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今日のブログで書くことは、私の体験ではありません。敗戦後ずいぶん経ってから国民が知った、日本降伏最終決定のいきさつです。 戦前の大日本帝国の政治形態は、現代とは違って、天皇が統治する国でした。実際は、天皇とその周辺の、いわゆる国の上層部が決めて、必要なことは国民に命じる、または知らせる、という形をとっていました。 昭和20年(1945年)8月、広島と長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦布告と侵攻、という決定的な打撃を受けて、8月9日の深夜、天皇臨席での最高戦争指導会議が開かれました。 この夜の会議では、 「もはやポツダム宣言を受諾するほかはない」 と言う東郷外相と、 「ポツダム宣言には、天皇制存続についての保証がない」 と、無条件での受入れに反対する阿南(あなみ)陸相との意見の相違がありました。 鈴木首相に促されて、昭和天皇は、 「それならば自分の意見を言おう。自分は外務大臣の意見に同意である」 と発言しました。そして、陸軍の言う本土決戦には心配しており、このままでは日本民族が全滅するおそれがある、忍びがたいが戦争をやめる決心である、との旨を述べました。 8月10日、日本政府は、”国体護持” を条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国を経てアメリカに通告。翌11日、連合国側は、 「日本の政体は、日本国民の意思により決定される」 「降伏時から、天皇・日本政府の統治権は、連合国軍最高司令官に従属する」 と回答してきました。 この回答を受けて、また、”国体護持” の論議が蒸し返されました。陸軍強硬派は ”国体護持” が保証されなければ、ポツダム宣言は受諾できないと、クーデターも辞さない構えを見せました。 鈴木首相を始めとする和平派は、 ” 天皇の名で宣戦して始めた戦争を、軍や国民が納得する形で終わらせるには、 天皇にさらなる聖断を下してもらうほかはない ” として、8月14日、再び御前会議を招集しました。 ポツダム宣言受諾を決めた御前会議(絵) ここでも、また、和平派と軍部とで意見が分かれました。鈴木首相は、天皇に最終決断を求めました。 昭和天皇は、ポツダム宣言全面受諾を明言し、国民に呼びかけるためには、自分もマイクの前に立つと発言しました。これで戦争終結のすべてが決定されました。 同日付で、終戦の詔書が発布されました。詔書は8月10日以後、内閣書記官長・迫水久常らがひそかに作成していました。 昭和天皇の肉声の詔書朗読の録音は、この日の深夜、宮中の天皇執務室で行なわれ、録音レコード2枚は厳重に保管されました。 外務省はすぐに、スイスとスェーデンの日本公使館経由で、” ポツダム宣言受諾” を連合国側に通告しました。しかし、8月14日の時点では、まだ日本国民には何も知らされませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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