1612287 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

chusan55

chusan55

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

コメント新着

 hijimasako@ Re:敗戦後の学校・・・2学期始まる・・・菊池校長(02/04)  こんにちは。戦後のことをよく知ってい…
 たかさん@ Re[1]:黒部ダム完成・・・想い出は湖底に沈む(10/25) flamenco22さんへ 今はダムの底にある平…
 non@ Re:朝鮮戦争始まる・・・レッドパージ(05/23) それはマッカー”サー”ではなく、マッカー”…
 アイリッシュタイムズ@ Re:七人の侍・・・黒澤映画の最高傑作(07/27) この映画を名画座で年始に見て、コロナ禍…
 背番号のないエース0829@ Re:憧れのハワイ 「堂々と公演 !! ~ 沖縄県立八重山農林…

フリーページ

ニューストピックス

2011年06月08日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

さて、また、話を昭和26年(1951年)の昔に戻しましょう。

昭和26年(1951年)4月11日、びっくりするようなニュースが流れました。アメリカ大統領・トルーマンマッカーサーを解任したのです。まだ朝鮮戦争が途中だというのに。


                 トルーマン
                    アメリカ大統領・トルーマン

ところが、マッカーサーはすぐにこの解任を受入れ、わずか5日後に日本を離れて、家族とともにアメリカに帰国しました。日本占領連合国軍最高司令官の後任には、リッジウエイ中将が任命され、大将に昇任しました。


         マッカーサー解任を報ずる新聞
          マッカーサー解任・リッジウエイ着任を報じる新聞(世界通信)

マッカーサー解任の理由は、公に報道されませんでした。元々マッカーサーは、アメリカの民主党の方針とそりが合わなかったようです。

しかしマッカーサーは対日戦争でアメリカに勝利をもたらした英雄とされ、トルーマンもよほどの理由がなければマッカーサーを更迭することができないのだ、と言われていました。

それをあえて解任したのは、マッカーサーが中華人民共和国の領土となった旧満州を爆撃し、場合によっては核攻撃も辞さない、との構えを見せたからだといわれます。

旧満州には日本が建設した工業施設・軍事施設や武器弾薬が多く残されていて、それらが中国軍に利用されている、それをたたき潰さなければ

というのがマッカーサーの意見でした。しかし、その作戦は、中国との全面戦争に発展しかねない、とトルーマンは危惧(きぐ)したようです。

マッカーサーはアメリカに帰国後すぐ、4月19日にワシントンの上下両院合同会議で、有名な退任演説をしました。そのなかの、

   「Old soldiers never die,they just fade away老兵は死なず、ただ消え去るのみ)」

がよく知られています。ただ、これはマッカーサーの造語ではなく、アメリカ陸軍の古い兵隊ソングからの引用でした。自分の解任に対しての、痛烈な皮肉も込めていたのでしょう。


         マッカーサー退任演説
             上下両院合同会議で退任演説するマッカーサー

マッカーサーは、戦時中と敗戦直後は、日本人から見て 「憎っくき敵軍の総大将」 でしたが、戦後6年にわたる占領中に、次第に日本人の信頼を得て、離日の時には、沿道に20万人の群集が詰め掛けて、別れを惜しみました。敗戦後の6年間、彼は事実上日本の統治者でした。


アメリカでも、ワシントンで50万人、ニューヨークで700万人がパレードに集まって、彼の凱旋を祝福したとのことです。マッカーサー、このとき71歳。

マッカーサーの後任として連合国軍総司令官になったリッジウエイは、就任した期間も短く、日本人はなじみを持ちませんでした。


                    リッジウエイ
                        リッジウエイ

            * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

こののち、マッカーサーを共和党の大統領候補にしようとする動きもありましたが、高齢のため実現せず、昭和27年(1952年)11月のアメリカ大統領選挙では、マッカーサーの元の部下で、ヨーロッパ戦線での連合国軍最高司令官を務めたアイゼンハワーが当選しました。


            マッカーサーを訪問した 吉田 茂
               引退後のマッカーサーを訪問する吉田茂
                   (1954年・出典 Wikipedia)


昭和39年(1964年)4月5日マッカーサーは日本の再発展を見ながら、老衰による多臓器不全のため84歳で死去。アメリカの偉人として国葬が執り行われ、日本からは、代表として吉田茂が参列しました。

   





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011年06月08日 11時28分43秒
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.