、すべて人力で家を取り壊すのです。 まず、本職の者が屋根に上がって、瓦を下に落とし、次に二階の隅柱に太い縄をくくりつける、この縄をわれわれが大勢で、ヨイショ ヨイショ と何回も引っ張る、すると、家は次第に傾いて、ついに土煙を上げて倒れる、こんな作業を繰り返しやりました。 強制建物疎開での民家の引き倒し(出典 おおつき通信) 倒れて砕けた木材は、勤労動員に参加した者たちの、自宅の燃料用にもらうことができました。当時、都市ガスはありましたが、まだ、かまどと七輪(しちりん)が炊事の主役でした。燃料の割り木の供給が乏しくなっていたので、皆が廃材をたくさんかついで帰りました。 細かい木屑やゴミは、現場の数箇所に集めて燃やし、疎開あとは、家の基礎やコンクリートなどがむき出しになって残る空き地となりました。 家屋の引き倒し作業のとき、少しはなれた場所で、涙を拭きながら、家の倒れるのを見ている人がありました。きっと、その家の持ち主・住人だったのでしょう。先祖伝来の家を強制的に取り上げられ、引き倒される光景。それをじっと見つめていたのでしょう。 そのときは、戦争だから、国の方針だから、仕方がないことだ、と思っていましたが、立ち退かされる住人にしてみれば、ほんとにむごいことでした。 現在の堀川通・堀川三条附近 (株式会社・京老舗 岡重 提供) 御池通・五条通・堀川通 の三つの通りの疎開あとは、何年もそのままになっていましたが、のちに整備されて、立派な広い道路になりました。しかし、私は、その後も堀川通 を通るとき、建物疎開で涙を流していた人を、いつも思い出していました。 昭和20年(1945年)になっても、部分的な建物疎開が継続され、上京区の私の父所有の貸家数戸も、国民学校(小学校)に隣接しているとの理由で、強制建物疎開の対象にされました。 借りている人が立ち退かされて、屋根瓦が落とされたところで、敗戦となって建物疎開 中止。建て直しも取り壊しもできず、しばらくそのままにしていましたが、結局、安値で売却せざるを得なくなりました。 “国家権力というものは、その国家体制が崩壊する直前に、自国民に対してもっとも強大となる” これが、強制建物疎開で、私の知った教訓です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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